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 6の12 食品工場

 私は再び東京に戻り、マーさんがメモしてくれた都内の食品工場に電話を入れた。山手線の駅から十分ほど歩いたところにその工場はあり、正門をくぐると香ばしい匂いが立ち込めてきた。


 受付に行くと温厚そうな白髪の工場長が出迎えてくれて、直属の上司だという実直そうな主任の男性に紹介された。

 さっそく職場の中を案内されて、明日から出勤しなさいと言われて女子寮の寮長に引き渡された。


 この工場で定年を迎えて寮長になったという脂肪太りの(うば)(ざくら)は、蛆虫でも見るような胡散臭い目つきで私を見下した。

 いやな予感が思い過ごしであれば良いと願ったけれども、禁断の甘さを私はその場で悔いることになってしまった。


「工場長に案内されて、いいご身分だねえあんた。どこから来たのか知らないけど、見たところめっかちでビッコのようじゃないか。そんな出来損ないの身体で、一人前の仕事ができるのかい。誰の紹介だか知らないけど、ここじゃあ勝手は許さないからね。そんな薄目で見てるんじゃないよ。もっときちっと目を開けられないのかね。クソ面白くもない女だねえ」


 これが姥桜の寮長が、新入りの私へ放った仁義の口上だった。

 

 翌朝、私は支給された白い制服とマスクを身につけて、定刻に遅れないように職場に向かった。

 ラジオ体操が始まり、工場長の訓示があり、各班長による伝達などの朝礼を終えて作業の持ち場に着かされた。

 

 工場で働く人のほとんどは、高卒の女性たちだと工場長は言っていた。その故か、大卒という理由だけで、主任という肩書きを与えられた上司の男は、工員への徹底した差別とえこひいきで自らの威光を堅持していた。

 指図の手際が悪いから、無駄な作業ばかり強いられると、工員たちからは評判が悪かった。そんな主任でも、媚びを売ってへつらえば、公然とえこひいきを享受できるという差し引きで、主従の均衡が保たれていたのだ。


 そんな主任が私の扱いに戸惑った。可愛げもなく、へつらいもなく、得体も知れず、目も悪い。混迷のあげく、無視と差別という諸刃の剣で追い詰めるしか、すべを見出すことが出来なかったようだ。

 

 

 手作業の多い食品工場では、オートメーション化されたとはいいながらも協同の作業が要となる。そのような職場での居心地の良し悪しは、仕事のやりがいよりも、概して上司や同僚との人間関係によるところが大きいものだ。

 

 主任に無視され、寮長にうとまれた不具な私に気をつかってくれたり、親切に声をかけてくれたり、仕事のミスをかばってくれるような気骨のある女なんかいなかった。

 もたもたと作業をしている私に対して、いびりや棘のある言葉はなかったけれども、氷のように冷たい視線を遠慮会釈もなしに浴びせてくれた。

 

 自分だけは弱者でありたくないと願う腰抜けたちが、落ちこぼれて傷ついた野良犬をあざ笑うように、侮蔑のまなざしで遠巻きに指を差して生け贄にする。

 当然のように私は孤立無援の孤児となり、職場の懇親会でさえも、誰からも声をかけられることなく、後日の噂話で知るのみの存在となっていた。

 


 寮内でのいびりもまた辛辣しんらつを極めるものがあった。部屋の蛍光灯が切れたので管の交換を寮長に願い出たら、めくらでも明かりがいるのかねえと嫌みを言われて、一か月も放っておかれた。


 夜中にコンビニへ出かけたわずかな時間に、寮の出入り口を施錠されて締め出され、入口にうずくまって一夜を明かしたこともある。


 私の部屋のドアに便所と印刷されたシールが貼られ、ドアの前に生ゴミの入った袋が幾つも置かれていた。屋上の洗濯場に干した下着に、大きな蜘蛛の死骸が付着していた。

 姥寮長の指示と思惑にさからうことができない寮のみんなが、束になって私をコケにしてくれた。

 

 まっとうに気弱な人間であれば、気が滅入って、卑屈になって、逃げ出したくなる。それを耐え続ければどうなるか。

 陰惨な憎しみが臭い膿みとなって蓄積し、救いを求めて別の弱いものに八つ当たるか、それさえも許されなければ、鬱が高じて死に走る。

 

