6の16 義弟の手紙
私は検察官に死刑を求刑されたんだけどねえ、今度こそ嘘泣きじゃあなかった、私の本当の涙が、裁判官の慈悲の心を動かしたのかねえ。無期懲役に減刑されたよ。
「ところで姉さん、あんたの義理の弟ってえ奴も死んじまったのかい?」
冴子は健吉に問いかけられて、嚙みこなした煮蛸をビールの勢いで喉に流し込んだ。
「義理の弟はねえ、その夜は夜勤で家にいなかった。二階で寝ていた義弟の嫁は、大火傷を負いながらも助け出された。孫娘は母に抱かれて死んでしまった」
「そうか、義弟夫婦は助かったのかい」
「その義弟からねえ、拘置所にいた私あてに一通の手紙が届いたんだよ」
「ほう、家を焼かれた義弟から手紙かい。親父を殺され、お袋と娘まで焼き殺されたんじゃあ、穏やかじゃ済まされねえもんなあ。もっとも、親父殺しは知らされていないかもしれねえが。それで姉さん、どんなことが書かれていたんだい、その手紙には」
下顎をなでながら興味深く健吉が問いかけると、冴子はコップのビールをグイッと飲み干して天井を見上げた。
一字一句を思い浮かべるように目をつむり、コクンと喉を鳴らして口を開いた。
義姉殿
思いがけない事件に僕の心は錯乱し、なぜこのような悲劇に見舞われたのかを考え、苦悶しております。
妻は半狂乱で、娘の面影を偲んで苦渋しております。僕も同様に、あなたの所業に対する怨念と、母と娘を失った悲嘆に胸をかきむしられる思いであります。しかし、どうしてもあなたに伝えなければ、心の決着がつかないと考え、思い切って筆をとりました。
母の獄中に僕は生まれ、すぐに施設にあずけられたのです。母が出所して僕を迎えに来たのは十歳になった時でした。母は前科を隠して博多の夜の街で働きました。そして、僕を高等学校と大学まで行かせてくれました。
僕にはどうして父がいないのか。なぜ僕は施設に入れられていたのか。僕の十七歳の誕生日に、ようやく母は話してくれました。僕に義姉がいることも、そのとき初めて知りました。
母が刑務所を出所した日、まず最初に、あなたがあずけられていた施設を訪れたそうです。あなたはすでにいなかったので、施設に記録されていた静岡県熱海市の連絡先に電話を入れたそうですが、使用されていない電話番号だったそうです。
母は、あなたのことを諦めて、次に僕を迎えに来たのです。でも、母はくどいように僕に言い続けました。義姉は必ず母のもとへ帰って来ると。きっとどこかで悲しい思いをしているに違いないから、母の出所を知れば肉親の温もりを求めて必ず帰って来ると信じておりました。
父は違っても同じ血がかよった姉弟だから、仲良くして欲しいと母は僕に言い聞かせました。目が悪くてビッコの身体だから、どこへ行っても辛い思いをしているに違いない。すべて私の責任だから、だから必ずやさしく迎えてやって欲しいと、涙を流して懇願しました。
母が一生懸命頑張って、僕を大学まで行かせてくれたのも、あなたが帰って来た時に、きちんと迎えることができるような生活の基盤を、僕に築いて欲しかったからだと思われます。
僕は前科者の子供として、随分いじめにあいました。僕の母が前科者であることを、自分が知る前に他人の子供が知っていたのです。
先生に聞いてもいいかげんな返事しか返ってきませんでした。ですから、孤独な僕は、何でも語り合える兄弟や姉妹が欲しいと夢を描いておりました。
義姉のあなたも孤独に涙を流し、肉親の愛を求めているのかもしれないと思いました。だから、母が信じていたように、僕もあなたが母のもとへ戻って来ることを祈っておりました。心から待っていたのです。
飯塚の県営アパートの窓越しに、視線を合わせた女性が義姉であることを僕は直感しました。僕は身が震えて立ちすくみ、どうして良いか判断もできずにうろたえました。そして急いでドアを出て、周囲を見渡したのですが、あなたの姿はすでに無かった。
僕がお伝えしたかった事はこれだけです。 義弟より
