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 1の1 所長の到着

 薄暮れの赤錆び空をパタパタパタと、寒風に煽られながら一機のヘリコプターがウトロ方面から飛来してきた。

 

 ゆらゆらゆらりと旋回し、知床特殊監獄の塀の中の空き地を見つけてゆっくりと着地した。

 主翼エンジンが静止するのを待ちかねるように、勢いよく扉が開いて一人の長身の男が姿を現わした。


「すべりますから気をつけて下さい。地面は凍結していますから」

 操縦士が男に注意をうながした。


「ああ」と、男は頷いて、頭上のプロペラを気にするように首をすぼめて地面に降りた。


 どこの刑務所でも高い塀の内側に一歩を踏み込めば、世俗の臭いは拭い去られて静寂なものだと決まっているが、それにしてもここは、静けさの密度が違い過ぎると男は思った。

 凍てつく冷気が耳たぶに食らいつき、無彩色の薄闇が鬱屈としてコンクリートの建屋を舐め尽くしている。


「まるで地獄の一丁目だな」

 気温は氷点下だというのに、裾長のコートを肩がけに着流しただけの男は両手で襟を立てながら呟いた。


 ヘリの音を聞きつけて、待ちかねていたかのように獄舎の入口から職員が飛び出してきた。数人の看守たちに迎えられ、男は暖房の効いた建屋の中に消えていった。



「ご苦労さまです。お待ちしておりました、西園寺さいおんじ所長」

 看守長の権藤ごんどう忠治ちゅうじが、西園寺の到着を待ちかねていたかのように声をかける。


「囚人たちの移動はすべて終わったのかね?」

 所長室の壁際に設置された薪ストーブに両手をかざして西園寺が訊ねる。


「はい、無期懲役囚が十五名と死刑囚が五十五名です。身寄りも縁者もなく、面会に訪れる者は誰もいない囚人ばかりです。看守は網走と旭川、そして札幌の拘置所からと合わせて七名ほど派遣されました。無期懲役囚の中には、無免許で開業していた医者がいますし大工や調理師もいます。女囚が六名ほどおりますから、食事の支度も何とかなりそうです。自家発電装置が使えるのは、所長の部屋と事務室と大食堂だけです」

 

 西園寺は小さく頷きながら、最も気にかけていた事を確かめるように問いかけた。

「ここがどういう監獄なのかを、囚人たちに伝えたのかね?」


 心得たように権藤は即座に答える。

「はい、全員を大食堂に集めて伝えました。死刑は早期に確実に執行されるから、ここで長々と天寿をまっとうできる死刑囚は一人も存在しないこと。無期懲役囚は正真正銘の無期だから、いかなる恩赦も認められず死ぬまでここで刑に服することになると」


「彼らの反応はどうだったのかな?」


「手錠をかけられたまま、その場で全員が脱走しました。食堂を飛び出し、低い塀を乗り越えて、雪深い樹海の中に必死の逃走を図りました。しかし、一時間もしないうちに全員が舞い戻って、獄舎の布団にくるまって震えておりました。なかには凍傷で動けなくなる者もいて、林の中から看守たちが担いで連れ戻しました。それ以来、みんなおとなしく看守の指示に従っております」


 予想通りだと納得したのか、西園寺はわずかに頬をほころばせた。


「そうか、ご苦労だったね。君も法務省の委員会に所属していれば、こんなとんでもない地の果ての監獄で苦労させることもなかったんだが、申し訳ないと思っているよ」


「とんでもありません。私も西園寺さんの主張に深く感銘を受けましたので、身体を張って支援できればと、自分の意思で決めたことですから」

 

 一か月ほど先に赴任してきた看守長の権藤は、西園寺の到着に安堵したのかニコリと笑い、とりあえず明日の予定をうかがった。


「ところで、刑務官たちへの挨拶は明朝にでもされますか。それとも、夕刻の勤務後に歓迎会でも開きましょうか。こんな監獄ですから、酒を飲もうが何をしようが法務省の目にも耳にも届きませんよ」


