6の6 渋谷
「冴子さん、まさか放火と爆破の罪で無期懲役になった訳じゃないですよねえ。三人は館の外に運び出して無事だった訳ですから」
焼き鳥を頬張りながら問いただす京麻呂に健吉がなじる。
「当たり前じゃねえか。そのとき姉さんは未成年だろうよ。それで姉さん、東京駅まで無事にたどり着いたのかい?」
健吉が冴子のコップにビールを注ぎ足す。
「私はねえ、渋谷駅の忠犬ハチ公の物語を、施設にいる時に本で読んで知っていたから、とりあえずそこへ行くことにしたのさ……」
*****
東京駅から山手線に乗り換えて渋谷に向かった。駅でも電車でも、小ぎれいに着飾った男と女でいっぱいだった。
渋谷駅に着いて改札を出ると、ハチ公の像はすぐに分かった。背広姿や陰気な表情の人たちがたむろしていた。都会に住むとみんな同じ顔になってしまうのかねえ。
行く当てのない私は、ハチ公の像に寄り掛かってずっと交差点を眺めていた。絶えることなく移動する人の流れは、規則に縛られながら働く蟻の群れみたいで、終わりのないゲームでも見ているようだった。
無意識に私は待っていたのかもしれない。あの日、施設に老紳士が迎えに来たように、誰かが私を助け出してくれないだろうかと。
お金は百万円も持っているのだから、どのように使えば運命の道が開けるのかを教えて欲しい。希望を夢見て飛び出して来た。どこに行けば希望を買えるのか、買えば幸せな夢を見られるのかを知りたい。
「それで姉さん、ハチ公前の交差点でどうしたんだい?」
ピリ辛のコンニャクを箸先で弄びながら健吉が、ビールを呷りながら話の続きを冴子に促す。さらに京麻呂が疑問を挟む。
「気になりますねえ、百万円をどう使ったのか……」
記憶を確かめるかのように冴子が天井を見上げると、京麻呂もつられて天井を見上げた拍子にコンニャクが気管につまって咳き込んだ。
*****
私はねえ、ハチ公前にしゃがみ込んで交差点を眺めていたよ。吹き抜ける風に肌が冷えてきたけど、行く当てもないからぼんやりしてた。
そのうち寒さに慣れてうとうとしてたら、茶色のコートを羽織った細身の若い男が声をかけてきたんだよ。
「待ち人かい?」
私は男を見上げて、何も言わずに首を左右に振った。
「どこから来たんだい?」
「熱海」
「ふーん、熱海か。娘が一人で温泉に行ったとは思えないけどなあ。仕事でも探しているのかい?」
私は首を縦に振った。
「おう、そうかい、俺に任せときなよ。悪いようにはしないからさ」
私はガード下に停めてあった白い乗用車まで連れていかれた。男と一緒に後部座席に乗り込むと、坊主頭の運転手は何も言わずに車をスッと走らせた。
車が動き始めるとすぐに、男が私のナップサックを取り上げようとした。私は慌てて胸元に抱き締めようとしたら、いきなり頬に平手打ちが飛んできた。鼓膜がジーンと痺れてあらがう気力が萎えてしまった。
「兄貴、こいつすごい大金持ってますよ。百万円の札束だ。それに通帳には四百万円もの残高が記帳されてますぜ」
「通帳だと、どこの銀行だ?」
「大日本銀行です」
「よし、あそこに支店があるから、お前行って全額下ろして来い」
「へい」
兄貴と呼ばれた坊主頭の運転手は、銀行の向かい側の車道に車を寄せた。
「早く行け!」
「へい」
若い男が銀行の自動扉の内に消えると、坊主頭はゆっくりと紫煙をくゆらせながら男が出て来るのを待った。
数分後に、二台のパトカーがサイレンを鳴らして素っ飛んで来た。数人の警官が銀行の中に駆け込むと、やがて手錠を嵌められたコートの男が現れた。
警官に挟まれてうなだれる男を認めた坊主頭は、仰天して振り向いて煙草をもみ消し、車を発進しながら私に怒鳴った。
「お前、どこでかっぱらって来たんだ、百万円の札束と通帳を?」
どこと聞かれたって、館の持ち主なんか知らないし分かる訳がない。だから私は黙ってうつむいていた。
「そうかい、言いたくなきゃあ別に言わなくたっていいさ。銀行に警察の手が回ってるくらいだから、お前の身柄もヤバイんじゃねえのかい、あん?」
坊主頭の男はタイヤをきしませて公園脇に車を止めると、後部座席をふり返って押し黙っている私をじっと見つめた。顔付きや風体をねめ回すだけで、ひっぱたいたり殴ったりはしなかった。
「上等な服を着てるじゃねえか。親父の預金通帳を盗んで家出でもしたのかい? いや、違うなあ。どう見たって良家のお嬢さまってツラじゃねえや。そうだろう? お前の目を見ていると、血の臭いがしてくるぜ。ふん、まあいいか」
男は素性をくどくど詮索することもなく、再びアクセルを踏み込んで車を走らせた。いくつもの信号を右折したり左折したりグルグルと街中を走り、繁華街から脇道に入った雑居ビルの横で車は止まった。
そこは九階建ての古びたマンションで、入口脇の管理人室の小さな窓口は閉じられていた。
エレベーターで最上階まで上がって通路の突き当たりの部屋に入ると、二間続きのリビングに安物のソファーが一つ置かれていた。他にはテレビと電話機があるだけで、机も冷蔵庫も洗濯機も無く、生活臭のしない殺風景な部屋だった。
部屋に入るとすぐに男はどこかに電話を入れた。かしこまった口調から察して、誰かの指示をあおいでいる様子だった。
「おい、姉ちゃん。悪いようにはしねえから、しばらくの間ここでゆっくりしているんだな」
そう言い残して男は鍵もかけずに出て行った。
夕方六時頃、玄関のブザーが鳴るのでドアを開けたら、出前のお兄さんが親子丼を一つ持って来た。代金が無いと言ったら、前金でもらっているから必要ないと言われた。
坊主頭が頼んだものに違いないと思ったけれど、私もお腹が空いていたし、坊主頭も帰って来ないので食べてしまった。そしたら翌日の昼も夜も、毎日、出前が届けられた。私のために坊主頭が出前の手配をしてくれたようだ。
行く当てもなく無一文だし、毎日ベランダから外を眺めているかテレビを見て過ごすしかなかった。二、三度電話のベルがジリジリ鳴ったけど、何となくうさん臭くて放っておいた。
そうして十日ほどが過ぎた昼過ぎに、突然坊主頭の男が部屋に戻って来た。
「おう、姉ちゃん。出かけるぞ。その格好じゃ目立つから、スカートだけ脱いでこれに穿き替えろ」
私は男物のジーパンを穿かされて、グレーのコートと野球帽を目深に被らされた。マンションの前には、フルスモークのガラスで覆われた黒い乗用車が停車していた。車は環八通りから第三京浜に入り、本牧埠頭に向かって走っていた。