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 6の15 恩讐の果て

 博多駅で新幹線のホームに降り立ち、乗り換えて向かう先は飯塚より他になかった。

 車窓から眺める田舎の風景は何も変わらない。邪気も、毒気も、濁りも無いから、永遠に変わらないのかもしれない。 


 私は飯塚駅から足を引きずり、県営のアパートに向かった。どんな運命が待ち受けていたとしても、逃げ道は無いと覚悟を決めて歩き続けた。

 かつてマーさんが教えてくれた五階建てアパートの、西側の棟の一階の角部屋にお母さんが住んでいる。今度こそ玄関のブザーを押そうと決めていた。


 ようやく決心してたどり着いたアパートだけど、玄関の表札にも郵便受けにも、母の名前の表札が消えていた。


 動顛する気持ちを抑えて、隣の住人に母の転居先を尋ねてみた。そのまた隣の住人に訊いてみた。三軒隣の住人が教えてくれた。

 息子さんが立派になられて子供をもうけ、近くの一戸建てに引っ越して行かれましたよと告げられた。

 数年前に清らかな瞳で一瞥されたあの若者は、社会人となり、妻をめとり、一家の柱となっていたのだ。



 小川沿いの田畑を更地にして区画整理された一角に、こぢんまりとした青い瓦屋根の二階家が三軒並んで建っていた。電信柱に近い白壁の家がそうだと教えられた。


 そっと近づいて外観を見渡していると、居間らしき南側の部屋に蛍光灯の明かりが灯されて、レースのカーテン越しに室内の様子が浮かび上がった。

 幼い女児を相手に戯れている、着物姿の女性のシルエットが白いレースを透かしてはっきりとうかがえた。


「お母さん!」

 と、思わず私は電信柱の陰から口走っていた。孫と遊ぶ幸せそうな祖母の姿。まぎれもなく、老いた母の姿に間違いなかった。


 あの日、はからずも窓越しに目と目を合わせた義弟の顔を思い起こした。清らかな瞳だとその時は思った。今、その瞳に義父の恐ろしい眼光が重なった。


 思い出したくもない。満月の夜に流れ出た、忌まわしいぬめりの血潮が闇を染めた。同じ血潮がその幼い女の子にも流れているのだ。

 憎々しくおぞましい義父の血は、母の身体を貫いて義弟に流れ、孫として生まれた娘に悪鬼の黒い形見として受け継がれる。その娘を孫として母が抱いてあやしているのだ。


「お母さん、私の身体の中には、優しかったお父さんとお母さんの血が流れているんだよ。どうして私一人が疎外されてしまったの。お母さんがお父さんを捨てたからじゃないか。あの男が現われてから、私たちの運命の蝶番がはずれて、歯車の回る方向が狂い始めたんだよ。お母さん、もうやめようよ。私を一人ぼっちにさせないでよ。そんな場所にいてはいけないんだよ」


 私の胸に熱いものが込み上げて、ひょうたんのくびれのように心臓がキュイッとしめつけられた。


 血の塊のような火の玉が背筋を貫き、半盲の瞳が涙に濡れて視界がかすんだ。あふれる粒が頬を伝って流れ落ち、涙色に染まった地面を踏みつけた。

 母の姿が許せなかった。どうしてお母さん一人が幸せでいられるのか。その孫娘にはあの男の、あの恐ろしい義父の血が流れているのに。


 ずるいよ、ずるいよ、私を置き去りにするなんて。許されないよ、そんなのないよ、絶対に許さないよ。

 閉塞された心の叫びが、私の喉を引きちぎりほとばしり出る。


 異国の歓楽街のネオンの下で、見知らぬ男たちを相手に無常の銭を稼いでいた時も、孤独な思いを抑えて来られたのは、心のどこかに母の面影を慕っていたから、だから一人でも、どんな環境でも生きて来られたのだ。


 自分の消えた舞台の上で、どうして母だけがそんなに幸せそうに振る舞えるのか。お母さん一人だけでそんな幸せになってしまったら、私はどうして生きて行けばいいんだよ。


 間違っているよ。私がここに居るじゃないか。忘れちゃいないよね、お母さん。絶対に忘れちゃいないよね、お母さん。


 半盲の目から意気地なしの涙がポロポロと頬を伝って流れるうちに、絶望的な惨めさが衝動的な憤怒に変わり、亀裂の底に悪魔が宿った。

 私の頭の中を赤黒く焼けただれた嫉妬の渦が、非業の濁流となり逆巻いた。身も心も朽ち果てた狂気の烈火を鎮める理性は、もはや微塵も残されてはいなかった。



― 煩悶 ―


 夕刻になって私は金物屋でポリタンクを二つとマッチを買い求め、古くからの住宅が並ぶ一角に佇む小さなガソリンスタンドに向かって歩いた。そこではプロパンガスの宅配や灯油の販売も行っていた。


