第6章 女囚・冴子
大食堂に薄ぼんやりと自家発電の蛍光灯が灯された。三囚入り混じっての合同コンパの酒宴は盛り上がり、嬌声を交えて賑やかに時が刻まれていた。
暴動を危惧して尻込みをしていた看守たちも、すっかり気を許して囚人たちからお酌を受けている。
つまみの煮物やビールを持ってテーブル席を回っている看守の様が、大衆酒場の店員のようで滑稽で和やかだ。
西の窓際のテーブル席で盛り上がっているのは、死刑囚の郷田健吉と錦小路京麻呂、そして女囚の三人だった。
「次は姉さんの身の上を聞かせてもらおうじゃねえか」
健吉に促されて女囚が飲みかけのコップをテーブルに置く。手の甲で口を拭って眉をしかめる。
「右目がほとんど見えないって言いましたけど、何か深い事情がありそうですねえ」
京麻呂の問いかけに、女囚はコクリと頷いた。
「あたしの名は冴子。無期だよ」
ふっとひとつ呼吸を置いて、無期懲役囚の冴子が語り始める。
*****
私は九州の炭鉱町の生まれでね、薄汚れた六畳一間のアパート住まいで貧乏だった。だけど、子供たちは明るくて屈託がなく、服は継ぎ接ぎだらけだし靴は穴が開いていたけど、みんなそれが当たり前だと思っていた。
父はとても優しくて、私が泣きべそを掻いていたらおんぶしてくれた。その父が、いつの間にか家を出て居なくなった。そしてすぐに、知らない男が泊まり込んで同居するようになった。
私はそいつが嫌いだった。男も私のことを、邪険な目付きで睨みつけていた。
男は酒を飲むと乱暴になり、ある晩、私の態度が生意気だと叫んで、飲みかけのビールを私の顔にぶっ掛けた。
母は男の粗暴を咎めることもなく、黙って私の顔をタオルで拭いてくれた。
― 写真 ―
ある日のこと、男が持ち込んできた古いボストンバッグの中をこっそり覗いてみたら、母と並んで笑って写っている写真があった。優しかった父が居なくなったのは、きっとこの男のせいに違いないと確信した。
私は裁縫箱から針を取り出して、写真の中でニヤついている男の両目にブスリ、ブスリと突き刺してやった。
針の刺さった写真を見つけて男は激怒したね。こいつは悪魔だと叫んで、私の顔を洗面器に溜めた水に何度も押しつけた。私は手足をバタつかせて抵抗したけど、そのうち声も呻きも出なくなって気を失った。
その日からだよ、虐待が始まったのは。
灰皿を持って来いと言われて知らぬ振りをしていたら、いきなり煙草の火を押し付けられて、手の甲も腕も足も水ぶくれでアザだらけだよ。
不貞腐れているとか、横着だとか、可愛げがないとか言われて、殴る蹴るの毎日で体中が傷だらけになった。
梅雨の明けきらない蒸し暑い雨の夜だった。稲妻の火柱でボタ山が黒く浮かび上がる。安普請のアパートに大粒の雨滴が叩きつけられて、窓ガラスがピシピシ悲鳴を上げる。
夜の八時を過ぎた頃、男はずぶ濡れに泥酔の態で帰ってきた。ドアを乱暴に開けて入ると、また酒を飲み始めた。
仕事で気に入らない奴と喧嘩でもしたのか、剣呑な目つきで喚き散らしたあげくに、ちゃぶ台をひっくり返した。畳の上に転がった茶碗や小皿を母と私に投げつける。
男がちゃぶ台の脚を掴んで頭上に持ち上げたとき、私は殺されるかもしれないと怖くなって、台所から包丁を持ち出して男に切りつけたのさ。
私は蹴り上げられて、張り倒されて、髪の毛を掴まれて独楽のように振り回された。男はもう気が狂ったように逆上していたから、私が抵抗すればするほど髪の毛を掴む手に力が入っていきり立つ。
勢い余って男の手が離れた瞬間に、私は足がもつれて後ろに仰け反り、はずみに流し台の角に頭を強く打ち付けた。激しい目眩と鈍痛に身体が痺れ、目の前が真っ白になって気を失った。
目が覚めたら朝になっていた。男はもう仕事に出て行って部屋には誰も居なかった。頭の芯がずきずき痛むので、ゆっくり立ち上がろうとしたら目眩と嘔吐でよろめいた。
数日で痛みは和らいだけど、次第に目がかすんできたんだよ。右目をつむれば左目だけでちゃんと見えるけど、両目を開けば白いものが混じって焦点が合わずに二重に見える。