「いや、その気遣いはいらないよ。明日からさっそく獄舎をまわって、囚人たちの様子を観察しよう」

 西園寺の眼に闘魂の志を見定めた権藤は、そっと頷き一礼をして所長室を退いた。



 西園寺さいおんじ正義まさよしが東京大学に入学したのは、戦争が終わった翌年だった。軍が解体されて法が整備され、誰もが言論の束縛から解き放たれて自由になった。だが、民衆は生きる為に必死で、言論の自由なんかよりも闇市の酒や雑炊を求めて必死だった。


 法学部に籍を置いて血気盛んだった西園寺は、思想の自由を盾に、既成の論文や考察や概念をすべて無視して教授と激論を繰り返した。

 法務省に就職して法務局に配属されてからも、法にあらがい上司と亀裂し、さまざまな改革を試みた。

 人間の生命とは、生殺与奪の権利とは、宇宙の次元とは……、法の裏付けとは無関係に、あらゆるものをほじくり出して檄を飛ばした。


 果てしない挫折の山を築き上げながらも、その気迫と根性を失うことなく力強く生き抜いてきた。

 そして、還暦を目の前に控えて西園寺は、法務省を説き伏せ、内閣情報調査室と結託して、法務省直轄の特殊監獄を建設したのだ。その企みの裏側に、日本を揺るがす国策が秘められていることを知っているのは数名しかいない。



― 建屋の構造 ―


 獄舎の建屋の構造は、半円のセンターサークルを基軸にして放射状に三棟が分岐している。それぞれの棟の中央を一本の廊下が直線に貫き、左右に監房が連なっている。


 東に向けて廊下が伸びる一棟は、いくつかの大部屋で仕切られて女囚と無期懲役囚が収容されている。

 北と西にそれぞれ伸びる二棟と三棟は、すべて一人部屋で死刑囚が収容されている。

 入口からセンターサークルに入ると横に大食堂があり、その正面に事務室と所長室と倉庫などがある。並びに看守職員の寝室があるのだが、誰一人として通勤などできる場所ではないから、寝室には二段ベッドと机が備えられている。

 

 一般の刑務所のように起床時間も就寝時間も決まってはいない。夜明けとともに朝が始まり、夕日が沈めば就寝となる。社会に用のない人間にとって、時間に振り回される必要などない。食事の時間だけあれば良いのだ。

 


 冬の夜明けは緩慢だから、囚人たちの朝食は午前八時に始まり、二時間ほど休憩の後に監房へ戻されていた。


 朝食を済ませてコーヒーを飲み終えた西園寺が所長室から出て行くと、すれ違う看守たちが立ち止まって敬礼をする。所長の到着予定を事前に看守長の権藤から知らされていたから、所長服の西園寺をいぶかる看守はいなかった。

 

 西園寺の姿を目ざとく認めた権藤が、すぐに事務室から出て挨拶をした。

「獄舎を巡回されますか?」

「ああ、囚人たちの表情を確かめたい」

 西園寺の言葉に従って権藤が付き添い案内をした。


 大食堂をぐるりと見渡してから、無期懲役囚が収容されている一棟を、そして死刑囚が収容されている二棟と三棟までをゆっくりと観察して回った。

 

 囚人たちの視線の動きや表情は様々だった。媚びをひそめて淀む眼差し、獣の粗暴さをあらわにした鋭利な眼差し、見詰めるものを失った虚ろな眼差し、もののけに怯える孤独な眼差し、威嚇に疲弊して錆びた眼差し、妙に澄み切った女囚の瞳と泥色に濁った黒目、そして意外な、いや、相応な事実に接して気を重くした。


 生気も覇気も失われて、陰湿な暗さにどんよりと沈み込む無期懲役囚の獄舎に対して、死と向きあい、苦悶の時を刻んでいるはずの死刑囚の獄舎に明るい活気がみなぎっているのは何故だ。

 無期懲役囚がどぶ板の底を這いずり回っているようだというのに、生きる権利を剥奪された死刑囚が喜色満面の表情で目を輝かせているのは何故だ。


 西園寺にはその答えが分かっていた。想定通りの疑問に過ぎないのだが、翌日再び獄舎を回り、彼らに接してみようと考えた。


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