6の11 故郷へ
熱帯の太陽は粘っこく鮮烈だったから、人々の熱気とまぎれて日本への郷愁を忘れさせてくれた。歓楽街の夜が明けて、店の外に出て空を見上げて深呼吸をすれば、過去を忘れて今日一日を力強く生きられると居直れた。
しかしそれも束の間で、店の小窓から垣間見える月影を眺めていると、父に抱かれて見上げた炭鉱町の満月を思い出した。父の隣に母が寄り添い、歌ってくれた子守歌が懐かしい。
異国で見上げる月の光が、日本の夜にも同じように照らしていると思うと胸が震えて切なくて、いつしか母の顔を思い浮かべて泣いていた。腐臭をこらえて狭い便所にしゃがみ込み、板壁に向かって母に語りかけていた。
外国籍の貨物船に乗せられた時から、日本とも母とも永遠に縁が切れたと覚悟を決めたけど、こうして思いがけなく日本の空気を吸ったとたんに、閉じ込めきれなかった母への慕情が溢れて血がたぎる。
マーさんから渡されたメモには、福岡県飯塚市と番地まで記されていた。私は東京駅まで行って、新幹線のひかり号に乗り込んだ。
あの日、博多駅から寝台特急列車に乗って熱海へ向かった。その鉄路を、十五年ぶりに故郷へ向かって逆走する。
マーさんは故郷を懐かしむことをノスタルジアと教えてくれた。私は母に会いたいと涙ぐむことはあったけど、あの男の記憶が残る九州の炭鉱町へ帰りたいと思ったことは一度もない。
新幹線は新大阪が終着駅だったから、そこから夜行の急行列車に乗り換えて西へ向かう。夜を走る列車の車内は静寂で、窓外に流れ去る農家の小さな灯りが意味もなく郷愁を誘う。
不安と期待が入り混じってか、座席に頭を預けて目をつむっても眠れない。ようやくウトウトしたかと思ったら、トンネルを抜けて九州の朝だった。
飯塚は筑豊三都の中心都市として炭鉱労働者で賑わったけど、すでに大きく変貌を遂げていた。
駅を出てしばらく歩き、メモに記された住所の番地を探していると、県営らしき古びたコンクリのアパートに辿り着いた。そこには五階建ての棟が五列、田んぼと住宅に挟まれて建っていた。
不審者と疑われないようにそれとなく、アパートの一階の階段口を順に見て回り、郵便受けの表札の名を一軒ずつ確認した。
そしてようやく、母の名前が書かれた郵便受けを見付けた時に、心臓が早鐘を打ち、メモを持つ手が汗ばんだ。
その住居は最も西側に並ぶ棟の、一階の角部屋だった。南側に回ってベランダ越しに室内の様子をうかがってみたが、レースのカーテンの先に人の動く気配はなかった。
意を決して階段口に戻り、玄関扉を前にして、ブザーに人差し指を突き立てた。だけど、私はどうしてもボタンを押すことができなかった。
もしもチャイムを鳴らして母が出て来たときに、どんな顔をして何と言葉をかわせば良いのだろうか。いや、それよりも、母以外の誰かが出て来たならば、もしも見知らぬ男が出て来たならば、自分はどのように挨拶をすれば良いのか。
ここまで来たのはお母さんに会うためなのに、ひねた迷いが脳裏をよぎって葛藤する。思考が朦朧として額に脂汗がにじみ、鉄製のドアをしばらく見すえて立ちすくんでいた。
そのとき、階段側の鉄サッシのガラス窓が、すり切れそうな鈍い音をたてて開け放たれた。
私は慌てて飛びすさったが、恐る恐る窓辺に近づいて窓枠の中をうかがった。爪先立ちして見上げたその刹那、勉強机の向こうからこちらを見つめる青年の視線が私の視線とかち合った。
青年は恥ずかしそうに目を伏せた。その隙をとらえて私は青年の視界から姿を消した。弾んでいた呼吸はピタリと止まり、心臓の鼓動が静止していた。その青年が何者であるかを悟ったからだ。
母が服役中に、あの男の子供を出産したことを私は施設で聞かされていた。その赤ん坊は二十歳を過ぎて、立派な若者になっているはずだ。その若者があの青年なのだ。
清らかな瞳だった。恐らく彼は、母から私の存在を聞かされてはいないであろう。しかし青年の瞳は、私を拒絶しているかのように思えた。
恥ずかしそうに伏せた瞳の奥底で、ここはお前なんかの来る場所ではないのだと拒絶しているようだった。半盲の目にもそれが分かった。母に会う資格なんかお前にはないのだと、澄んだ瞳が侮蔑していた。とっとと帰れとさげすんでいた。
自分は母に会うためにここまで来たのに、突然目の前で遮断機を下ろされた。火の粉を浴びせられたような衝撃が、不安をかき立てるように深い逡巡を駆り立てた。
母が獄中で赤ん坊を出産したことを、福岡の養護施設にいるときに知らされたけど、悪鬼のような義父の子供が生まれたのだと思うと疎ましく、汚らわしくて、すぐに記憶から抹殺してしまった。
同じ母の胎内から生まれてきたとはいえ、あの男の血が流れていると思っただけで、その存在を許せなかった。
その義弟が今、自分の目の前に立ちはだかっている。その顔に、あの男の憎々しい面影はない。でも、清純そうな瞳の奥に、間違いなくあの男のどす黒く淀んだ血が流れているのだ。
その血のぬめりが私を見つめて姉弟の血縁を拒んでいる。お前なんかに母を渡せるものかと拒絶している。私にはそう思えた。けがれてしまった心で、清々しい青年の瞳を見つめることなんか出来なかった。
熱海の館にいた時だって、バンコクにいた時だって、義弟の存在なんて一度だって考えたことはなかった。
あの男が現われる前までは、優しかった父と母と三人で幸せだった。あの男の前では、母は私をかばってはくれなかったけど、あの男がいない時は優しかった。幼かった私にとって、母は自分一人だけのお母さんでなければならなかった。
あの男を殺したとき、警察官は私の身体を見てすぐに虐待に気付いた。母が自分を虐待したのだと、私は警察官に嘘をついた。それはあの男に対する妬みだった。
優しかった父を捨てて、あの男に尽くそうとする許しがたき母への制裁だった。だけど、それでも母は私にとって母だったのだ。
アパートの玄関のチャイムを鳴らせば、きっと母に会えるかもしれない。でも、あの青年とどのように折り合いを付けられるのか。母はどんな顔をして私を迎えるだろうか。
どうせ自分は東京へ戻らなければならないのだ。マーさんが記してくれた食品製造工場へ就職することになる。幸せな家庭をあの男がぶち壊して土足で上がり込んで来たように、自分が母と義弟の平和を壊す導火線の引き金になるのだろうか。どんなに逡巡を繰り返してみても、見つかる答えは一つしかなかった。
飯塚駅まで戻るまでのビッコの歩みが辛かった。アパートを背に足を引きずり、路傍に伏する母の記憶に何をまぶせば消せるのか。