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 6の13 制裁

「とんでもねえアバズレだなあ。どんな女でも、なかなかそこまで悪知恵が働くもんじゃねえぞ。コンクリで固めて、東京湾に放り込んでやるか」


 いささか酔いの回った健吉のコップにビールを注ぎ足しながら、京麻呂がなだめるようにたしなめる。


「まあまあ郷田さん、女の世界はなかなか面倒ですからねえ。それで冴子さん、その女にどんな仕打ちをしてやったんですか?」

 竹輪ちくわの天婦羅をはじき飛ばして冴子が応じる。


「美智子の根性はね、幼い頃の私を虐待した義父よりもタチが悪いと思ったよ。あの男は、私が母の子であることを憎み、私の存在を疎ましいと思う心があったからこそ私を邪険に虐待できた。美智子にはそんな企みなんて一片もない。弱々しくうずくまる虫けらのいじけた有様が面白くて、足の先で転がして潰してみたかっただけなのさ。亭主と別れた腹いせに、私を血祭りに上げて、やけくその鬱憤を晴らしてみたかったのさ。その思惑が、姥桜の寮長の嗜虐のさがに呼応したのさ。そんな性根が許せなかった。よこしまな心を隠した天使の仮面をかち割って、剥き出しになった美智子の本性を血みどろにしてやらなければ、どうにも収まりがつかなくなって堪忍袋に火が付いたのさ」


 冴子はスルメのゲソをブチリと噛み切り、ビールと一緒に喉奥へ流し込みながら情景を思い浮かべる。



*****

 金曜日の終業のベルが鳴ると、若い女工たちはみんな夜の街へと繰り出して行く。美智子も若い数名のグループに合流して出かけて行った。

 私は夕食を済ませて自室に戻り、美智子の靴音が廊下に響くのを、耳を澄ませてじっと待ち続けた。


 午後十時過ぎ、美智子はほろ酔いかげんで帰寮した。若い女工たちの、おやすみなさいの声が二階に消えて、ヒールの靴音が一階の廊下にカッカと響いた。

 その靴音が向かい側のトイレの前に差しかかった時、私はビッコの脚に渾身の気迫を込めて部屋から飛び出し、美智子の横っ腹を目がけて体当たりした。


 彼女がよろめき、正面に向き直ったところを、すかさず胸倉をつかんでトイレのタイル張りの壁面に押しつけた。

 私の眼光に狂気の事態を察したのか、美智子は手足をバタつかせて喚こうとする。その喉元に、切っ先の鋭い中国製のナイフを押しつけた。

 冷たい刃先を喉もとの皮膚に感じてたじろいだ美智子は、さからうことの危険を意識しながらも、呼吸を静めて私の表情を細目でうかがいながら喘ぎ声を放った。


「こ、こんな事をしたら、ただじゃ済まないわよ」


 美智子の眼は私を見くびっていた。お前なんかに何が出来るのだと侮蔑していた。一時の憤りを凶刃に託して挑んでみても、最後にひざまずいて謝るのはビッコで非力なお前の方だぞと舐めきっていた。だから私は言ってやった。


「あたしはねえ、お前の演技を信じて生きる希望に目がくらんだよ。ドブの中の鼠が一瞬の夢を見たんだよ。だけどね、それが幻の夢だったんだよと言われても、もう元のドブには戻れないのさ。たとえここでお前たちの苛めを逃れたところで、しょせんあたしの人生は、苦痛と侮蔑の憎しみから逃避することなんて出来ないってことが分かったのさ。今夜、あたしは死を決意した。お前の裏切りのお陰できっぱりと決心がついた。だから、お前を道連れにする。あたしと一緒に死んでもらうよ」


