第5章 西園寺正義の座標軸
新宿駅の飛び込み自殺が報じられた小さな記事の裏側にも、どろどろとして複雑な人間事情が絡んでいることに感動して好奇心が疼いたのは、西園寺正義が中学生の時だった。
そのとき西園寺は、事件の裏側に土足で踏み込み、他人の人生を覗き込めるのは事件記者の特権だと認識した。それ以来、報道の自由という権利を振りかざして活動できる新聞記者に憧れた。
東京大学に入学した西園寺は、ためらうことなく新聞部に入部した。毎月発行している大学新聞の編集にたずさわり、部室の書棚でほこりをかぶっているマスコミ概論やジャーナリズムに関する本を読みあさった。
一年生の時には広告集めのために、企業や地元の商店回りをやらされた。ゲラ刷りの校正作業もさせられた。大学祭や特集の記事集めに奔走した。
我々の編集方針は自由だと編集長は主張した。大学新聞は情報集積の窓口であり発信地でもあるから、コラムや特集記事など企画の内容に制限を設けたりはしない。学内のイベントに限らず、広く企業や社会問題などについても取り上げると力説した。
二学年の講義が終了して春休みに入る直前だった。来年度の編集企画をまとめる定例会議が行きつけの喫茶店で開かれた。
大筋はすでに出来上がっており、コーヒーを飲みながらの話題はもっぱらスキーや帰省など休暇中の計画だった。
そんな折、西園寺はかねてから立案していた企画を提案した。
「我々は企業研究のために、OBのいる会社を訪問して記事を集めて特集を組んでいます。企業を研究することにより企業を取り巻く業界を知り、社会に及ぼす環境や背景を知ることができるからでしょう。それを学生たちに広報することが、我々の任務だと認識しています」
何を言い出すのかと、コーヒーカップを手にするみんなの眼差しが西園寺の口もとに集中した。
「自分は法学部を選択しているので、検察庁にも弁護士事務所にもたくさんのOBがいます。異常な殺人事件や特定の犯罪事件を取り上げて、それを取材することによって事件の深層をえぐり出し、一抹の真実を白日にさらして検証することも、これから社会に旅立つ学生たちにとって強烈な社会勉強になるのではないでしょうか。法学部に身をおく新聞部員として、ぜひ取り組んでみたいと思うのですが、いかがでしょうか」
みんなは互いの顔を見合わせながらも、様々な意見でざわついた。
異常な殺人事件とは何を意味しているのか。大学新聞が取り上げる社会問題としては、はなはだ趣旨が異なるのではないか。猟奇にかたより過ぎて常軌を逸するのではないか。官憲の臭いがするような企画はタブーではないのか。プライバシーの問題に抵触しないのか。
さまざまな異論も出たが深く検討されることもなく、まあいいかという編集長の一言で、みんなは休暇中の話題にもどってしまった。
春休みが終わり三年生になった西園寺は、さっそく取材活動の準備を始めた。朝刊の社会面に目を通して、世相を反映させるような時事ネタを探した。そして、これなら自分でも取り組めそうだと思える犯罪事件の記事を切り抜き、活動スケジュールをノートに記した。
そうして事件記者の真似事が始まった。さっそく新聞社のOBたちを訪問した。警視庁の記者クラブにも紛れ込んで出入りした。
たちまち西園寺は面食らった。社会問題の提起とか犯罪者の深層心理とか、青臭い学生の論理とは関係のない世界がそこにはあった。憎悪や怨念や血の臭いが多分にくすぶっている。どこをどう切り取れば大学新聞に掲載できるのか。
それでも西園寺の好奇心は尋常ではなかったから、執拗に事件に食い下がっていた。そんなとき、現場で活躍するベテランのOB記者から、厳しい言葉を浴びせられた。
大学を卒業したら自分も新聞社に入社して、一線で活躍する事件記者になりたいのだと抱負を述べたら、激励の言葉を期待していた西園寺に、思いもかけない叱責の冷や水を浴びせられたのだ。
膨らんだ風船に針を突き刺されたような、鮮烈な先輩記者の宣告だった。
