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 6の5 策略

 ミチルとの生活が一年ほど続いた頃だった。生理が来なくて身体が不調を訴えるから、もしや妊娠かもしれないと女中にそっと相談したら、執事が慌てて飛んで来た。

 有無を言わさず私は車に乗せられて、町はずれのさびれた産婦人科病院へと連れて行かれた。私に何も知らされないまま、その場で妊娠中絶手術をさせられた。


 私はさすがに考えちまった。この館は、本当は生き地獄の魔窟じゃないのかってね。それで私は決心したのさ。いつか漠然と考えていた企みを、実行に移す日が来たんだってね。この館から出て行く日が、ついにやってきたんだとね。



 私は思案の末に一計をめぐらした。食事を残して食欲不振を装った。部屋の壁に額を打ち付けてたんこぶをつくり、大げさに眉を曇らせて見せた。寝付きが悪くて睡眠が取れないと女中に訴えた。

 身体がだるくて気分が滅入ってイライラするから、ミチルに八つ当たりすることが多くなって、ミチルがかわいそうだと付け加えた。そしたら夕食後に執事が睡眠薬を一錠くれた。

 私は毎晩一錠ずつの睡眠薬をベッドの下に隠して溜めこんだ。そして潰して粉末にした。


 

 冷え込みが厳しいはずの二月には珍しく、穏やかな日和の朝だった。正門横に枝を広げた梅の木に、メジロが蜜を求めて群がっていた。


 執事の運転する黒塗りの乗用車が玄関前に横付けされて、私は助手席の扉を開けて革張りのシートに腰を下ろした。

 門を出て石畳の坂を下れば熱海の街並みまではすぐだった。海岸に出る手前の路地に洋菓子屋があり、執事は店先に車を停めて運転席からは出なかった。


 私は一人で車から降りてガラス扉を開くと、店内は狭いが大きなショーウインドウに色んな飾り付けのケーキが並べられていた。どれもカラフルで美味しそうなので、眺めているだけで楽しかった。

 

 ショーウインドウの端から端までをゆっくりと眺めて歩みを止めた。生クリームの上に大振りの苺が乗っていた。

 挑発するような苺の鮮やかな紅色が、血の色に見えて射すくめられて歩みを止めた。そのショートケーキを四個買った。



 館に戻って皆で昼食を済ませ、一息ついた頃合を見計らって、私は厨房の冷蔵庫からショートケーキを取り出した。

 ミチルの好みの紅茶を入れたいからとつくろって、女中を厨房から退けた。


 四人のコップに紅茶を注ぎ、私以外のコップに睡眠薬を振りまいた。私の心臓はかすかに震えていたけれど、素知らぬ顔を装って紅茶をテーブルに運んだ。


 食後の口直しの苺のケーキを皆は喜んで頬張った。だけど、ミチルだけが紅茶のコップに口を付けようとしなかった。

 いつもなら女中が入れる紅茶を、今日に限ってなぜ私が入れたのか。ミチルはケーキを食べている間もずっと私から視線を離さなかった。


 ここ数日の私の心境の変化を、うすうすとミチルは察していたのかもしれない。自分を見捨てて館から逃げ出そうと、策を弄しているのではないだろうかと、精薄児の鋭い感性が、裏切りのたくらみを目ざとく感知していたのではないだろうか。

 だからこそ、私が入れた紅茶に何かが仕掛けられているのではないかと警戒し、うろんな視線を私に向けて、葛藤しながら窺っていたのだろう。


 私が紅茶を飲むようにすすめると、猜疑のこもった眼で私の瞳を覗き込む。瞳の奥に投影された企てを、敏感な視線でえぐり出そうとする。


 疑念を抱かせないように、煽らないように、私は瞬きを控えて視線をそらす。尋常に振る舞っているつもりだけど、ミチルの目にはぎこちない仕草に見えるのだろうか。



 私はあせった。午後の三時には銀行の窓口が閉まってしまう。それまでに執事の部屋のデスクから預金通帳と印鑑を盗み出して、銀行へ行かなければならない。まとまった金額を引き出して、熱海駅からどこか遠くへ旅立たなければならないから。


 失敗すれば軟禁が監禁となり、二度と逃亡のチャンスは無くなってしまうだろう。足かせまではされないまでも、部屋には鍵をかけられて、外出さえも許されなくなってしまうだろう。