 人間に真の恐怖を抱かせるには、どんな暴力よりも、抜き差しならない死神の囁きが一番なのさ。

 暴力で脅したところで一時の痛みが治まれば、その場しのぎの詭弁を弄してふてぶてしくなる。だけど、死の恐怖だけは格別だということを、私はタイで学んできた。


「動くと切れるよ。ほらほら、動いたからナイフが皮膚に食い込んで血が出ちまったよ。このナイフはね、バンコクの中国人マフィアからもらった人殺し用の極上物さ。冗談でやっているんじゃないんだよ、ちゃんと聞いてるのかい白豚女。あたしはねえ、生きている価値がないと悟って死ぬことに決めたんだ。だけどお前は、あたしよりもっと生きている価値がないと思うよ。生きているだけで有害なんだよ。あたしが死ぬなら、お前も死んで当然なんだ。だからここで殺してやるよ。覚悟しなよ」


 喉元からナイフを伝って滲み出た赤い血を、人差し指でぬぐって見せてやった。私の言葉が冗談やこけおどしじゃないと察した美智子は、すっかり酔いも醒めてしまって青ざめた。

 剥き出しの白目の中で落ち着きを失くした黒目が躍る。喉から噴き出す息づかいが荒くなって鼻の穴がふくれあがる。


「誤解だわ、冴子さん。待って、話を聞いてちょうだい、冴子さん。お願いだから落ち着いて」


 うわずった鼻声で美智子は続けた。

「私は冴子さんの味方なのよ。これまでずっとそうだったでしょう。ね、落ち着こうよ、冴子さん。誤解なんだから、私の話を聞いてちょうだい」


「誤解なんかじゃないんだよ。あたしはねえ、お前のお陰でこの世の未練をきっちり断ち切る決意がついたよ。あたしのような人間が生きてちゃいけないんだって分かったのさ。でもね、お前のような女も生きてちゃいけないんだよ。あたしは地を這う虫けらかもしれないけど、お前は肥溜めに湧く蛆虫さ。世の中のピエロにもなれないはみ出し者さ。今日まで生きてこられただけで幸せだったのさ。そう思って念仏でも唱えるんだねえ」


 美智子の顔面は蒼白となり、死の戦慄に怯えきった眼差しはどこを見ているのか狐眼のように釣り上がり、膝も臓腑もガクガク、ブルブルと震え始めた。


「このナイフでお前の喉を掻き切って、息が絶えるのを確かめてからあたしも死ぬ。だけどその前に、お前にも反省の証を見せてもらわなくちゃいけないから。そうだねえ、お前には脳味噌をさらけ出して死んでもらおうじゃないか」


 呼吸も筋肉も硬直させて怯える美智子の緊張が極点に達して、膀胱が縮んだ拍子に尿道がゆるみ、失禁した尿が下着を濡らしてこぼれ落ちた。


「おや、オシッコなんか漏らしちまって、きたないねえ。どんなに汚れているか見てあげるからスカートを持ち上げなよ。聞こえないのかい美智子。上げなって言ってるんだよ」

 

 喉もとで血をにじませるナイフの刃先がグイッと皮膚に食い込むと、美智子はクッと身を硬直させて、スカートに手を添えた。


 私はナイフを下腹に移動させた。その一瞬の隙を突いて美智子は身体を一回転させると、全力で私を振り切り廊下を走って寮長の部屋に逃げ込んだ。


 私は慌てることなくゆっくりと廊下を進んだ。獲物の行き先は分かっているから、そこが修羅場の舞台にはうってつけだと分かっているから。


 ナイフの柄尻で寮長の部屋をノックした。ノブを回してドアを開くと、寮長は美智子を後ろにかばって仁王立ちに腕を組み、待ち構えていたかのように憎々し気な目つきで私を睨みつけた。


「気が狂ったのかビッコのめくら。寮内で勝手な真似は許さないと言ったはずだよ」


 私は寮長の怒鳴り声を無視して、部屋に入ると後ろ手に内鍵をパチンと掛けて、邪魔者の入室を断ち切った。そして、刃肉の厚い中国ナイフの切っ先を正面に突き出した。


 内鍵の音と、突きつけられたナイフの刃先に、一瞬のたじろぎを見せた寮長は、動揺を抑えるかのように、両の目を大仰に吊り上げて怒りの声を上げた。


「お前は、自分が何をしでかしてるのか分かっているのか! ビッコの役立たずのくせに妙なナイフなんか持ち出して、ヤクザの用心棒でも気取ってるつもりかい。ここが寮長の部屋だってことが分かっているんだろうねえ。ナイフを捨てな! 身障児のお前なんかに、勝手な真似は許さないよ。こんな狂気の沙汰が工場長に知れたら、大変なことになるってことぐらい分かってるだろう。さあ、ナイフをこっちへ寄越せ! もう夜も遅いから、今夜のところは穏便に済ませてやろうじゃないか。美智子は私が預かるから、お前はおとなしく自分の部屋へ戻れ。工場長には知らせないでいてやるよ。今回は目をつぶってやるけど、二度とこんな事をしでかしたら容赦しないよ」