「なんだい姉さん。それじゃあ放火なんかすることはなかったんじゃねえか。お袋にあたたかく迎えられ、義弟と仲良く暮らせるチャンスを自分で潰してしまったんじゃねえか」
「そう思うかい、健吉さん。私にはねえ、どうしてもそうは思えないんだよ。義弟がわざわざ手紙を書いてまで、私に訴えたかったのは、最後のくだりじゃあないかと思うのさ」
「最後のくだりってのは、どういう意味だい?」
「飯塚の県営のアパートでねえ、私のことを義姉と気づいてやさしく迎える気持が少しでもあるのなら、すぐにでも追っかけて来るはずじゃあないのかい。周囲を見渡したって言うけど、私の足はビッコだから、飯塚の駅までの道のりがあれば、いくらでも追いつけるんだから。だけど彼は追っかけては来なかった。それはなぜか。それを私に言いたかったんじゃあないかってね」
「そりゃあ姉さんの思い過ごしじゃないのかい」
「私は思うんだよ。義父を殺したのは母ではなくて私だってことを、彼は気づいていたんじゃないかってね。私を心から待っていたと嘘をついて、死ぬほど苦悶の後悔をさせてやろうという魂胆が、この手紙の裏側に感じるんだよ。公判の法廷でねえ、彼は氷のような冷たいまなざしで私をじっと睨みつけていたんだよ。とても清らかそうな瞳だったけど、憎悪と怨念に満ちた眼光だった。黒い水晶玉の深奥に、恐ろしい魔物がいるようで、私の背筋は怖気づいてすくんでしまったよ」
「そりゃあ姉さん、そいつの可愛い娘が放火の巻き添えをくらって殺されちまったんだから、あんたを恨むのも無理はねえんじゃねえのかい」
「だけどその眼光はねえ健吉さん、人間を逆恨みする手負いのヒグマのように、復讐に燃えた憎しみのかげりを帯びていたんだよ。義父と同じ陰惨な赤黒い血の臭いを感じたんだよ。それはねえ、飯塚の県営アパートで彼と初めて目を合わせた時、ほんの一瞬だけど感じた怨恨の炎と同じだったんだよ。私にはどうしても、思い過ごしとは思えないんだよねえ」
「なるほどねえ。姉さんの勘が当たっているかもしれねえし、思い過ごしかもしれねえ。だけど、どっちにしたって義弟の恨み節に変わりはねえんだ」
「そうだねえ。生きなきゃならない人間が死んじまって、くたばらなきゃならないバカが生き残ってる。ふふん。人間の運命なんて理不尽なものだねえ」
「その義理の弟は、たまには面会に来たのかい? 気のきいた差し入れでも持ってよう、姉さん」
「冗談じゃありませんよ。差し入れがあるとすれば、カミソリの刃か毒入りの饅頭でしょうよ。さあ、私の話はこれでおしまいさ。次は京麻呂さん、あんたの身の上を聞かせておくれよ」
「冴子さん、まず一杯どうぞ。ささ、のどを潤して下さい。切ない話を聞かせてもらって、僕は思わず喉を詰まらせてしまいましたよ」
健吉が冷やかすような口ぶりで、煮蛸を挟んだ箸先を京麻呂に向ける。
「詰まらせるのは喉じゃなくて胸だろうが。もう夜もふけることだし、お前の与太話も聞いてやるけど、なるべく手短に要領よく、要点だけをかいつまんで話してみろよ」
「はいはい郷田さん、まだまだ宵の口じゃありませんか。窓に西日が残っていますよ。ほらほら、チクワがほどよく煮えていますよ。僕は海老の天麩羅をいただきますから」
「俺がチクワでお前が海老かよ。じゃあ、こっちの花咲ガニの炭火焼は俺が食うから、お前はイワシの頭でも食ってろ」
「ちょっと二人とも、箸で突っつきあうのはやめなさいよ。危ないでしょ、目玉を突つきあったら」
冴子が両手をあげて二人をいさめる。
隣のテーブルでも同様に、女囚を挟んで死刑囚と無期懲役囚の男たちが、不穏な手柄話に花が咲いて、大声で盛り上がっている。
時折、看守がビールの瓶を数本かかえてテーブルを回り、女囚のコップに注ぎ足している。東側のテーブル席では、酔っぱらって暴れ始めた囚人の男の脳天を、看守が警棒でぶん殴っている。
西の窓ガラスに撥ねる夕日が、天井から照らされるおぼろげな照明を抑えて、煮物の入った小皿の陰影をうっすらと描きだす。なおも三囚合同の懇親会は粛々と続く。