 こんな職場から逃げ出したいと思ったけれど、すぐに辞めれば斡旋してくれたマーさんの顔がつぶれる。

 いじめが辛いなんて言える柄でもないし身分でもない。我慢して勤めるしかなかった。逃げ場のない私は戦うしかなかった。


 そんなときに、あの女が現れた。



白坂しらさか美智子みちこ


 亜麻色の髪をポニーテールに結んだその女は、朝礼の挨拶の際に白坂美智子と名乗り、静岡工場からの転勤だと紹介された。自己紹介も陽気に快活だったから、利発な女だと私には思えた。


 姥寮長には如才なく、静岡特産の高級煎茶を手土産にして取り入ると、入寮者の一人ひとりにもわさび漬けの小袋を持って挨拶に回っていた。

 静岡工場ではベテランの経験者でありながら、鼻高はなだかな素振りもないし誰にも謙虚で、媚びと笑顔で主任でさえも手玉に取ったというありさまだった。


 社交とか儀礼とかにからきし縁のない私にとって、その振る舞いがとても新鮮に映った。

 美智子が太陽に笑顔を向けて輝くヒマワリならば、自分は軒下で息をひそめるモヤシに違いない。しょせん生きる世界が違うのだけど、私の存在なんて、彼女の瞳には苔ほどにも映らないだろうと思った。



 昼休みの社員食堂のテーブル席で、私の隣に座れる度胸のある女など一人としていなかった。私と仲良くする者は、シカトや苛めの苦しみを等しく分け合うことになるのだから。

 そんな忌まわしい存在なのだから、どんなに混み合っていたって私の前後左右だけは空席だった。

 ところがある日、そんな危険を承知しているのか無頓着なのか、向かいの席にお膳を置いて着席する者がいた。


 いつものようにうつむいて、黙々と食事をとっていた私はドキリとして上目づかいに見上げると、白坂美智子がこちらを見つめてニッコリと微笑んでいる。


 彼女は周囲の気配を気づかうこともなく悠然と、箸でおかずを摘まみながらゆっくりとおしゃべりを始めた。

 静岡工場での職場の出来事を、ぽつりぽつりと話してくれるので、相槌も打たずに私は黙って聞き流していた。


 静岡工場では若い主任がだらしなくって、みんなで愚痴をこぼしていた。要領は悪いし残業も多いから、美智子が率先して現場の工員たちと一致団結の抗議を行ない、職場環境を改善してもらったという話をさりげなく聞かされた。


 ここの職場は暗すぎると眉をひそめた。いじめや差別は絶対に許されない行為だと言ってこぶしを握りしめ、主任や姥寮長のやり方を厳しく批判した。なかなか骨のある女だと私は思った。

 そして美智子は、はっきりと断言した。自分は仲間や友人を大切にすると。誰とでも等しく、親しく接すると。

 

 それ以来、私は美智子の存在が気になって、なにげなく彼女の言動を観察していたのだが、寮内でも職場でも彼女のいる所には快活な談笑が絶えなかった。

 作業中にも笑い声が満ちあふれ、時折、主任にうるさいと注意を受けることさえあるほどだった。

 次第に彼女が天使のように見えてきた。彼女ならば、確かに職場の雰囲気を改善できるかもしれないと信じるようになっていた。

 


 静岡の地酒とわさび漬けを持って、美智子が私の部屋にやってきたのは夕食後のことだった。一緒に飲もうよと言って、部屋に入って地酒の封を切って腰を下ろした。

 眉をひそめて臆する私の表情を、美智子の屈託のない笑顔が払拭した。コップに酒を満たして乾杯すると、美智子は一方的に話し始めた。


 彼女の父は転勤が多かったから、小学校でも中学校でも転校ばかり、友達ができてもすぐに別れなければならなくて、いつも寂しい思いをしていた。だから自分にとって友人は、仕事よりもお金よりも大切なのよと、えくぼを浮かべた。


 静岡でコンピューター会社に勤務していた美智子の夫は、連日の深夜残業で帰宅が遅かった。夫婦生活を無視した勤務体制に納得できないと主張する美智子と、システム開発の仕事だから仕方がないのだと言い訳する夫との喧嘩が絶え間なかった。

 過剰勤務の睡眠不足が毎夜も続くものだから、何か月もセックスレスだったと溜息をつき、それが原因で離婚して、気分一新を理由に東京勤務を願い出て転勤して来たんだと、美智子の告白はあけっぴろげで明快だった。


