6の9 マーさん
大きく溜息をついて大食堂の天井を見上げ、ゆっくりと視線を落として冴子はコップのビールをちびりと飲んだ。
「どんなに時が流れても、たまに日本にいる夢を見ることがあってねえ。いじめられて、虐待されて、ろくな思い出しかないってのにさあ、お母さんの顔がちらつくと、日本に帰りたいなあと考えてしまうんだよ、バカだよねえ……」
シシャモを咀嚼しながら健吉が、冴子のボヤキにしきりに頷く。頷きながら冴子のコップにビールを注ぎ足す。泡立つビールを見やって冴子が呟く。
「調度そんな時だったねえ、マーさんが現れたのは」
冴子の呟きをとらえて京麻呂が、知ったかぶりに口を挟む。
「ほう、マーさんというと中国人ですね。馬と書いてマーと呼ぶ。福建省か広東省あたりの出身でしょうかねえ」
「京さん、あんた詳しいねえ。でも違うんだよ。日本人だったのさ。私を指名してくれた客でねえ、中年のおっさんだった。その人がねえ、職場の人たちは自分のことをマーさんと呼んでいるから、私にもそう呼んでくれって言ったのさ。だけど私は唖で通した。いや、通そうと思ったんだよ。そしたらね、マーさんが言うんだよ。日本人の顔は中国人に似ているけど、日本人の女性には中国人にはない奥床しさがあるから、黙っていてもすぐに分かるって。そう言ってポケットから何か取り出すから、ご祝儀でもくれるのかなと思ったらシャネル五番の小瓶だよ。私はマーさんが悪い人じゃないと思ったから、素直にありがとうってお礼を言った」
すかさず京麻呂が、いかにもぞんざいに言葉を挟む。
「まあ、日本人の出張者が、ことさらのサービスを求めて女の気を引く手口でしょうが、それにしても唖を見破ったうえにシャネルの香水とは、いったい何者だったんですか、そのおっさんは?」
「半年ほどの出張でねえ、タイの日本大使館に出勤していると言ってたよ。大使館の人たちを相手にしていると、堅苦しくて気が滅入るからと言って、ときどき地酒やウイスキーを持って顔を見せてくれるようになった」
「お役人じゃないですか……」
京麻呂と健吉が顔を見合わす。
「私はバンコクに十年も住んでいながら、バンコクの街並みも、タイという国の歴史も知らずにすごしていた。たまに娘たちと娼館の外に出るときだって、表通りの食堂へ出かけて、いつもより少しましな食事をするだけさ。そんな愚痴をこぼしていたらマーさんが、私を一日借り切って、バンコクの町を案内してやると約束してくれたのさ」
紡がれて途切れた記憶を手繰り寄せるように、冴子は天井を見上げてビールの泡を吹き上げる。
― アユタヤ ―
約束の日、私は朝早く起きて三輪タクシーのサムロに乗り、マーさんが宿泊しているラジャム通りのホテルへ向かった。古いけど由緒ありそうなホテルだった。
玄関口からロビーに入ろうとしたら、ドアボーイが私の風体を見て睨みつけたけど、構わずにロビーを抜けて中庭に出た。そこには大きな噴水があって、マーさんが手を振って迎えてくれた
ホテルの前で待機していたタクシーに、マーさんと私が後部座席に乗り込むと、運転手は何も言わずに走り出した。チャオプラヤ川沿いに北を目指しているようだった。
初めて目にするバンコクの郊外は、日本の田園風景に似て長閑だったけど、どこか微妙に印象が違う。
日本の農村や山並みならば、春には菜の花と山桜、秋には柿の実や紅葉の彩りに季節の移ろいを感じるところだけど、田んぼにそよぐ椰子や棕櫚の葉風に季節感は無い。いかにも熱帯の、たおやかな心地良い風情を感じさせる。
バンコクから北へ約八十キロ、信号の無い道を一時間余り走って古都アユタヤの市街に到着した。荒れ果てた広い敷地に壊れかけの仏塔がいくつも並んでいた。
江戸時代には日本人も住んでいて、アユタヤ王朝の傭兵部隊として山田長政という男が日本人街を仕切っていたと、マーさんが説明してくれた。
遺跡から少し離れた場所まで歩くと、棕櫚と藪に囲まれた墓地があって、そこには朽ち果てた古木の墓標がひっそりとたたずんでいた。その墓標には日本人の名が、薄汚れて消えそうな文字で書かれていた。
なぜマーさんが私をこんな所に案内したのか知らないが、これが異国に捨てられて故郷に戻れず、遺骨を埋葬された日本人の成れの果てかと思って私は胸をえぐられた。