 

 工場長という絶対的な肩書きさえ示して脅せば、私が冷静になって鞘を収めると寮長は考えていた。そんな見くびりが通用するような小娘ではないことを、工場長だろうが主任だろうが、何の切り札にもならないという覚悟の程を教えてやらねばならない。


「勘違いしちゃあいけないよ、姥桜。あんたも同罪なんだからね。その女をお前に預けるつもりなんかないよ。おとなしく部屋へ戻るつもりもないよ。容赦しないってのはどういうことだい。見せてもらおうじゃないか、あんたの示しのつけ方を」

 

 意外な私の反発に寮長は戸惑ったようだが、こんな女のために寮長の威厳を失う訳にはいかないと、自負を鼓舞して強がった。


「私は若い時分から真面目に工場で働いて、定年を迎えて寮の管理を任されている責任者だよ。この寮内ではねえ、私の言葉が絶対の法律なんだよ。私の言うことが聞けないなら、工場長に報告しなけりゃならないけど、お前は困るんじゃないのかい、そんなことをされたんじゃあ」


 思った通りだった。こんな時には権威を振りかざして威嚇して、冷静に反省させる落としどころを作ってやれば、反発も収まるだろうという寮長の逃げ腰根性が見え透いた。

 だから私は思い切り居直って、卑劣で醜悪な仮面を粉々に打ち砕いてやることにした。


「このまま引き下がれば報告しないような言い方をするじゃないか。いいかげんに舐めるんじゃないよ。工場長だろうが社長だろうが知ったことじゃないよ。あたしは覚悟を決めて、この人切りナイフを持ち出して来たんだよ。血を見ないうちに引っ込みがつくわけがないじゃないか。そうだろう、姥桜」

 

 飾りテーブルの上に置かれた鳥かごの止まり木で、寮長の可愛がっているオカメインコが冠毛を逆立ててギーギーと喚いている。

 私はオカメインコの鳥籠を右手でつかんでブインブインと振りまわし、寮長の顔を目がけて投げつけた。

 オカメインコの羽毛が頭上を舞って、ひまわりの種と小粒の餌が水入れの飛沫に混じってまき散った。鳥籠の中のオカメインコが床に打ち付けられて必死にバタついている。私の本気度が分かったはずだ。


「おい、姥桜の後家ババア。すまして突っ立ってんじゃないよ。あんたが言った通り、あたしはビッコでめくらだよ。だからあたしを倒すなんて簡単だろう。勝手なことをされるのが嫌ならあたしを殺しなさいよ。そこの台所から好きな包丁を持って来て、あたしのナイフと戦いなさいよ。それとも素手で戦うのかい。ビッコでもめくらでも人を殺せるってことを教えてあげるから早くしなさいよ。どうするんだよ、姥桜。はっきりしろよ!」


「馬鹿なことを言うんじゃないよ。き、気がふれたのか」


「気がふれたのさ。早く包丁を取ってあたしの喉をかっ切ってもらおうじゃないか。一滴の血も流さずに、この場を収めようなんて暢気なことを考えているんじゃないだろうねえ。あんたがあたしへのツラ当てにやってきた苛めの全てを、どす黒い血で洗い清めようじゃないか。あんたの血が黒いのか、あたしの血が黒いのか、しっかりここで確かめ合おうじゃないか。おい美智子、小便ちびらしていつまでもうずくまってんじゃないよ。包丁持ってあたしにかかって来いよ。あんたらがあたしを殺すか、あたしに刺されてあんたらが死ぬか、どっちかしかないんだよ。二人がかりでかかって来れば、運が良けりゃあ死なずにすむよ」

