表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/60

 7の2 ボタニックガーデン

 ホテルの事務所に出勤すると、僕はデスクに座って手帳を開いた。今日の予定がぎっしりと綴られている。文字を目線で追いかけて案件を確認しているうちに、どうしたことか行間が白く浮き上がり、そこに新たな文字が浮かび上がった。

 それは昨夜、ベッドに横たわりながら読みふけっていたボーボワールの一文ではないか。


 女は女として生まれるのではなく、女になるのだとボーボワールは女の性を分析している。恋する女の最高の幸福は、恋する男によって、男自身の一部だと認められることだと論じている。


 女になりたいと叫ぶ声が聞こえる。火焔樹の下にうずくまって見上げる黒い瞳が、ガンダーラの幸せを求めて手を差し伸べているではないか。

 手帳をパシリと閉じて目をつむると、僕の魂がボーボワールに呼応した。


 そうだ、ロマン・ロランも力説していたではないか、愛は信頼の行為であると。そして、恋は決闘であると。右を見たり、左を見たりしていたら敗北だと、ロランは断じていたではないか。よし、真っ直ぐ前を見よう。


 デスクにコツンと音がして目を開くと、事務の女性がコーヒーを運んでくれて、おざなりの挨拶をして背を向けた。

 事務所のドアが開き所長が出勤して来て、ボーボワールもロランもたちまち消えた。



 僕はひたすら、休日になるのを待ちわびた。手帳を閉じて目に浮かぶのは、ボタニックガーデンのそばの白い家だ。きっと彼女はガーデンを散策しながら、ヤシの木陰で燃えるような夢を見ているに違いない。


 いよいよ待ちかねていた休日になり、パンを頬張り牛乳を啜って朝食を済ませると、流しのタクシーをつかまえてボタニックガーデンへと向かった。

 ベンチに座って彼女を待ち受けるまで、心を落ち着かせる為に一冊のボーボワールを手にして出かけた。


 ガーデンの入口付近には、日焼けした男たちがのんびりとした風情で棕櫚の木陰にたむろしている。彼らは各々の自転車の荷台に、黄や白濁の果汁で満たされた瓶を乗せて商っているのだ。

 小さなコインを一つ渡して、コップに注がれたココナツジュースを一息に飲んだ。純度百パーセントの果汁が嗄れた喉を潤した。


 入口を入ると緑地のオアシスが広がる。刈り込まれた芝生を踏みしめながら歩いて行くと、広場を見渡すようにベンチが所どころに据えられている。人間に慣れきっているのか餌を求めているのか、子猿が藪の中から姿を現し芝生を横切る。


 休日のボタニックガーデンは家族連れや若いカップルで喧噪になるのだが、朝の早いうちなら風が肌に爽やかで、ゆったりとくつろぎの時間を享受できる。だからこそ、ガーデンのすぐそばに住んでいるマハラジャの才媛が、これほど素晴らしい時間と空間を些末にするはずがない。

 教養を深めるために必ず彼女はここに現れて、哲学の書物を開いてココヤシの葉擦れに亜麻色の髪を梳かすに違いない。


 見渡せば鬱蒼とした樹林の緑が、遠く山となってすさんだ心をなごませてくれる。誰もいない広場のベンチに腰を下ろして、手に持っていたボーボワールの頁をそっと開いた。そして活字を目で追った。

 活字を追って頁をめくってまた追った。ただ追っているだけで読んではいなかったから、脳細胞は目まぐるしく戸惑っていた。


 頁を開いたまま目を閉じた。宿命とは何かと己に問うた。それは愛だと真摯に答えた。出会いとは何かを深く考えた。それは神が導く運命の糸だと固く信じて疑いもない。

 神とは何かを考えた。それは天国や地獄を支配するような、人間が都合よく作り上げた俗物ではない。一人ひとりに神は寄り添っている。そして運命の糸を操っているのだ。互いの神と神が出会う時、運命の糸は真っ赤に染まるのだ。


 しばし瞑想したのち瞼を開くと、何としたことか、開いていたボーボワールの頁から活字が消えて、大宇宙を枢軸として緻密な曼荼羅が描かれていた。その中心にはガンダーラの黒い瞳がうずくまり、紙面がグルグルと回転を始める。


 僕はやるせない攪乱の誘惑にさからえず、ボーボワールをパサリと閉じて立ち上がり、ガーデンの横合いの木立の隙間を分けて住宅地へと通じる小道に出ました。


 大きなガジュマルの木陰から白いモルタルの家をうかがっていると、開け放たれた二階の窓に人の動く気配がありました。彼女に違いありません。


 おおそうだ、僕がここに居ることを、彼女に知らせてあげなくてはいけない。彼女は僕が現れるのを、ときめきの胸を焦がして待ちこがれているはずだから。


 僕は手に持っていた書籍の一頁を切り裂いて、短い愛のメッセージを書き記しました。小石を包んだ恋文のつぶてを、窓に向かって放り投げたのです。

 窓から身を乗り出したのは、彼女ではありませんでした。僕は慌ててカジュマルの木陰に身を隠しました。


 脈は高まり血管はうねり、頭蓋骨の中ではあちこちの浮腫が破裂したかのように、臆する弱気と鋭意の決意がない交ぜとなっておりました。思考のバランスは失われ、どうすれば良いのか判断できずに、じっと木陰に立ちすくんでいるだけでした。