― 記者の宣告 ―
先輩たちの言葉は容赦なく辛辣だった。
野次馬根性だけでは事件記者など務まらないのだと、のっけから言い放たれた。
新聞の情報は、一日しか鮮度はない。昨日の記事は腐った鰯と同じなのだ。事件を紙面に掲載した瞬間から、情報の価値は落ちていく。
事件を掘り下げていくとか、裏を覗き見るなどは週刊誌の仕事だ。刺身で食えない冷凍の鰯を、鍋に放り込んで煮込むのと同じだ。
君の意図している行為は新聞記者ではなく、週刊誌のライターの仕事だよと、安逸な意気込みに揶揄のくさびを打ち込まれた。
さらに別の新聞社の記者からは、確かに新聞記者をめざす者の資質として好奇心は必要だが、君の好奇心には非人道的な悪意がうかがわれると、西園寺の心の隙に潜んで淀む汚点を突かれた。
他人の不幸をはやし立て、もっと深刻な不幸を待ち望むような、好奇心を逸脱した下卑た野次馬根性みたいなものを感じるんだと、心理の裏を見透かされた。
俺たちはねえ、事件を客観的にとらえて真実を分析して記事を書く。決して野次馬になってはいけないんだと釘を刺された。
その度に西園寺は、腹のうちで反駁していた。野次馬のどこが悪いのだと。世の中の人間はみんな、他人の不幸を覗き見ることによって、己の幸運を実感している野次馬ではないか。
事件の被害の大きさに胸をときめかせ、自分が渦中にいないことを実感して喜んでいる。他人が不幸の渦中にあって苦しんでいるのを冷ややかに傍観しながら、被害が広がればよいと不浄な心が扇動している。子供の自殺や殺人でさえも、その裏側でどれほどネチネチとした憎悪が蠢いているのかを知りたがる。
古い事件に飽食すれば、新しい事件を期待して待つ。口先では倫理をそらんじながら、関わりのないところで不遜に犯罪の匂いを嗅いでワクワクしている。
それを逆手に取ってこそ、マスコミの報道が過熱する。社会部で机を並べるお前らこそが、一番の野次馬ではないのかと西園寺は舌打ちをする。
学校のトイレで首を吊って死んだ少年がいて、同級生にも先生にも疎遠にされて遺書も残せず死を選んだ少女がいて、親をめった打ちにして口をつぐんだ若者がいる。耳をふさぎ、目を閉じて、膝小僧を抱えるようにしてうずくまる少年たちが、底なし沼の底から顔を覗かせて牙をむく。
彼らをそこまで追い詰めた深層心理のゆがみは何だ。家庭の事情だとか、社会のひずみだとか、そんな通り一遍の理由にかこつけて、泥沼の水面に暗く反射する上澄みだけを記事にして逃げるのか。
本当に読者が知りたい事は、癌のしこりのような悪性の、人間が本質的に持っている膿みの塊が、とぐろを巻いて社会の表舞台に姿を現し、個々の運命と融合し合ってさらけ出される事件の裏側の人間模様ではないのか。
本意を隠してすました顔して取材に走る。野次馬根性ではなく純粋な好奇心だとうそぶいて表面だけの記事を書く。それが新聞記者の心得だというのなら、馬鹿馬鹿しくて願い下げだと西園寺は憤った。
スクープを求めて夜討ち朝駆け、地方に飛ばされたまま本社に戻れぬ、閉め切りに追いかけられて神経の休まる時は無い、多忙な勤務で我が子にも顔を忘れられる、パワハラに裏切りにいやがらせ……、ジャーナリズムを学び、現場で働く先輩たちの悪戦苦闘を耳にするうちに、新聞記者の虚しさに嫌気がさした。
そんな時、検察官だった父に諭された。新聞記者は迅速な報道を旨として、事件の深堀りをする雑誌記者を見下す偏見がある。腐臭を嗅ぎまわる狼のように、人間を晒しものにして高笑いする行為を潔しとしないのだ。
真実を突きつめたいなら、当事者とじかに接しなければ意味がない。人間の真実や事件の裏側まで知りたければ裁判官になるしかない。
西園寺はあっさりと新聞部を退部して、司法試験に挑む道を選んだ。しかし、神でしか描くことのできない人間の運命を覗き見たいという本能的好奇心だけは、決して失われることはなかった。