6の4 嫉妬
館の書庫には、ありとあらゆるジャンルの書籍がぎっしりと詰め込まれていた。ドストエフスキーとかシェークスピアとか、難しそうな作家の全集が壁面いっぱいの書棚に並べられていた。
難解な言葉や言い回しばかりで綴られた文学や、歴史の書籍なんかに興味はなかったけど、昔話やおとぎ話などの童話集や、写真やイラストがたくさん並ぶ百科事典は楽しかった。
施設にいた時に小学校の教科書を与えられて、国語のページをめくっているうちに幸福という文字を見つけた。その文字を見て、少女だった私の心が、何かを求めるようにビクリと疼いたことを記憶している。
私は書庫で色んな書物を広げて瞑想にふけるようになっていた。幸せの形や夢を求めて、自分だけの人生を見つけたくてさまよっていた。
そんな私と裏腹に、ミチルの心には嫉妬という感情が生まれていた。あの日から、友としてではなく、女として占有する欲望が芽生えていた。
館の中には老紳士の執事と女中しかいないというのに、ミチルの妄想の中では闇雲な嫉妬の炎がチリチリと燃え始めていたのだ。
西洋風の広いガーデンでは、春夏秋冬の花が四季折々に咲き誇れるように手入れがされていた。シャンデリアのロビーから一歩外に踏み出せば、爽やかな香気が風に運ばれて頬を撫でる。
藤の花のトンネルを潜ると、スイートピーやアイリスの花蜜の香りが騒がしい。奥へ進めば紫陽花や真赤なアマリリスが鮮やかな色気を添える。
万華鏡の花畑を、蜂や蝶が蜜を求めて軽やかに飛び回る。野に咲く雑草しか縁がなかった私でも、一人の女として蜜を求めて羽ばたきたい。
いつものように着替えを済ませて部屋を出て、奥庭の小道に咲く花を愛でながら散策していると、ミチルの部屋のカーテンの隙間から、双眼鏡のレンズが覗いてキラリと光った。
欅の太い古木に身を隠すと、双眼鏡の動きがピタリと止まり、木陰から私が顔を出すのをじっといつまでも待っている。
欅の古木から隣の木へと身を翻せば、双眼鏡のレンズが光を放って追いかけてくる。花畑を駆けまわればその間中、一時間でも二時間でも執拗に私の動きを監視するようになっていた。
執事と一緒に外出する時などは、車に乗り込む私の顔を威嚇するようなしかめ面で睨み付ける。
買い物を終えて戻って来れば、どこへ行ったか、何を見たか、何を買ったか、途中で誰にも会わなかったかと、こと細かく尋問を繰り返して辟易とさせた。
館の中での時間はどうせ止まっているのだから、相手をすることにさほど疎ましいとは思わないが、月に一度の生理の日などは、執拗さに苛ついて怒鳴りつけることがあった。
「うるさいなあ。そんなにまとわり付かないでちょうだい。しつこくすると館から出て行っちゃうよ」
「そんなこと許さないよ。出てなんか行かせるものか。絶対に許さない。僕はそんなこと許さないよ」
「とにかく部屋を出て行ってちょうだい。今日はとても気分がすぐれないから、お願いだから向こうへ行ってちょうだい」
「そんな我が儘は許されないよ。僕にそんな命令なんかしちゃいけないよ。つまらないことを考えるから気分が悪くなるんだよ。僕のそばにいなくちゃいけないんだよ」
疎ましく思って素っ気なくしていると、私の歓心を買うために私の持ち物を隠し始めた。私が大切にしている物は何だろうかと一生懸命に考えて、ミチルの部屋にこっそりと隠した。時には、靴や下着まで隠して困らせた。
困った素振りをして背中を向けて泣きまねをしていると、無理やり背後から乗っかってくる。
ミチルはしばしば嫉妬に狂って変な夢を見るようになっていた。部屋に飛び込んで来た時のミチルの表情を見れば、また夢を見たのかとすぐに分かった。
子猫が威嚇するように背伸びをして指先をくねらせ、がむしゃらに喚き散らして私をベッドの上に括り付ける。決して逃げ出せないように手足を縛り、がんじがらめにして目を血走らせている。
そんな時だけは、私がどんなに険しい表情であやしても、ミチルの黒眼の奥の怪しい嫉妬の狂気を鎮めることは出来なかった。
私は施設にいた頃から独り言をよく呟いていた。一人で飯事でもするように、お父さんや、お母さんや、いるはずのない兄や姉や妹に向かっておしゃべりをしていた。
だけど、館に来てからの独り言は尋常ではなくなっていた。誰か分からない相手に夢中になってしゃべっている。人間だか動物だか、草だか虫だか分からない相手に向かって一生懸命にしゃべり続けている。
鏡の中の自分に問いかけ、空気や水や太陽に向かって謎かけをする。思い出にふけるだけの豊かな記憶なんかありゃしないから、どうして生まれてきたのかを考えて、これからどこへ行くのかを問いかける。
自分はミチルと共に老いるのか。あの老いた女中のように、館に閉じ込められて感情を失ってしまうのか。生きる気力も死ぬ勇気も与えられず、愛も知らず希望も持てず、感性も理性も奪われたまま、汚泥の裏でひっそりと息をひそめるミミズのように、喜怒哀楽の失われた闇の空間に呪縛されて老い果てるのか。
それは絶対に違うと、満身の血潮が絶叫していた。
たとえ半盲だってビッコだって、たとえ一炊の夢であっても奈落の底の地獄でも、運命の矢尻は別の方向を示しているはずではないかと血が騒ぐ。草木も風も相槌を打ってはくれないけれど、鏡の向こうに何かが見える。
館にいるかぎり虐待はないし、食事もきちんと与えられる。安寧とか贅沢とか考えたこともなかった自分なんかには、身に余るほど過分な待遇だったかもしれない。だけど、どこか歯車が噛み合っていないんじゃないかって気がしてきた。何かが狂っているんじゃないかってね。
寝ぼけ眼の脳味噌に、棘を刺されたように疼くんだよ。自分のような育ちの人間が、自分を取り巻く環境に贅沢を言ったり、人の生きざまをとやかく揶揄する資格なんてないけれど、ミチルとの生活に焦燥感を覚えるようになってきた。