 玄関からインド人らしき若い男性が飛び出して来ました。僕は急いで駆け出してガーデンの中へ走り込み、深い茂みの中に身を隠しました。

 そこで息をひそめながら考えました。たとえ僕の心の叫びが彼女に届いたとしても、蒙昧な家族に拘束された彼女は籠の中の小鳥のごとく、会いに出ることさえできずに心を悩ませているに違いないのだと。


 僕はいったん引き下がることにしました。閉ざされた籠をこじ開けることはできないので、神の定めるチャンスを待とうと決めました。


 

 ― 神の使い ―


 そして次の日曜日、僕は再びボタニックガーデンを訪れたのです。


 ガーデンの風は爽やかで、棕櫚の小道を散策しておりますと、一匹の子猿が飛び出してきました。僕が邪険に追い払いますと、子猿は広場のベンチを指差したのです。

 何ということでしょう、子猿の指差す先に見えたのは、神秘と憂いをたたえたマハラジャの妖精、ガンダーラの黒い瞳だったのです。その瞳が、じっと僕を見つめていたのです。


 そうです、子猿は神の使いだったのです。僕は神の声を聞きました。宿命の赤い糸は放たれたのだ。さあ、決着をつけるのは君なのだよと、神は僕に告げたのです。

 僕はボーボワールを胸に抱き、はっきりと、くっきりと、がっちりと、食い入るように彼女の瞳を見つめ返しました。


 彼女は開いていた書物の頁にあわてて視線を戻しましたが、その目が活字をとらえていないことは明らかでした。歓喜の当惑に乙女の肢体は硬直し、小刻みな震えが彼女の喜悦の激しさを示していたのです。


 僕はときめきを抑えるためにゆっくりと眼を閉じて、あらゆる雑念をふりはらい、真摯に彼女の言葉を待ちました。


 聞こえてきました。次元を超えて無限の大気の狭間を抜けて、彼女の魂から発せられる愛のメッセージがテレパシーとなって感応したのです。

 地球が生まれ、地殻が変動し、初めて地上に魂が生存したころ、彼女は熱い国の風に乗り、僕は寒い国の雲に運ばれ、二人は蝶のように舞っていました。

 二つの魂が愛の気流に溶けて交合し、二つの形骸となって遊離したとき、彼女は天に昇り、僕は地に落ちたというのです。


 烈火の愛が久遠の時の刻みを狂わせて次元がゆがみ、真赤に燃える運命の糸がマウントフェーバーの丘の上からスルスルと垂れ下がったのです。

 取り戻すべき愛を再び引き裂かれることのないように、情熱の鎖をつむいで欲しいとガンダーラの魂は訴えていたのです。

 僕の網膜に稲妻が光り、ドクドクと高鳴る動脈流が右心室と左心房を行ったり来たり飛び跳ねていました。


 ゆっくりまぶたを見開くと、彼女の姿はベンチから消えていました。もはや逡巡も気負いもありません。僕は毅然として背筋を伸ばし、白いモルタルの家へ駆けて行きました。

 息を切らせながら樹林を抜けて二階を見上げると、すべての窓は閉ざされておりました。


 僕は迷わず玄関のブザーを押しました。現れたのは彼女の母親でありました。マハラジャの妻としての、気品と孤高さを漂わせておりました。


 僕は名刺を渡して名を名乗り、日本の将来をになう優秀な銀行員でありますと申しました。そしたら、何しに来たかと問われましたので、彼女と僕の永久の時を隔てた愛の必然について語りました。


 しかし、因果をわきまえぬ愚昧の心にはばまれて、母上は僕の説得を理解できず、どうしても彼女に会わせてくれませんでした。


 必ず分かってもらえる時が来る。信じ合い、喜び合える時が来る。永遠の絆の見える時が来る。それまで待ち続けます。また来ますと言い残し、涙をぬぐって僕は母上の前から立ち去りました。



 翌日の午後、僕は所長に呼ばれました。彼女の母が所長に電話をかけてきたそうです。所長は僕に言いました。ストーカー行為をやめなさいと。さもないと君は刑務所にぶち込まれ、わが銀行の名がマスコミに吊るし上げられて国際問題となり、私たちの人生も将来も失われてしまうのだぞと。


 そうです、所長は誤解していたのです。だから僕は所長にすべてを打ち明けました。無常の摂理と因果応報と輪廻転生の奇跡の確信について。


 そうか、よく分かった。実によく分かったぞと、聡明にして寛容なる所長は大きくうなずいて理解を示してくれました。さっそく、僕はバラの花束を買って彼女に届けようと決心しました。



 その翌日のことでした。所長に呼ばれて転勤の通告を受けました。所長は喜色満面の笑顔で言い放ちました。


 いや突然の辞令だが、おめでとう。君がいなくなると私としては大変困ってしまうのだが、君の将来を考えると喜ばしい栄転だ。米国へ飛び、ロサンゼルス事務所開設のために、シンガポール事務所開設のノウハウを生かして尽力してくれたまえ。出発は三日後だ。いや、ご苦労さん。


 そして翌日には、ロサンゼルス赴任予定だったという男を、シンガポール空港まで出迎えに行きました。


 僕は業務の引き継ぎに追われて彼女にバラの花束を届ける時間さえ与えられず、泣く泣く日本へ追い返されました。

 僕はふてくされた気持で十日間を日本で過ごした後に、ロサンゼルスへ発ちました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