4の2 下町の工場
健吉は中学を卒業すると、団体専用の列車に乗せられて東京の下町工場へと就職させられた。
そこは小さな部品工場で、案内された独身寮には数人の男たちが寝泊まりしていた。社長は立派な背広を着ているのでもなく、葉巻をくわえてふんぞり返っているわけでもない、薄汚れた作業着を着たおっさんだった。
鉄のかけらを加工して、ちっぽけな部品を作り上げる作業が工場での仕事だった。その部品がどんな機械に取り付けられて、どんな役目をするかなんて誰も知らないし知ろうともしない。ただひたすら、言われたままに同じような作業をくり返している。
屋根と壁があるだけの吹きさらしの建屋だから、暑い日には額から汗がしたたり落ちるし、冬には木枯しが吹き抜けて耳が千切れそうに凍える。
朝から晩まで絶え間のない作業の連続で、耳ざわりな音が神経にさわって八つ当たりしたくなる。
大都会の隅っこの、逃げ出すことのできない恰好のゴミ箱に俺たちは捨てられたのだから、泣こうがわめこうがゴミになりきらなければならなかった。
夕方近くになると、学校帰りの高校生たちが工場の前を通り過ぎる。詰め襟の制服姿が無性に羨ましくてまぶしくて、俺たちとは生きる世界が違うんだって考えようとしても、同じ人間ではないかと思い直して納得がいかなくなる。
金ボタンの学生服とニキビ面のセーラー服がイチャイチャと歩いていると、尖った鉄片で目の玉をえぐり取ってやりたくなる。
いつもは事務所に閉じこもっている上司が、時折工場内をぶらりと回る。大学卒のそいつは俺たちを人間とは思っていない。だから誰とも目を合わせることもなく、無表情に作業を観察するだけだ。
そいつを見るたびに俺はムカつく。俺たちが血と汗で作り上げた部品を高値で売りさばき、大学卒というだけで高い給料をせしめていやがる。ふざけるんじゃあねえよ。偉そうに妙な目つきで俺たちを上から見下ろすな。思い上がるなコノヤローと、神経の昂りを覚えた刹那、とっさに手に持っていた金型を奴の背中に投げつけていた。
コンクリートの床に転がった金型の音に驚いて、全員が俺を見つめて工場内の時間が止まって空気が凍った。そいつは振り返ってじっと俺を見つめていやがった。緊張が走って誰も声を出せなかった。
あとで俺は工場長に怒られたけど、クビにもならなかったし、何も変わらなかった。しょせん何も変わらないのだと知らされた、ゴミ箱の中までは。
― 詐欺師 ―
毎朝早起きをして、同じような単純作業をくり返し、夜遅くまで働いた。
一年もしないうちに嫌気がさして、辛抱たまらず苦悶のほどを先輩に吐露したら、銭をもらえるだけ有難いと思うしかない、余計な事を考えずに黙って働けと言われた。
そんな時だった、あの男が現れたのは。男はムショ帰りの詐欺の常習犯だった。
日曜日の正午過ぎ、天気が良かったのでコンビニでタコ焼きを買って、工場のそばの土手に向かった。男は河川敷にしゃがみ込んでカップ麺をすすっていた。
男の顔を一瞥して、トカゲみたいな顔しやがってと呟いた俺の声が聞こえたのか、食べ残しのカップ麺を俺に投げつけやがった。
俺は頭にきて、タコ焼きを放り投げて男の胸ぐらを掴み、グイグイ首を絞めつけてやった。苦しまぎれに男は、金が欲しくないかと言いやがる。
俺は金なんか欲しいとは思わなかった。いや欲しかった。欲しくない奴なんかいないだろう。だけど、俺が本当に欲しかったのは変化だった。何でもいいから現状から抜け出すことだった。男はそんな俺の心を見透かしていた。世間知らずの俺を、言葉巧みに操りやがった。
ムショから出て来たばかりだと言って男は咳き込み、刑務所に入る前に隠していた金があると言う。その金は悪徳金融の金庫から盗んだ浄財だとうそぶく。
違法金利と脱税で隠匿した悪銭だから、警察にも届けられないんだという金の額を聞いて驚いた。毎日汗水たらして働いている部品工場の機械をいくつも買えるほどの額だった。
二人で商売を始めないかと耳元で男は囁いた。
最初は小さな事務所を借りて、センスの良い海外の高級な靴を選んで仕入れる。その靴を商店に売り込む。商売が軌道に乗れば社員を雇い事務所を大きくして会社組織にする。私が社長で君が部長だ。
自分の力で人生を変えることなんかできはしない。ならば他人が作ってくれたチャンスに乗っかるしかない。その機会を逃したら、一生底辺を歩き続けるしかない。
ムショ帰りの犯罪者とはいえ、話には筋が通っているではないか。東京という大都会だからこそ、ゴミの坩堝にうごめく掃き溜めの隅にも、混沌とした夢が紡がれるのではないのか。
奴の話は夢ではないときつく拳を握りしめ、背広姿の自分を想い描いた。
一晩泊めて欲しいと言うので、独身寮の部屋にこっそり寝かせた。翌朝、隠した金を取りに行くと言う男の言葉を信じて、電車賃を貸し与えて俺は職場に出かけた。
夕刻に仕事を終えて工場から戻って来たら、引き出しに入れて貯め込んでいた金を盗まれていた。慌てて警察に届けた。男の人相と指紋から、出所したばかりの詐欺師だと分かった
半年後に警察から連絡を受けた。男を捕まえたから確認して欲しいと告げられた。
警察署の取り調べ室で、奴の首にナイフを突き刺してやった。トカゲみたいな顔をして目を剥いていやがった。
*****
「さすが死刑囚のやることは衝動的ですねえ。男を殺して刑務所ですか?」
あきれ顔で京麻呂が溜息をつく。
「刑務所じゃねえよ、少年院だ。それから一年ほどしてから、親父が俺を引き取りに来たけど、家へは帰されずにそのまま寺へ直行だ」
唇を歪めてビールを呷る健吉に、女囚がビール瓶を突き出してコップに注ぎ足してやる。
「ふーん、寺の坊主も極道な兄さんを持て余して迷惑したってことかい。何をやらかしたんだい、その寺で?」
「おう、姉さん、俺を悪玉みたいな目つきで睨まねえでくれよ。悪いのは住職だ、とんでもねえ悪党だったから成敗してやったんだよ」
「寺の住職が悪いなんて思えないけどねえ」
焼きスルメを前歯で切り裂きながら、女囚がしかめっ面で眉根を寄せる。
「まあ聞いてくれよ姉さん。その寺はなあ、町はずれの小さな山のふもとにあった。古びた本堂の隣に立派な新築の住居があって、住職夫婦はそこに住んでいやがった…………」