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 6の3 ミチルの才能

 その日はミチルの誕生日だったから、食べきれないほど豪華な夕食だった。いつもは沈黙の食事風景だが、執事も女中も些細な話題で多弁だった。


 食事もケーキもあらかた食べ終えると、執事は後片付けを女中に任せ、ミチルを促して奥の部屋へと向かった。

 館の奥に窓の無い部屋があって、そこには真空管のオーディオアンプや大型のスピーカーがいくつも据えられていた。


「冴子さんも一緒においでよ」と、ミチルに誘われてその部屋に入ると、薄暗い照明に挽き立てのコーヒーの香りが漂っていた。

 ミチルと並んで正面中央のソファーに腰を下ろすと、心得たかのように執事は入口横の木製のチェアーに腰掛けた。


 ミチルにならってサイドテーブルに置かれたカップを取り上げる。コーヒーの香りを鼻孔で嗅いで、ゆっくりと喉に流し込む。わずかな沈黙と仄かな灯りが、挽きたての香りを引き立てる。このゆらぎの空間が、重苦しい緊張感を解き放つ異次元の世界のように私には思えた。


 おもむろに執事が立ち上がり、プレーヤーの盤上にトーンアームの針が落とされる。やがて左右のスピーカーから静かに前奏が流れ始める。

 ピアノやビオラや様々な楽器が合奏されて、巨大なスピーカーから床を揺るがす重低音が吐き出される。


 教養のない私には全ての音が難解すぎて、街中に溢れる騒音よりも厄介で耳障りな雑音でしかなかった。

 演奏が終わるたびに執事が私に近付き耳元で、モーツアルトとかショパンとか囁くように説明されたけど、何のことだか分からなかった。

 

 だけど、ミチルの眼は輝いていた。その瞬間だけは生き生きと、爽やかな人間の眼をして輝いていた。


 焙煎されたコーヒーの苦みが、クラシックの旋律をさらに重厚に潤すのだろう。ミチルはまるで壇上に立つ指揮者のように、うつむき加減にしっかりと目を閉じて、両肘を上下に揺らしている。音楽という世界に、身も心も委ねてまどろむように陶酔していた。


 そんなミチルのありようが、とてつもなく高貴な存在に思えて異質に感じた。精薄児という仮面の裏側で、ピエロを演じているのではないかとさえ本気で思った。そう思った理由はそれだけではない。


 玄関のロビー横にマホガニーのピアノが置かれていた。気が向くとミチルは何時間でもピアノを弾いていた。

 本棚にはたくさんの教本が並べられていたけど、一度だって楽譜を開いてピアノを弾いているミチルの姿を見たことはない。恐らく楽譜なんか見ないで、出鱈目に鍵盤を叩いていたのだと思う。


 ピアノの楽曲なんてまるで無知な私だけど、ミチルの演奏を聞いていたら、たまにリズムの噛み合う瞬間を感じることがあった。鼓膜をスウーッと通り過ぎて、心地良い旋律となって引き付けられることがあった。

 

 そんな時にはいつの間にか執事がやって来て、空白の楽譜を何枚も取り出し、リズムに合わせて音符を書き込んでいた。

 それをミチルに見せながら、楽しそうに談笑していた。その楽譜を見ながらミチルがピアノを弾き始めると、執事は満足そうに聴き入っていた。


 その時に私は思ったんだよ。ミチルの親は有名な音楽家じゃないのだろうかってね。

 天才的な音楽家の血がミチルの身体に流れているけれど、生まれる時に何かの拍子で頭脳を支える染色体がいびつに狂い、遺伝子が変形してしまったんじゃないかってね。

 精薄児となった息子の存在を世間に知られるのが煩わしくて、こんな館に匿っているんじゃないだろうかって考えたんだよ。


 弾けたのはピアノだけじゃない。バイオリンだってクラリネットだって器用に扱えた。即興のメロディーに私は耳を澄ませて聴き入ったこともある。でもね、飽きてしまうと、いきなりギリギリ、ピロピロとやり始めて、もとのミチルに戻ってしまうのさ。


 一旦もとに戻ってしまったら、天才の遺伝子も面影もすっかり消え失せて、よだれを垂らした精神薄弱の子供になってしまうのさ。

 そんなミチルもね、男としての遺伝子をきっちりと受け継いでいた。



― ミチルの欲情 ―


 その日は早朝からのそぞろ雨に館の隅々までが陰鬱で、ベッドから起き出すのも面倒くさくて眠気眼にうだうだしていた。


 廊下から聞こえる足音が気になって、ぼんやりと耳を澄ましていたら部屋の前で止まった。誰だろうかと首を持ち上げていたら、ミチルがパッとドアを開いて覗き込んできた。部屋に入ってドアを閉めたかと思ったら、突然私にのしかかってきた。


 私は訳が分からず身をすくませた。そんな私をミチルは無視して、毛布を剥ぎ取り抱き付いてきた。胸元に顔を擦り付け、着ている衣服を邪険に脱がそうとする。

 

 私は驚いて起き上がり、大声をあげたら執事と女中が飛んで来た。ところが何と、執事が私の身体を背中から羽交い絞めにして、女中が私の衣服を脱がし始めた。

 あたしゃ、何が何だか分からなかった。病院の手術台にむりやり縛り付けられて、麻酔もなしに手術を受ける患者と同じさ。

 

 執事は身もだえる私の両肩を押さえつけて、ミチルの背中越しにじっと見下ろしていた。いつかはこうなることが当然なのだと言わんばかりの無表情で、亀の甲羅でも押さえつけているかのように無造作だった。

 私は羞恥を抑えて目をつむり、身をこわばらせて女中のなすがままに観念するしかなかった。そのとき私はふっと思った。どうして女中はこんなに手慣れているのだろうかと。自分の前にも、この館に連れて来られた女がいたのだろうかといぶかってみた。


 ミチルは女を優しく扱う所作を心得ていなかった。でも、精神薄弱であればこそ、何度でもうぶな仕草を繰り返すことは不思議ではない。


 私はね、女中の手ほどきのお陰で、初めて男という存在に気付いたんだ。私は女だったんだねって。その瞬間に、あの男の怖ろしい顔がトラウマとなって浮かび上がった。ミチルの顔があの男の顔に重なって、私の身体に襲いかかったんだよ。

 思わず手足をバタつかせたけど、執事と女中に動きを封じられてどうすることも出来なかった。抵抗を諦めて目をつむると、男の目鼻がミチルの表情と一体になる。あの男から逃げ切れたけど、目の前にまた男がいる。


 あっと言う間にミチルは果てたけど、私の身体の内に、無尽に流れる滝の糸を見つけたんだよ。私にも新しい人生があるはずだよねって思ったのさ。

 

 この館の外に私だけの人生が、きっとあるはずだって気付いたんだ。それからずっと考えた。私だけの人生があるとすれば、どこに、どのような姿であるのだろうかって。


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