#007――実験5
模擬戦開始の合図は、お互いが見ている画面内にて行われる。
影汰の眼前に――VR内において――「3・2・1」と、順番に番号が表示された。
そして最後に、「0」が表示された。これが開始の合図である。
但し、二人が動き出すことはなかった。お互いに、ひとまず相手を観察している。
現在影汰は、2勝0敗。
しかし、それは相手も同じだった。
つまり、お互いに相当の実力者であり、なおかつその事実を知っていた。
実力が拮抗している場合、持っている情報量が勝負を分ける。例えばボクシングといった格闘技では、試合開始後、あえて相手の動きを数分間、または数ラウンドじっくりと観察し、それから本腰を入れる場合がある。同様の時間内でお互いに得た情報量の差が、勝負を分けるとまで言われているのだ。
観察とは、それほどまでに重要である。
しかし、今回先に動き出したのは、影汰の方だった。
影汰の踏み込みは、一見無警戒にも思える。
だが、その踏み込みにも高等技術が使用されており、相手は一瞬目を見開いた。
影汰の使用した移動方法は、単なる「すり足」だった。例えば剣道などでも使用される一般的な技術であり、なにも特別な技術ではない。しかし、これを極めると、相手をある種の錯覚状態に陥らせることができるのだ。踏み込みにおける上体の動き、踏み出すという予備動作を完全に抹消、0から1までの全情報を、省略することが出来てしまう。
すり足のような「初歩技術」の究極系を、影汰はいくつも所持している。
それが彼の2勝0敗である現在の状況を作り上げたのだ。
相手も同様の戦績を収めてはいるが、初歩技術の究極系など手札にはない。
出鼻の反応が遅れた為、後の対応で後手を踏んでしまう。分析は、冷静な駆け引きの上で行われるものであり、少なくとも影汰の相手は冷静ではなかった。
相手は思わず影汰の急な踏み込みに対し、拳を突き出すという、非常にシンプルな何の技巧もない回答を出してしまった。
予備動作の少ないノーモーションではあったが、影汰はそれを正確に見切り、少しだけ頭を下げ、その腕をくぐるように懐に潜り込んだ。
相手の少年はこれにも何とか反応し、踏み込みの為に頭を下げた影汰に膝を合わせる。
おそらく影汰以外の被験者では、この膝蹴りに反応することは不可能だろう。
――だが、彼にはできた。
相手の持ち上がる膝を右手で突っ張るように逸らし、そのまま左手で、抱き着くように相手を抱え込んだ。更に全力で前へ踏み出し、相手を床へと倒してしまう。
一連の流れは、「総合格闘技」などに見られる「タックル」だ。レスリングなどの競技でもタックルはあるが、パンチはない。
相手がタックルに面食らっているうちに、相手の体の上で器用に移動。
ここまでにおよそ1秒も経過していないが、影汰は相手からマウントポジションを奪取していた。
いわゆる馬乗り状態――相手の腰よりも本の少しだけ上の位置に、影汰は陣取る。VRゴーグルの向こうでは、相手が苦い顔をしていた。
それでも容赦はせずに、影汰は冷徹に拳を振り下ろした。
VRゴーグル部分は狙わないように、顎を正確に打ち抜く。
見事に一撃で脳震盪状態に陥らせると、更に素早く態勢を変える。
相手に抱き着きながら、全身を右側にずらし、左腕で肩固めの姿勢に入った。
肩固めとは、自身の左右どちらかの肩を相手の首元に押し付けるようにしつつ、そのまま片腕を相手の後ろから、相手の逆の腕を巻き込むように回し、もう片方の腕を引き絞る技術だ。この時、相手は自身の肩と、行使者の腕に大動脈や呼吸器官を圧迫され、一瞬で気を失うことになる。
数秒後、相手が完全に動かなくなり、影汰の画面に「終了」の文字が表示された。
その場から立ち上がり、倒れたままの相手を見下ろす。
この瞬間の罪悪感は、VRをフィルターにしても薄れることはなかった。
影汰は他の子どもたちとは違い、こうした点には敏感である。
しかし、感傷に浸る時間はほとんどなく、研究員が入室してきた。
影汰は医務室へと移動させられた。模擬戦による傷を癒し、次の座学へと移る為だ。
主要8ヵ国語は既にマスターし、現在はIT関連の授業を受けさせられている。ハッキングやクラッキングなどの、ダーティーな方面の技術だ。
「…相変わらず、あなたが一番傷が少ないのね。」
治癒師の少女が影汰にそういった。医務室には相変わらず影汰と彼女しかいない。影汰が入ると、職員は出て行ってしまうからだ。
この辛い研究所の生活を飄々と生き抜く影汰に対して、研究員たちの苦手意識は強まるばかりだった。
「傷を負えば次の戦いで不利になるから、被弾しないのが模擬戦のコツだよ。」
「それが出来ないから、皆苦労しているのだけれど?」
「いや、ハハハ。」――その通りだと思った影汰は、笑って誤魔化した。
現在影汰は、連勝を続けている。この状況で謙遜をするほど、彼は嫌味な性格ではなかった。恐らく自分には、戦闘方面の才能があるのだろうと自覚している。基本的に「すり足」のような初歩技術の極みは、何年もかけて習得するものだからだ。
同様の技術を他の被験者たちに模擬戦にて披露するも、誰も真似ようとはしない。おそらく彼以外には、実行不可能なのだろう。
影汰と治癒師の少女は、こうした些細な会話を楽しむ仲にまで発展していた。
友人関係だと表現しても、過言ではない。
この無機質かつ無遠慮な研究所で、影汰にとってこの治癒室は唯一のオアシスだった。
ふと疑問気に、影汰は少女の指先を見た。
「…どうかしたの?」――少女は影汰の視線に気づき、疑問気に首を傾げた。
「いや、ごめんごめん。」――影汰は、また笑って誤魔化した。
少女の指先には、確かに絆創膏が貼られていた。例えば何か書類を掴む際の、ただの滑り止めだろうと、影汰はそれについて考えるのを止めた。
彼女は変わらず不思議そうにしている。
しかし、お互い暫く向かい合うと、同じタイミングでクスリと笑った。
そこまで大きな笑いではなく、本当に小さく、少しだけ。
それがこの研究所で許された、細やかな自由だと自覚しながら。