 

 美智子は寮長の脚にすがりつき、小水にまみれてワナワナとおびえるだけだった。寮長は唇を震わせながら私に言った。


「ここは日本だよ。お前が住んでた野蛮な国の無法地帯じゃないんだよ。一一〇番すれば警察がすぐに飛んで来るんだよ。手錠をかけられて警察沙汰になったんじゃ、お前を斡旋してくれた人や、工場長に迷惑をかけることになるんじゃないのかい? そうだろう? ええっ、そうなんだろう? さあ、ナイフを捨ててここから出て行け。頭を冷やして反省しろ。そうすれば穏便に済ましてやろうと言っているんだ。やけくそになって暴れたら、お前が後悔することになるんだよ。分かったら一言詫びを入れて出て行け、早く」


「寮長さん、あたしはやけくそじゃありませんよ。やけくそなんかじゃ生きてる人間をうまく殺れないからねえ。あんたたちの動きを冷静に見きわめながら、喉を切り裂こうか、胸を突こうかと考えているんだよ。あんたたちを殺してあたしも死ぬと言っているんだよ。いまさら誰に迷惑がかかろうが知ったことじゃないよ。余計な心配なんかしなくて死ねばいいんだよ寮長さん。念仏なんて唱えさせはしないよ。どうせ地獄へ落ちるんだから。さっさと包丁を取りなさいよ。どうしたんだい姥桜。戦う気力がなくて殺されたからって、あたしを卑怯だと逆恨みするんじゃないよ。あんたたちがあたしにやってきた事を、すべて清算するための儀式なんだから。殺すか殺されるか、命を張らなきゃ収まりがつかないんだよクソ女。あたしはそうやって生き抜いて来たんだから、あんたたちも死にたくなかったら覚悟を決めなよ。ビッコで半盲を相手に、先に殺せば生き残れるかもしれないじゃないか。そうだろう寮長さん」

 

 戦いのすべを知らない飽食の雌豚が、牙をむいた餓狼に射すくめられておびえるように、洗い残しの化粧の下から、じわり、じわりと脂汗をにじませながら立ちすくむ。

 いじめる側からいじめられる側に転じた雌豚が、矛を盾に持ち替えようと必死にうろたえる。脂肪太りの寮長の顔面から血の気が失せて、目は戦慄にしばたき全身はプルプルと震えていた。


「あんた、私たちに何をして欲しいんだね?」


「死んで欲しいのさ。今、ここでね。あたしはもう、あんたたちを殺すしか後戻りはできないんだから。大丈夫だよ、楽に死なせてあげるから。あたしはバンコクで何人も切り刻んで来たんだから、きっと楽に死なせてあげられるよ。姥桜、散々いびってくれてありがとうよ。お前が先だから、こっちへ来て首を出しなさいよ。もうこの部屋からは生きて出られないんだよ。早くしなさいよ」


「落ち着きなさいよ。落ち着いて話しましょう」


 寮長の声は上ずっていた。それでもなお、体面を保って決着をつけるにはどうすれば良いかを、必死で考えながら顔面を引きつらせていた。


「冗談で言ってるんじゃないんだよ。覚悟を決めて早く出て来い、姥桜」


 冴子は叫んで、テーブルに置かれた飲みさしのビールの空瓶の底をテーブルの角でバシンと割った。


「あたしの堪忍袋はぶち切れて、お前らの心臓を切り刻んで真っ赤な血潮に染まるまでは、金輪際おさまりがつかないんだよ、この豚野郎!」


 底部が割れて凶器のように先のとがったビール瓶を、寮長の眉間に目がけて投げつけた。

 わずかに寮長の頭上をかすめた空瓶は、壁に掛けられた額縁にガシンと当たり、割れたガラスが破片となって飛散した。


「悪かったよ。あやまるよ。私が悪かったよ」


 屠殺場の豚のようにおびえる寮長の両脚は、小刻みに震える体重を支え切れずにひざまずき、そのままヒキガエルのようにひれ伏して涙を流して侘びを続けた。


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