4の5 猫
寺には一匹の黒い猫が放し飼いにされていた。肉や魚の残飯を食らってでっぷり太り、住職に似て不遜な態度で振る舞っていやがった。
本堂ですれ違う際でも庭先でも、俺を見る目つきに可愛げがない。嫌みな眼光に鋭い棘が突き刺さる。だから俺は奴が嫌いだったし、奴も決して俺に懐こうとはしなかった。
その日も俺は朝早くから起き出して、風呂の掃除を済ませ、本堂や廊下の雑巾掛けをしていた。
夜半から降り続いた雨で、庭から本堂の上り口までがぬかるんでいた。そこに猫が現れた。
雨に打たれた黒毛が背骨から腹部にへばり付いて、痩せこけた子豚のミイラの様相だった。
いつものように俺は奴を無視して雑巾掛けをしていたら、何とあの野郎、拭き掃除したばかりの本堂に、ずかずかと庭先から上がって来やがった。
雨しずくを垂らしながら歩く猫の泥足が、見事な肉球の文様となって一直線に浮き上がり、廊下から本堂までが汚され水浸しだ。
俺は頭にきて、水の入った雑巾掛けのバケツを猫に投げつけてやった。奴はびっくりして飛び上がり、俺を横にらみして本堂の奥の仏壇の裏に逃げ込みやがった。
俺はバケツを拾って仏壇裏に駆け込んだら、奴は天井から吊るされた金箔の天蓋にぶら下がり、牙をむいて威嚇しやがった。
俺はバケツを置いて、前机に置かれていた香炉を掴んで投げつけた。
真鍮の蓋が顔面に命中して慌てた奴は、如来像のそばに置かれていた青磁の大壺に飛び移った。跳躍の姿勢が悪かったのか、猫は壺の縁に爪を滑らせ手足を絡ませた。その拍子に大壺はグラグラと揺れ動き、猫を乗せたまま倒れてしまった。
本堂の床に打ち付けられた大壺は、グワッシャーンと、大きな音を立てて割れちまいやがった。
その音を聞きつけて、起き出してきた住職の女房が割れた大壺を見て、それはもう大仰な仕種で喚き始めやがった。
この壺をいったいどこで買ってきたと思っているんだと、中国は江西省の景徳鎮で買ってきた大切な壺なんだと言って喚きやがる。
景徳鎮だか毛唐のチンポだか知らねえが、たかが壺くらいで大騒ぎするこたあねえじゃねえかと俺は思った。
そのうち住職まで出てきやがって、高価な景徳鎮の大壺を割って、今度いつ中国に旅行できるか分からないのにどうするつもりなんだと、女房と一緒になってくどくどと文句を言いやがる。
あげくの果てに女房は、今夜から晩飯抜きだと言い放ちやがった。そもそもろくな飯しか食わされてねえ。お前らが毎晩ステーキや刺身を食ってる時に、俺には腐りかけのめざしともやしの味噌汁だけじゃねえか。
檀家のお布施や淫らな銭で、遊興の土産に買ってきた壺を割ったくらいで朝っぱらから長々と責め立てられたんじゃあ堪らない。だから俺は、初めて住職に言い返してやった。
俺は住職さまが目を覚ます前の早朝から、庭の清掃や炊事洗濯に本堂のふき掃除を終え、住職さまが酔っ払って眠りについた後まで、休む間もなくサービス残業でこき使われております。
住職さまご夫妻が温泉巡りだの海外旅行だのと現を抜かしている間にも、休むことなくしっかりと寺を守っておりますので、こんな壺が割れたくらいで目くじら立てるよりも、勤勉な労働者に日当を支払うのが当然ではないでしょうかと言ってやった。
そしたら住職は言いやがった。仏の前で愚かな考え違いをするでないぞ。たびたびの非行を重ねて行き場をなくしたお前をあずかり、飯まで食わせて修行をさせているのだから、授業料とまかない費をもらう事こそ当然のこと。この大壺の代金をお前の親父に言って弁償させてやる。もう一度景徳鎮の壺を買うために、中国へ行く旅費も出させてやると抜かしやがった。
それだけじゃない。お前のような悪童は、親の育て方が悪かっただけじゃなく、ご先祖の血が腐っているに違いないと罵りやがった。
俺の犯した悪行を咎められるのは仕方がないと我慢もできるが、仏の前で売春まがいまでして顧みない腐りはてた住職に、先祖の眠る墓前に出向いて己の悪事を報告してやるとまで言われたんじゃあ許せねえ。
目を吊り上げて怒り狂う住職の形相が、真理ちゃんを手籠めにしようとする悪鬼の姿に重なった。その瞬間に俺の堪忍袋がブチ切れた。
血走った横目を脇間に走らせると、鋳造の鏧子が目に入った。俺はそいつを握り締め、住職の顔面に思い切り叩きつけた。
二発三発と叩きつけたら、仰向けに倒れ込んだまま住職はピクリとも動かなくなった。呆然と目をむいて立ちすくむ女房の脳天にも鏧子を振り下ろした。
俺は自分が何をしたのか良く分からなかった。自分が正気なのか狂ってしまったのかさえ判断できなかった。血がポロポロと滴る青銅の鏧子を、仏壇から見下ろす如来像に目がけて放り投げてやった。
お前はいったい何さまなんだ。俺を助けてくれるのか、くれないのか、どっちなんだと泣き叫んだ。
住職も女房も血みどろだった。俺は二人にションベンをぶっかけてやった。
皆から後ろ指を指されて罵られて、留置場にぶち込まれてすぐに裁判が始まった。
仏様の前で住職と嫁を撲殺したあげくに、小便まで浴びせて愚弄した君は、人間の血の通わない恩知らずのゴク潰しの、鬼のような極道ですかと問われたから、俺は裁判長に向かって言ってやった。
極楽だか地獄だか知らねえが、仏の名をかたって人の道をはずれた酷薄野郎は、住職夫婦の方じゃないかってな。
俺は檀家衆の浄財を、坊主の無駄遣いから救ってやった正義の味方だろう。だのに、形だけの寺があって坊主さえいれば、仏の道なんてどうでも良かった檀家衆にも罪があるんじゃないのかよってなあ。だから、目を覚ましてやろうと思ってションベンで顔を洗ってやったんじゃねえか。
弁護士は苦虫を噛み潰したように唇を曲げてたけど、俺には拍手喝采しているように見えたぜ。
傍聴席からバカヤローって叫ぶ親父の声が聞こえて、プッチリ親子の縁が切られた。
*****
「住職夫婦は地獄へ落ちたんですかねえ……」
竹輪をつまみながら京麻呂がボソリと呟いた。
「分からねえなあ。今頃は天国の蓮の上で、女子衆と戯れているかもしれねえなあ。やっぱり地獄へ落ちるのは俺の方か」
「ご愁傷さまだねえ。まあビールでも飲みなさいよ。シシャモの酢漬けもなかなか美味しいよ」
シシャモの頭をつまんで女囚が健吉の皿に取り分けてやる。
「おう、ありがとうよ。おっと、なんだこの肉は。随分かたいじゃねえか」
「エゾシカの肉だそうですよ」
「鹿の肉ってのは、こんなにかたいものなのかい、姉さん」
「そりゃあ、このあたりの鹿ともなればヒグマとも闘うでしょうから、奈良公園あたりでふらついてる鹿とは、筋肉の発達ぐあいが違うでしょうよ」
「ふうん、そうかい。ところで次は、姉さんの身の上話を聞かせてもらおうじゃねえか」
「ああ、そうだねえ……」
女囚は頷き、唇についたビールを拭う。