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 7の1 シンガポール

 日本から進出していた企業の数は、香港ほど多くはありませんでしたが、東南アジアの金融センターとしてシンガポールの重要度は増していたのです。


 銀行の駐在員事務所における活動は、情報収集だけに制限されていましたので、支店のように銀行業務を行うことはできませんでした。だからどこの駐在員事務所でも、所長と部下と現地雇用の事務員だけいれば充分だったのです。


 僕に課せられた仕事は、日本から進出している企業の事務所を訪問して回ることでした。海を臨むジュロン工業地帯には、船舶修繕ドックや石油精製プラント、機械、タイヤメーカーなどの工場が集まっていました。


 日本から訪れる顧客の接待も、僕たちの大切な業務でした。月曜日から打ち合わせを始める出張者も多いので、日曜日に空港まで出迎えに行く事などはしばしばでした。


 シンガポールは多民族が混在する国家ですが、中国人が主体だったので清潔と治安は徹底して守られておりました。

 海峡を吹き抜ける潮風が高温多湿を和らげてくれたので、長期の滞在にも不満はありませんでしたが、季節感が全く無いために、あの出来事が夏だったのか、冬だったのかというような、記憶の時節や区切りがあいまいになることだけが悩みでした。


 灼熱の太陽は強烈ですが、スコールが地面を冷ましてくれます。夕日が棕櫚を赤焦げに染め抜くと、南十字星が薄昏の空に煌めきを放つのです。



 久々に仕事を早仕舞いした僕は、セントーサ島を眼下に見下ろすマウントフェーバーの丘の上から、南十字星を見上げて物思いにふけっておりました。


 手すりの並びには、ハイスクールの制服を着た二人の乙女が楽し気にはしゃいでおりました。二人はきっと、クラスメートなのでしょう。

 少女の一人がふっと流し目で、僕の視線をかすめたのです。


 その時です。どうか聞いて下さい、僕は世にも不思議な光の海に導かれたのです。群青の空を切り裂く流星が、銀色の光輝を一閃させて、黒い瞳のヴィーナスを引き寄せたのです。


 僕は運命の声を聞きました。海峡を見下ろしてはしゃいでいる少女の瞳こそが、運命の赤い糸だと知らされました。彫りの深い目元の窪みと、気丈そうな漆黒の瞳は、まさしくガンダーラの血を継ぐマハラジャの令嬢に相違ないと僕は確信したのです。


 僕はとろけるような眼差しで、モナリザのごとき黒い瞳をハッシと見つめました。見つめ返した少女の瞳には、甘美の潤いがほとばしっておりました。


 どうか信じて下さい、彼女の心の叫び声が、僕の魂に語りかけてきたのです。誠の愛を下さい……と、魂に人種の隔たりはない……と、それは何と申しましょうか、テレパシーのようなものでした。


 彼女は熱き想いを抑えて視線をそらし、再び友人とのおしゃべりに夢中になりました。だからといって焦る必要はありません。赤い糸を紡いだのが神であり宿命ならば、出会いのきっかけが用意されているのは必定ですから。


 思った通りでした。海峡から吹き上げた一陣の疾風が、少女の麦わら帽子をふわりと浮かせて足元に落下させたのです。

 機をうかがっていた僕は、素早く少女の足元に駆け寄り手を伸ばしたのですが、帽子は一瞬早く彼女に拾い上げられてしまいました。


 彼女は驚いたように立ちすくみ、怪訝な表情で僕を見下ろしておりましたので、僕は惑うことなく姿勢を正し、彼女を食事に誘ったのです。

 彼女を救わねばならないという使命感に突き動かされたのです。時空を隔てた次元の狭間のはるか彼方から、僕たちは永遠の赤い血の糸で結ばれていることを、しっかりと二人で確かめ合わねばなりませんでしたから。


 彼女は聞こえぬ振りを装って、先の手すりへと移動しました。僕は慟哭の想いに身を固くして、彼女がたたずむ手すりの方へじわりじわりと近づきました。

 僕の動きに気付いて動揺したのでしょうか、彼女は友人とレストハウスの方へと一目散に走り去りました。


 たじろぐことなどありません。乙女の恥じらいだと思いやれば、当然の行為でありましょう。だから構わず僕もレストハウスに駆け込んで、彼女の姿を見つけると凄まじいまでの熱視線を浴びせたのです。