 さらに美智子の話は東京工場での職場問題にも及び、上司に対するきびしい批判を小気味良いほどに爽快な口ぶりで聞かせてくれた。


 私はコップに注がれた地酒を酔わない程度にたしなみ、遠慮がちに頷きながら耳を傾けていた。そのうち酒の勢いなのか本音なのか、姥寮長の悪口が始まった。その語り口はまさしく絶妙にして滑稽だった。


「あの姥桜の寮長がさあ、三十路を過ぎてすっかりとうが立つころにねえ、事務所の経理部に入社してきた若い男の子に臆面もなく惚れてしまったんだってさ。黒豚だって丁寧に白粉まぶして口紅をつけて化粧をすればさあ、若い男の一人くらいは手込めにできるって事なのかしらねえ。その年下の若い子を、なりふり構わず口説いて結婚してしまったんだってさ。よくやるよねえ、あの見苦しい顔と体形でさあ」


「そう……」


「だけどねえ、すぐに亭主は経理部の若い女と浮気して、姥桜を捨てて工場から逃げてしまったんだってさ。誰だってさあ、あんな皺だらけの鬼瓦みたいな姥桜の顔を毎日見ているだけで、逃げ出すか殺してやりたくなるわよねえ」


「寮長さんのことを、そんな風に言ってもいいのかい?」


「なに言ってんのよ、冴子さん。あなたも、もっと飲みなさいよ」

「ああ……」


「寮長だといって偉そうに威張っているけどさあ、無知蒙昧な脳味噌を孤高なふりしてごまかしているだけなんだわ。若い亭主に逃げられてね、自分だけが惨めったらしく孤独を噛みしめながら、定年まで工場で働き続けたあげく寮長になって、いまだにみんなの前で生き恥をさらしているんだわよ。あそこまで落ちぶれたくはないわよねえ、冴子さん」


 凄まじいまでの美智子の暴言とおどけた素振りに思わず吹き出し、互いに顔を見合わせて大声で笑い合った。その勢いで冴子は美智子に気を許し、ほどよく酒がまわってバンコクの辛かった体験話を吐露してしまった。


 卑猥な日本人の観光客や、白人の水兵さんや、金満の中国人の男たちにもてあそばれて、ただ生きる為だけに金を稼ぎ、身も心も朽ちはててしまったこと。

 すさみきった異国の女の孤独な日々の生きざまを、真剣に耳を傾けて聞いてくれる美智子に気を許して、洗いざらいしゃべってしまった。



 翌朝、私の部屋のドアに、「恥知らずの部屋」と書かれた紙が貼り付けられていた。通路の窓枠に、「びっこの恥知らず」と書かれた紙が貼り付けられていた。

 洗面所やトイレですれ違う女の子たちの表情が、異様なあざけりに満ちていた。


 誰が書いて貼り付けたのか。私はとっさに美智子に疑念を抱いたが、決してありえないことだと否定して首を振った。

 美智子は友人を大切にすると言い切った。美智子の話しぶりに真面目さはなかったけれど、あざけりの素振りは感じなかった。豪快でべらんめえな口調だったが、純朴で開放的な正直さを感じた。美智子が誰かにしゃべったのか。その話を聞いて誰かが私に当てつけたのか。寮長の仕業か。


 私は定刻通り職場に出た。始業の前のざわついていた女子工員たちの中から美智子の姿を探していた。そして、いつもと変わらない笑顔の美智子の姿を見つけてホッとした。


 美智子はいつものように快活だった。工員たちが主任を取り巻いて談笑していた。その中心で、主任にいちゃついているのは美智子だった。

 美智子が私の視線に気づいて振り向いた。視線を合わせると冷やりと笑って口をゆがめた。蜥蜴のように、毒蜘蛛のように、蠍のように、蛇のように、傲慢な表情で口をゆがめて私を睨んだ。そして、冷ややかに笑った。


 全身をめぐる私の赤い血が氷になった。美智子の計略に気を許した自分の愚かさをそのとき悔いた。ぶち切れの堪忍袋を何とかつくろい、終業までの時間を耐えた。

 私をいびるのもいいさ。無視するのもいいさ。陰口をたたくのもいいさ。そうやって気の済むだけコケにすればいいさ。だけどねえ、行く当てのない野良犬をだまして袋叩きにするような真似だけは許せないよ。


 天使のような顔をして、弱い女の心の深淵まで覗き込み、毒を盛ってあざけり笑い喜んでいる。卑劣に腐った女のやり口に、私の戒めの鎖がブチリと切れてはじけて飛んだ。


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