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 6の10 タイダンス

 オリエンタル・ホテルの最上階の窓から、チャオプラヤ川の両岸が眼下に望める。レストランの椅子をボーイが引いて着席を促す。初めて経験する作法に戸惑いながら、恐る恐る腰を下ろした。

 

 オニオンスープをスプーンですくって口に運んだ。チーズの粘りが舌にからんで気色悪かった。サーロインステーキをナイフで刻み、おずおずと口にほおばり無我夢中で噛み潰した。マンゴスティンの透明な果肉は、ランブータンよりも上品に思えた。


 食後、ホテルの裏手に出てタイダンスの劇場に案内された。入口の小箱に入場料の小銭を入れて敷居をまたぐと、人いきれでむんむんとする薄暗い電灯の下で、何組もの白人観光客が其々のテーブルを囲んでショーを観劇していた。

 

 中ほどのテーブルに座るとスカッチの水割りが運ばれ、小さな球形にくり貫かれたスイカの果肉が皿に盛られて脇に置かれた。

 前方の舞台に目をやると、青糸赤糸の煌びやかな衣装をまとった男女の役者たちが、優美な身のこなしで舞っている。鋭利な先端の金冠をかぶり、繊細な指先で様々な感情を表現する。

 古典から伝承される物語を、みやびな音色に合わせて優雅に踊る。


 彼女たちは、金満な観光客に民族伝統の舞踊を舞って、堂々と金を稼いで生活している。一方の私は、下賎な男たちに媚びと身体を売って、卑賤な銭を稼いでその日その日を生きている。

 私から見れば彼女たちは雲の上で舞う伝統舞踊劇の役者さんだから、自分がどんなに頑張ったって死んだって、絶対に手の届かない存在に思える。その私がテーブルに座り、スカッチを片手に艶やかな彼女たちの舞台を眺めている。何だか妙にちぐはぐな感覚だった。


「日本に帰らないのか?」

 水割を舐めながらマーさんが唐突に問いかけてきた。


「帰ったって同じだから」

 開き直って答えるしかなかった。


「じゃあ、帰りたくないのか?」

 思いがけないマーさんの反問にたじろいだ。そして一瞬、胸が熱くなって喉がつかえた。でもすぐに自暴自棄な自分を取り戻し、すてばちな言葉を吐き出してしまった。


「パスポートを持たない人間が、どうして日本に帰れるのさ」

「パスポートを取り上げられたのか?」

「最初から無いんですよ。売られて来たのさ。外国の貨物船に乗せられて」

 

 マーさんはスカッチのグラスをテーブルに置くと、まじまじと私の顔を見つめて言った。


「それじゃあ密入国じゃないか。タイと日本は友好国だ。不法入国者と分かれば強制送還になるのが当然だろう」


「ハハハ、無理だね。うちの店のボスはね、タイ警察の上役にしっかり賄賂を贈ってつるんでいるから、そんな事にはならないんですよ。監獄に入れられるよりまだましですよ」


「君はここでは異邦の女だ。年をとれば捨てられる。行く当てもなく身寄りのない女の末路はあわれで悲惨だ。そんなに先のことではないことを、君が一番知っているんじゃないのかね」


「仕方がないでしょう。私は日本に帰れば警察に捕まって刑務所に入れられる。日本にも帰れず、異国でも生きられない。それが私の運命だって言われりゃあ、他に選べる道なんてありゃしませんよ。明日のことなんか、なるべく考えたくないんですよ。考えれば怖気が走って気が狂いそうになっちまうから。私のような女でも、希望も夢も与えられない一人ぼっちの女でもねえ、ドブの中に置き去りにされて本当に死ぬかもしれないって考えたら、やっぱり怖くて身がふるえるんですよ。死ぬのも怖い。生きるのも辛い。生まれてこなければ良かったのかもしれないけれど、仕方がないじゃありませんか、自分の運命を自分で選べないんだから」


「日本に身寄りはないのかね?」

 

 薄暗い舞台の上で、絢爛な衣装の男女が指をくねらせながら、片足を交互に上げて首をかしげる。

 タイ舞踊のゆるやかな動作が、観客を異次元の世界に誘い込む。時間の流れが見当違いに錯乱されて、現実から逃避した仮面の世界に隔離される。

 