 逃亡計画を成功させるためには、三人を早く眠らせなければならない。そう考えて私はあせった。


 額に汗が滲み出そうで胃がきしむ。それでも何とか平静をよそおい、ミチルの目をしっかと見すえて、念のために用意しておいたセリフを放った。


「ミチルさんが私の買ってきた苺ケーキを食べてくれたのは嬉しいけど、どうして私が入れた紅茶を飲んでくれないのかしら」


 眉をしかめるだけのミチルに、とがめる口調で言葉を継いだ。

「ミチルさんは、私のことを嫌いになってしまったのかしら。だから私の入れた紅茶を飲めないのかしら」

 執事と女中は事の成り行きを理解できずに、いつもの能面で静観していた。


「どうしてそんなことを言うんだい。冴子さんのことが大好きに決まってるじゃないか。何だか変だよ。今日の冴子さんは何だかおかしいよ」

 

 上唇についた生クリームを舌先で舐め回し、応接テーブルに置かれた紅茶皿をイジイジと弄びながら、上目づかいで私を見つめた。

 女心を読みそこなって、いじけてしまった内気な少年のような、不安と懐疑と開き直りをあらわにした物腰のミチルに、とどめの言葉を浴びせてやった。


「私はミチルさんのためにケーキを買って紅茶を入れてあげたのに、どうして紅茶だけ飲んでくれないのかしら。いいからそんな顔をして嘘をつかないでちょうだい。私には分かるのよ、誰だって嫌いな人が入れた紅茶なんて飲めないわ。昨日のことで怒っているのね。庭の花壇に現われたミチルさんを、知らぬ振りして無視したことを怒っているのね。ミチルさんが黙って館に走り去るのを無視して、追っかけなかったことを怒っているんでしょう? 私は半盲だから、館の内なら気配で人の動きが分かるけど、広い庭に出ると、ミチルさんの存在が分からないのよ。私はビッコだから、ミチルさんが駈けて行っても、走って追いかけることができないのよ。私は不具で醜い女だわ。それで嫌いになったのね?」

 

 ミチルは必死の表情で言い返した。

「だって、僕が声をかけたのに、冴子さんは聞こえない振りをしたじゃないか。だから寂しくて館へ逃げたんだ」


「小鳥のさえずりがミチルさんの声をかき消してしまったのだわ。私は花の匂いに酔っていたから。だから、私は昨日のお詫びにと思ってケーキを買って、ミチルさんのために紅茶を入れてあげたんだけど、でも駄目ね。ミチルさんとはしばらくお話できないわね。いいのよ、私は嫌われたままで。さめた紅茶なんか我慢して飲まなくてもいいわよ。とっても悲しいけど」

 

 私はなじるように言い捨てると、見つめ合っていた視線を鋭利なカミソリで断ち切るようにスパッとはずして、自分の紅茶を見せつけるように一気に飲みほした。


「の、飲むよ! 僕も飲むから見てて、見ててよ! 冴子さんを嫌いになんかならないよ」


 そう叫ぶとミチルは、ズブズブと音を立てて一息に喉に流し込んだ。気管に紅茶が絡んでゴホゴホと咳き込んでいるうちに、執事と女中はリビングのソファーに移動して深く腰を下ろし、頭をうなだれるとやがて深い眠りに落ちていった。


 その不自然な動きに異変を察したミチルは瞳をまん丸く見開いて、ソファーに移動する私の身体を掴むように抱き付き、胸元に顔を埋めてきた。


「どこへも行かないで冴子さん! 絶対にどこへも行かせないよ! どこへも行かせるものか!」


 叫んで腕に力を込めて抱きしめてきた。そんなミチルをかわいそうだと哀れんだ。でも、彼の奴隷として一生を送るには、まだ自分の人生は長過ぎる。


 この先、老いた執事や女中が死んだなら、彼らの代わりに陰湿で冷酷な人間がやって来ないとも限らない。そうすれば、残虐な扱いを執拗に受け続けることになる。

 さらに、ミチルの寿命が尽きた時、無用となった玩具は路傍の小石のように捨てられる。その時私は廃人となるか屍となるか、ささくれた運命に疑念はない。

 この館から飛び出して、半盲のビッコに生きる目処などありはしないが、たとえ野垂れ死んでも今抜け出さなければ、年を重ねた時の運命を悔いることになると覚悟した。


 ミチルの手足を振りほどこうとしたら、いきなり喉元を掴まれて締め付けられた。怒りを交えて私の上にのしかかってきた。


 そもそも脆弱な神経が、失う価値の大きさを知って耐えられず、分別も見さかいもなくギュウギュウと首を締め付けてきた。

 ミチルの狂気に戦慄を覚えた私は、渾身の力を込めて身体をねじり、両足を蹴り上げてソファーから転がり落ちた。

 その拍子にミチルの後頭部が応接テーブルの角に打ちつけられて仰向けに倒れた。私は両肩を押さえつけてまたがり、呻き声をあげるミチルの耳元に囁いた。


「ごめんね、ミチル。私はいつまでも、ここに居るわけにはいかないのよ。あなたのことが心配だけど、あなたの面倒をみるだけで自分の人生を終えたくはないのよ。館の外に、自由や希望があるとも思えないけど、別の人生があるはずだから。ごめんなさいね」