そのとき私は思いを馳せた。彼らはたとえ木切れの墓標の下でも、温かい土の中に埋められている。だけど、自分が死んだらどうなるのだろうかと。
誰にも知られず道ばたの側溝に寝転んだまま、雨に打たれて死んでいた女のやつれた姿が目に浮かんだ。私が冷たくなって死ぬ場所は、棕櫚の下でも土の中でもなくて、路地裏の売春宿の前のジメジメとした臭気の漂う暗いドブの中なんだろうかと。
アユタヤの食堂で唐辛子の効いた唐揚げと野菜炒めの昼食を取って、まっすぐバンコクの市街に戻った。帰りのタクシーの中でマーさんは、私が異国に売り飛ばされてからの日本の出来事を教えてくれた。
沖縄返還とかオイルショックだとか言われたって、私にはどうでもいい話ばかりだったけど、たった一つだけ、日本のGNPとやらが世界で二番目になってお金持ちになったから、農協さんがツアーを組んで世界を闊歩するようになったこと。
私がバンコクに来た当時には、日本人の姿なんて滅多に見かけることはなかったけれど、その頃にはカメラを首にぶら下げてうろつく団体の日本人をよく見かけるようになっていたことが納得できた。
タクシーがバンコク市街に近付くと、バスや乗用車やサムロの姿が目立ち始めた。道路わきには野菜や果実の露店が並ぶ。瓜のように楕円形のスイカが山積みにされて車道にまではみ出している。
マーさんは運転手に指示してバンコク市内の観光名所を案内してくれた。チャオプラヤ川沿いにそそり立つ暁の寺、翡翠仏が収められているエメラルド寺院、ワット・ポーの巨大な涅槃仏、そして極めつけは、ワット・トライミットに祀られている背丈二メートル、重量五トンを超える黄金の座仏だった。十四金とか二十四金とか見せかけのメッキではなく、本物の黄金で鋳造された仏像だった。
金無垢だか金メッキだか見分けがつくほど眼力はないけれど、座した仏像から放たれる鈍い光沢と荘厳さに、タイの人たちの信心の重みを知らされた。
呆然と見つめていると、その黄金仏が発見された際のエピソードをマーさんが語ってくれた。
― 黄金仏 ―
時は十三世紀、日本では平家物語が書き上げられた頃、タイではスコータイ王朝が隆盛を極めていた。王様の下命により仏教思想が体系化され、深遠なる信仰の証として、永遠に輝きを失うことのない黄金の仏像が造られた。
やがて十四世紀中頃に成立したアユタヤ王朝は、東西を中継する貿易国家として繁栄を続けたのだが、ビルマ軍との度重なる戦争が熾烈を極めて、外国からも多くの傭兵を求めていた。
日本では戦国時代が終わって、職にあぶれた浪人たちが戦場を求めて船に乗り、アユタヤ王朝に傭兵として雇われた。そうして日本人町が形成されて、その親分が山田長政なのだとマーさんは教えてくれた。
十八世紀後半、いよいよビルマ軍の総攻撃が始まるという時に、国境を越えて侵略して来る敵軍の略奪から免れるため、黄金仏は信者たちによってコンクリート仏に偽装されて古びた寺院に隠された。
その後アユタヤ王朝からトンブリ王朝、チャクリー王朝を経て近世に至るまで、黄金仏の存在が人々の記憶から忘れ去られたまま時が流れた。
近年になってバンコク港の整備が始まり、域内の廃寺が取り壊されることになり、そこに置かれていたコンクリート仏が別の寺院に搬送されることになった。
搬送の途中、突然の嵐に見舞われて運転手は視界を失い、荒れ道に傾いで荷台の仏像を地面に転がり落とした。慌てて飛び出した運転手が目にしたものは、コンクリートの漆喰が剥がれて雷光に輝く黄金の仏像だった。
タイの人たちは日本人とは信心の深さが違う。コンクリートの剥げ落ちた黄金の仏像を目の当たりにした運転手の驚愕は想像を絶するものであったに相違なかろう。
マーさんが聞かせてくれたエピソードが印象的で、金色の光沢に威厳を感じた。
タクシーはチャオプラヤ川の畔にそびえるオリエンタル・ホテルの玄関口に横付けされた。世界の名だたる要人たちに愛され続けている名門ホテルだとマーさんは能書きをたれ、最上階のレストランにエスコートしてくれた。
オリエンタルホテルは1974年にマンダリンに買収され、2008年から「マンダリン・オリエンタル」と名称が変わりました。