医者に連れてってもらえるはずもないから、そのまま我慢していたら右目がほとんど見えなくなった。あの男のせいで、私はめっかちにされてしまったのさ。
― ゴキブリ ―
そのころ母は、あの男の赤ん坊を身籠っていた。だんだんと産み月が近付くに連れて、男の虐待はエスカレートして尋常じゃあなくなってきた。
二日も三日もご飯を食べさせてくれない時もあった。お腹が空いてじっと食卓を見詰めていたら、お前に食わせる物なんか無いと言われて味噌汁を頭からぶっ掛けられた。髪の毛を伝って滴り落ちる味噌汁を舐めるように啜った。
味噌汁の匂いに誘われたのか、タンスの隅から一匹のゴキブリが這い出して来た。
カサコソと畳を這いずる音を聞きつけた男は、晩酌の茶碗を置いてギラリと視線を向けた。鋭い殺気に危険を察知したのかゴキブリは、ピタリと動きを止めて身を沈めた。
男は私を藪にらみにして言った。お前の仲間が遊びに来たぞって。友達だろって。ぼんやり眺めていないで遊んでやれよって。それが嫌なら叩きつぶして外に放り出せって言うんだよ。
私だって女だよ。ゴキブリは気色悪いに決まってるじゃないか。思わず私は母のふところに飛び込んで顔を埋めたのさ。そのとき私はハッとした。お腹の赤ん坊が動いたような気がしてさ。
男は口に含んだ酒をゴキブリ目がけてブッと吹きつけて、たじろいで身動きできないゴキブリの背中を箸の先で串刺しにした。
必死に手足を動かす瀕死のゴキブリを見て、私は自分が串刺しにされたような気がして、凍りつくような痺れを感じて震えあがった。
「甘ったれてんじゃねえぞ、このガキ」と、男は叫んで立ち上がり、私の髪の毛を鷲摑みにした。
母にしがみ付いていた私の手足を引っ剥がし、無理やり口をこじ開けて喉の奥までゴキブリを押し込んだのさ。
どうだ、うまいだろう。よく噛んで食うんだぞと言って、髪の毛を掴んだまま私の身体を引きずり回して部屋の外へ放り出したのさ。
弾みの付いた私の身体は玄関先から外階段に転がり落ちて、くるぶしが鉄柵に挟まれてボキッと脚の骨の折れる音が聞こえた。
その瞬間は不思議に痛みを感じなかったけど、じっとうずくまっていたら母が飛び出して来て、私を抱きかかえようとした時に鋭い痛みが走って悲鳴を上げた。脳味噌をキリで突かれたような激痛だった。
母は泣き叫ぶ私を抱いて部屋に戻り、タオルを冷やして巻いてくれた。痛くて痛くて、辛くて悲しくて悔しくて、それから何日も壁に向かって泣き続けたけど、母は男に遠慮して、私を病院へは連れて行かなかった。
暗くなって男の靴音が聞こえてくると、身体がブルブル震えてくる。生きることに悲観して捨て鉢になり、漠然と死について考えるようになった。
死んだらどうなるんだろうって毎日考えていると、夢の中に妖怪が現われてうなされる。
目を覚ませば妖怪は消えるけど、絶望的な現実の恐怖が幻覚となって襲いかかる。容赦のない鬼畜の虐待から逃れたくて、死んだ方がましだと何度も思ったけど、死の闇を乗り越えるだけの勇気はなかった。
右目がだんだんと白い膜におおわれてきて、左目まで見えなくなるんじゃないかと考えると不安で怖かった。心が押しつぶされてしまいそうで死にそうで、誰か助けて欲しいと胸の内で叫んでいたけど、母さえも頼りにならないと思えば絶望しかない。
そのとき、恐怖の閃きが鏡面となって脳裏を切り裂き、無残な自分の姿を見せつけられて慄いた。
母があの男の赤ん坊を産めばどうなるか、私への虐待がもっと過激になるだけでは済まないだろう。間違いなく殺されてしまうと考えて戦慄が走った。
あれ以来、私の目は日増しに悪くなり、どんどん視力が落ちて視界が薄らぐ。いつか盲目になるかもしれない。
脳天が痛み、全身が疼く。骨折して捻じ曲がった脚は、もう元通りにはならないかもしれないが、まだ自由に歩くことが出来る。
目が見えなくなる前に、足で動けるうちに、男を殺さなければ私が殺される。まだ死にたくはない。この男のために死ぬのは嫌だ。
身体中の神経が、鳥肌立つように震え上がった。恐怖と孤独と絶望感に怯えが走った。怯えが狂気となって殺意をはらんだ。殺意は絶対的な決意となって、畏怖も怯えも舐め尽くした。