 これまで他人に気を許すことは禁忌だと戒めて生きてきた。その戒めを破って私を饒舌にしてしまったのは、薄暗い舞台とスカッチの酔いのせいだろうか。

 それだけではないと信じて気を許せたのは、純粋な人間の匂いを発するマーさんの優しさだったのかもしれない。


 義父を殺してからバンコクへ渡るまでの経緯を、かいつまんでマーさんに聞かせてやった。

 お母さんが身代わりとなって刑務所へ入ったこと。ミチルとの昏惑な生活。そしてその館をガスで爆発させてしまったから警察に手配されているだろうこと。熱海から東京へ逃げてヤクザらしき男に拾われ、バンコクの娼館に売り飛ばされたことまでの経緯をとつとつと話して聞かせた。


 マーさんは私の話を聞き終えると、スイカの果肉を口に放り込んだまま、何も言わずに黙り込んだ。



― 警察へ ―


 それから二週間後のことだった。店に警察の車がやって来て、訳も言わずに私を無理矢理連行して行った。


 私は警察の取調室に連れ込まれて、色んな書類にサインをさせられた。

 それから一晩留置されて、朝になったら私の荷物が大きなバッグに詰め込まれて届けられた。それからバッグと一緒にまた警察の車に乗せられた。


 車がドンムアン空港に到着するとターミナルに連れて行かれて、椅子とテーブルしかない取調室のような殺風景な部屋に通された。

 

 間もなくして日本人の係官が現れると、タイ人の警察官は私を置いて部屋を出て行った。

 係官は私の名前を確認して部屋を出ると、入れ替わりに入室してきたのは背広姿のマーさんだった。


「私のバンコクでの仕事は昨日で終わった。これから、不法入国者である君を日本まで連行するのが私の最後の仕事だ」

 

 私は驚いて飛び跳ねた拍子に、後ろ頭を思い切り壁にぶっつけた。この人はいったい何者なんだろうかと、私は怖くなって目を剥いた。


 その日のフライトは忘れもしない、成田国際空港が開港する前日の、羽田空港に着陸するバンコク発最後の日本航空便だったから。

 機内で隣に座るマーさんに尋ねた。


「あたしは日本に着いたら、熱海の洋館爆破の罪で刑務所にぶち込まれてしまうのかしらねえ?」

 こともなげにマーさんは教えてくれた。


「老いた女中が、ガスの元栓を開いたまま外出して起こった不慮の爆発事故として、警察の処理は終っている。洋館の持ち主が、事件として表ざたにされることを怖れた結果、政治家を通して大きな力が働いたと思われる」


「洋館の持ち主って誰ですか? きっと高名なお金持ちなんでしょうねえ」

「余計なことは知らないほうが身のためだよ」

 

 マーさんは気さくで優しくて、偉そうな威厳なんてちっとも感じさせなかったけど、警察か官庁の偉いお役人だったのかもしれないねえ。羽田空港に着いたら別れ際に一枚の紙片を渡してくれたよ。


「ここには二つのメモが記されている。一つは君の就職先だ。都内にある食品製造工場の案内図と電話番号だ。先方に話はついているから、その番号に電話をしたまえ。もう一つは、六年前に刑務所を出所した君のお母さんが暮らしている現住所だ。さあ、君はもう自由だ。行きたまえ」

 

 なぜマーさんが、刑事ですら知ることの難しい出所者の現住所を、バンコクに居ながら知ることが出来たのか。



*****

「その時はね、メモに記された母の住所に涙が滲み、母に会えるという感動で胸が震えていたから、マーさんが何者なんだろうって詮索する余裕なんてなくてさあ、何も聞かずに別れてしまったよ」

 

 坊主頭を撫でながら健吉が、首をかしげて腕組みをする。


「よっぽど姉さんのことが気に入ったんだろうよ。それにしてもなあ、外国に売り飛ばされた一人の女を、そんなに簡単に無罪放免にして日本に連れ戻せるのかねえ……」


「官憲ですよ、官憲。それにしても幸運でしたねえ冴子さん」

 知ったかぶりに京麻呂が、里芋の煮つけに箸を突き刺して冴子の皿に取り分けてやる。


「だからマーさんには感謝してるよ。どこの誰かも知らないけどね」


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