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 6の1 殺意

 乱れ雲に満月の夜だった。その晩も男のいじめは辛酸を極めて容赦はなかった。殴られ蹴飛ばされながらも、私はひたすら耐えて時を待った。


 やがていびり疲れて酔いが回ったのか、男は布団に横たわるとすぐに寝息を立て始めた。

 私は煎餅布団から顔を出して考えていた。殴られながら、痛みをこらえながら、これまでもずっと考えてきた。殺されるのか、生き延びるのか、どちらの道が自分に許される選択なのかを。

 

 迷って淀んですさみきった感情の隙間に悪魔がすり寄って、生と死を天秤にかけろと囁いた。命を生贄いけにえにした真の安らぎは何だと問いかけてきた。

 生きる権利以外に答えはなかった。だから、殺意に対する迷いも恐怖もすでに無い。今の現実が怖かったから、男の恐怖から逃れるために、殺意はすでに必然だった。


 私はゆっくりと立ち上がり、天井からぶら下がる裸電球をひねって、男の寝顔と母の寝息を確かめた。二人の布団を踏みつけないようにと息を凝らし、台所まで行って流しの下の扉を開いた。

 扉裏のケースに二本の包丁が差し込まれている。そのうち一本を引き抜いて、両手でしっかと握りしめた。


 男は酔いつぶれて古布団の上に、高いびきでぽっかり口を開いておりました。

 男の口の中にゴキブリの死骸を放り込み、包丁の刃先を喉の奥まで突っ込んで、力いっぱい突き刺しました。絶対に生き返らないように、体重を腕にあずけて突き刺しました。

 突然男は目をむいて、私を睨みつけたようだけど、私は両腕に込めた力を怯ませることなんかしなかった。


 噴き上げる血潮の色が、カーテンの隙間からもれる満月の光に照らされて、赤かったのか青かったのか覚えていません。まだ九歳の小娘だった私には、顔に飛び散る返り血の、どす黒いぬめりの火照りが血の色でした。


 涙が頬に溢れて零れ落ちたけど、悔しさなのか、愚かさなのか、分かりません。胸の鼓動を抑えて耳をすませば、閉じ込められた鈍色にびいろの空洞から鉛の呼気が溶けだしてゆく。

 人殺しだとか、悪いことをしたとか、微塵みじんも思わなかった。凶暴な毒虫が一匹くたばっただけだから。


 母は男の悲鳴に目を覚まし、私の姿を見ると絶句して立ちすくんだ。そして、抱きしめる代わりに私の頬をひっぱたいた。涙を流しながら、いつまでも頬を叩き続けた。

 私は母を突き放して、呻くように言葉を絞り出した。


「お母さん、私を殺して! 私を楽にして! お母さんの手で私を殺して! 私もあの男と一緒に地獄へ行くから」

 

 母はしゃくり上げて泣いていた。おえつしながら私に詫びた。

「ごめんね冴子。ごめんね冴子。冴子は悪くないのよ。お母さんが悪かったのよ。お母さんを許してちょうだい」

 

 そう言って母は、包丁に付着した私の指紋をきれいに拭って自分の指紋を付けた。私の顔から血をふき取って、男の血糊を自分の顔に塗り付けた。

 母は私の身代わりになって獄に繋がれて行った。

 

 私の身体中のアザを見て、すぐに警察は虐待だと判断した。だから私は、虐待が死ぬほど辛かったと、憐れな声で泣きながら訴えた。そして、母に虐待を受け続けたんだと涙を流して泣いた。

 なんて酷い母親なのだと警察官は罵った。母から受けた虐待に辛くて、私が泣いているのだと信じ込んでいた。


 本当はね、嘘をついて母を重い罪に陥れてしまった罪の重さと業の深さに泣いていたんだよ。なぜ嘘をついたのかって? だって、私の身体はもうボロボロだったのに、母はあの男の言いなりだった。

 

 私はね、耐え抜くことが常套になってしまい、どんな痛みも虐待も我慢できるようになっていた。でもね、孤独と絶望感にだけは耐えられなかった。悲しくて、悔しくて、母を恨んだ。だから嘘をついたのさ。

 

 私はね、その時すでに半盲だった。医療施設に送り込まれて検査を受けたら頭蓋骨陥没だと診断されたのさ。男に蹴飛ばされて仰け反った時、頭蓋骨がわずかに陥没したのさ。危うく全盲になるところだったと言われたよ。



 それから施設に送られて、そこでも一人ぼっちだった。不具者の小娘を相手に友達になろうなんて気のきいた奴なんていなかった。

 楽しいことや面白いことなんて何もなかった。それでも良いことが一つだけあった。施設に入って勉強ということがどういうことなのかを初めて知った。

 

 小学一年生の教科書をもらって、初めて自分だけの所有物を与えられたような気がして嬉しかった。掛け算や割り算どころか、いちたすいちすら知らない私はみんなから軽蔑された。自分の名前すら漢字で書けなかったんだから。

 

 それでも国語や算数や理科の教科書を抱きしめているだけで楽しかった。頁をめくってながめているだけで、勉強しているような気分になれた。

 音楽の教科書を見ながら、先生のオルガンに合わせて童謡を歌えることが夢のようだった。

 

 勉強なんて初めてだから、亀の歩みのようにゆっくりとみんなについていった。この鈍足の歩みがなかったら、自分は生きていけなかったかもしれないと思う。


 施設の中では差別もいじめもなかったけれど、肉親の愛を知ることのない、孤独に歪むみんなの表情が陰鬱だった。誰もが深い傷を負っているから、いじめることも傷をなめ合うこともできないのだろう。

 

 小さな壺を住み家としてうずくまるタコみたいに、誰もがいつも白い闇と向き合っていた。孤独という意味もわからないままに、すさんだ心が闇のさざなみに浸されていた。


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