 二十リットル入りのポリタンクに灯油を満タンにして購入し、両手に持って引きずるように歩いては休みながら川沿いまでたどり着くと、小橋の欄干の隅に目立たぬように置いて、時間が過ぎるのを待った。


 たまに小橋を渡る人がいたが、私の存在を気にする者などいなかった。小川は黒く淀んでいて、どちらに向かって流れているのか見当もつかなかった。

 少し空腹を覚えてきたが、空を見上げていれば気にはならなかった。夜が深まるたびに月の輝きが増して、ちりばめられた邪気が舞い立つ。


 乱れる雲間から月がおぼろげに身をひそめる。誰もが眠りに落ちた深い静寂の刻限に、私は立ち上がって青い瓦屋根の家に向かった。


 母の姿の見えた南側の部屋の前に立つと、ポリタンクの口を開け放ち灯油を浴びせた。家の周囲をグルリと回って灯油をまき散らした。そしてマッチの火をつけた。


 メラメラと、メラメラと燃え上がる炎の中に、いつか母に手を引かれて訪れた九州の小さな神社のお祭りの、屋台のカーバイドの青い炎とアセチレンの臭いを思い起こした。何か買ってあげるよと母は言ったけど、私は母の手の温もりだけで幸せだった。

 メラメラと燃える炎の向こうに、恐ろしい義父の姿が見えた。殴られながら、蹴飛ばされながら、幼い私の身体をかばってくれた母がいた。

 鬼の形相の義父の喉もとから噴き上げる血の臭いと返り血が、赤い炎と同化して一気に燃えさかる。烈しい火柱と黒煙は、老いた母と幼い命の逃げ道をふさいで襲いかかった。

 


 母は赤ん坊を抱きかかえたまま焼け焦げになって死んでいた。司法解剖のために死体安置所に運ばれた母の死体を見た時に、私の瞼から思わず涙がこぼれた。半盲の目にも、あふれた涙で見えなくなるほど泣いてしまった。


 幼いころの思い出が、死に化粧の白い衣に浮かび上がった。

 やさしかった父と、やわらかい母の手の温もりを見た。薄っぺらな一枚の掛け布団で、寒くて眠れなかった夜、母は私の体を抱いて温めてくれた。母の素肌に触れて温かかった。

 霜焼けの膿がつぶれて指と指とがくっ付いているのを母が見て、初めて手袋を買ってくれた時は本当にうれしくて、お母さんありがとうって何度も言った。

 ジャガイモの茎と塩だけが夕食のおかずだった時、小さなちゃぶ台の上に置かれていた海苔の佃煮の蓋を開いて、箸先でつまんで麦ごはんの上にのっけてくれた。母は幸せそうに微笑んでいた。


 バンコクの厠でしゃがみ込んで、母の面影を抱いて涙を流して我慢していた。いつかきっと母の素肌の温もりで、私を抱きしめてくれるに違いないと願いながら耐えていた。そんなことなんかあるはずないよって分かっていたけれど、心のどこかで私の生きる拠り所になっていた。



 でもね、お母さん。私はずっと考えていた事があるんだよ。奥歯に挟まった魚の小骨のように、ずっと私の心のすみに引っ掛かっていた事があるんだよ。


 あの日、お母さんは私の身代わりに義父殺しの罪を負って刑に服した。なぜなのか?

 ひどい虐待を受け続けていた幼い少女が、思い余って凶暴な義父を殺したところで、罪を問われても重い罰は受けないよ。お母さんが刑務所へ行く必要なんかなかったんだ。


 お母さんは逃げたんだよ。

 血みどろの義父の姿を目の当たりにして、動揺しただけじゃなかったんだよ。人殺しの私を生涯育てるのがいやだから、それが辛くて塀の向こうへ逃げたんだよ。


 そんなのないよ、お母さん。私だって人間なんだよ。幸せなんて贅沢は願わないけど、一緒に生きて欲しかったんだよ。

 もう孤独はいや。一人ぼっちなんて、もういやだよ。私も一緒に死にたいよう。ごめんなさい、お母さん。お母さん、ごめんよう。私も一緒に連れてってよ、お母さん。私も一緒に死にたいよう。


 私は叫んで煩悶し、涙も声も枯れるまでに、しゃくり上げて泣き続けた。死すべきは自分であった。うしろめたい己の影を消すかわりに母を殺した。裏腹となった追慕の苦悶に慟哭の涙を止められなかった。


 冷たくなった母の死体にしがみついて泣き続けた。お母さん、お母さん、私も、私も連れてってよう、私も連れてっておくれようと叫び続けた。


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