 彼女は友人の女性と一緒に女子トイレへと逃げ込んでしまったので、その前で、僕はいつまでも出て来るのを待ち構えておりました。

 しばらくして友人の女性が様子を窺うように、トイレから半身を出して険しい目つきで問いかけてきたのです。


「彼女に何か用事があるのですか?」

 ふくよかな体躯をした友人の女性は、眉の太い中国系だと思われました。その女性にきっぱりと告げました。

「僕は彼女と話をしたいのです」


「あなたは誰ですか? 何を話したいのですか? 彼女はあなたを知らないと言っています」

 僕は太い眉の眼前に右手の人差し指をそっと立て、ゆっくりと首を左右に振って諭しました。


「僕と彼女の魂は、今世に生を受けるずっとずっと前から運命の糸で結ばれているのです。一万光年を隔てた輪廻の宿命を、彼女に気付かせてあげなければならないのです。さもなければ、幸せだった愛の契りに覚醒したその時、救いを求めてさまようことになるからです。君には理解できないだろうが、僕の瞳に彼女の魂が抱合し、永劫回帰のひらめきとなって運命がさかのぼり、求め続ける愛の軌跡が天空の鏡に描かれたのです。そのことを彼女に教えてあげなければならない。だから、邪魔をしないでもらいたい」


「あなたの言っている事がさっぱり理解できません。とにかく今日はおとなしく帰って下さい。彼女はおびえているので、家に帰して下さい」


「分かりました。彼女に時間を与えましょう。僕は日本の銀行家です。怪しい者ではありません。彼女のアドレスを教えて欲しい」

「ダメです」


「どうしてダメですか。君には永遠の愛の摂理が分からないのだ。君に僕たちの愛の幸せをさえぎる権利なんかない」

「知りたければ直接聞いて下さい。日曜日には家族でシティホール近くの教会へ行きますから」


 僕は仕方なくうなずいて身を引くことにしました。そして、待たせておいたタクシーの後部座席に乗り、身をひそめて彼女の行動を見張りました。タクシーの運転手に多めのチップを渡して、彼女が乗り込んだ車を尾行させたのです。


 彼女を乗せた車はマウントフェーバーをゆっくり下ると、ブキティマ通りへと入り、しばらく走るとボタニックガーデンの手前を右折して、閑静な住宅が建ち並ぶ路地へ入って停止しました。


 モルタルの家の前で彼女は降り立ち、車は友人を乗せたまま走り去った。瀟洒な白いモルタルの玄関口に彼女の姿が消えるのを見届けて、僕はアパートへ戻りました。



― モグラ ― 


 世の中の人たちはおしなべて、傲慢にも己を過大評価しているに違いない。都合が悪くなれば自己憐憫に酔いしれて、平気で他人を卑下して切り捨てる。

 過信して、慢心して、突っ張るから、ほころびが出て嘘をつく。驕りから出た嘘に追い詰められて、神経を切り刻まれる奴もいれば開き直ってつけ上がり、諸刃の拳を振りかざす奴もいる。


 土の中でこそ生息できるモグラのくせに、外界を見たくて迂闊にも、灼熱の太陽の光を浴びれば命を失う。そんな事は誰でも知っているはずなのに、知らない振りを装って反駁する奴がいる。それは自分自身がモグラだから、鏡を前にしても自分の姿が見えないからだ。


 人は常に錯覚している自分に気付こうとしない。山も大地も不動だから、太陽が昇り、また沈むから、自分も地球も動いていないと錯覚している。はたして、その錯覚は間違っているのだろうか。


 自分を支配してきた環境や、知識や経験だけを根拠に、物事を判断し推測するのが通り一遍の馴染みだろうが、中には異常な染色体による突然変異によってあらゆる状況を判断するがゆえに、ひん曲がった脳を正常に戻せなくなる変質者がいる。


 変質者は自分を変質者と認めない。光を求めるモグラのように。過大評価に加えて不遜だから、挫折という概念を持ち合わせない。錦小路京麻呂は、はたして変質者なのだろうか。


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