 ミチルの瞳に涙が浮かんだ。あふれた涙が目尻から流れ落ちて、鼻水と一緒に床を濡らした。


「行かないで冴子さん。僕を一人ぼっちにしないでよ。僕を置いて行かないで。一人ぼっちにしないでよう」

 

 一人ぼっちというミチルの叫びに心が揺れた。自分はこれまでずっと一人ぼっちで生きてきた。自分ひとりが一人ぼっちだと、ひとりよがりに決め込んでいた。そうではないのだと、自分一人ではなかったのだと気づいて胸が震えた。


 両親の顔も知らされずに孤独にされて、私と一緒にいる間だけは一人ぼっちでなかったミチルが、また一人ぼっちに取り残される。ミチルの流す涙のしょっぱい苦味が私には分かる。

 

 自分は半盲でビッコだけど、本くらいは読めるし街だって歩ける。だけどミチルは生まれながらの精神薄弱児だから、生きるために背負ったハンディキャップはミチルの方がずっと重い。一人ぼっちにしないでよと、心の底から悲痛に叫ぶミチルの声が、過去の自分の叫びに重なって胸の臓腑が切り刻まれる。


「ごめんね、ミチル。私はね、この館にいる間に子供から大人になれたような気がする。物の見かたや感じかたが変わったような気がするんだ。オタマジャクシが蛙に成長したようにね。私は楽しかったよ。ミチルがいてくれたおかげでとっても楽しかったよ。でもね、それでも私は行かなくちゃならないんだよ。あんたの一人ぼっちの犠牲になるわけにはいかないんだよ。元気でね、ミチル」


「いやだ! 行かないで冴子さん。お願いだから、お願いだから僕を置き去りにして行かないで。お願いだから……」

 麻酔が効き始めたのか涙が瞳に覆いかぶさり、ミチルの肩から力が抜けた。


 眠りに落ちていくミチルの身体から素早く身を起こした私は、急いで執事の部屋に駆け込んで、デスクの引き出しから預金通帳と印鑑を取り出した。

 それからリビングに駆け戻り、眠りに落ちた執事と女中とミチルの身体を交互にひきずり、庭の巨木の陰まで運び出した。


 そしてキッチンに駆け込んで、ガスコンロのゴムホースを包丁で切り裂き、思い切り引きちぎった。元栓のコックをいっぱいに開くと、シュシューと噴き出したガスがキッチンの床にめがけて強烈な臭気をただよわせた。

 流しの中に立てた三本のローソクに火をつけて、キッチンからダイニングへの狭い通路を段ボールでふさぐと、私は急いで館の外に飛び出した。



 施設から私を拾ってくれた恩は感じる。だけど、自分たちが産んだ子供を一匹の虫けらのように館に閉じ込め、表と裏の顔をつくろっているミチルの両親を許せなかった。


 親はいつだって身勝手なんだ。自分勝手に子供を作り、味の失せたチューインガムのように路傍のふきだまりに吐き捨てる。館が爆発すれば事件となって、醜悪な裏の姿が表沙汰になるだろう。地獄の底で苦しみうごめいている我が子の姿を、改めてしっかり見つめるがいいのさ。


 私は急いで館を飛び出して坂を下り、熱海市内にある銀行支店の窓口で百万円を引き出した。通帳には五百万円の残金が記されていたけど、全額を下ろせば行員に詮索されそうな気がして怖かった。

 百万円の札束と通帳をナップサックに放り込むと、急ぎ足で熱海駅へと向かった。


 丘の上でドドドーンと地を揺るがすような轟音が響き渡ったのは、駅へ向かう石畳の路上だった。真っ赤な火柱が黒煙となって、入道雲のように空をおおった。


 熱海駅の窓口で、東京駅までの乗車券を買った。東京は殺伐として生き馬の目を抜くほど怖いところだと聞いていたけど、半盲でビッコがまぎれ込んで生きるには、泥沼のような大都会が好都合かもしれないと思ったから東京へ向かった。

 

 東京行きの列車に乗り込むと、誰かのラジオから「アカシアの雨がやむとき」の曲が流れてきた。冷たい雨に打たれてこのまま死んでしまいたいと、西田佐知子が歌う歌詞が切なくて耳に焼き付いた。


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