#037――追跡5
「ちっ…お前もか。」――ストーカーは、落下した弾丸を眺めた。
そんなストーカーに対し、馬渕は満面の笑みで答える。
「いいや、俺じゃない。」
「…は?」
――ストーカーは、ようやくもう一人の存在に気づき、振り向こうとした。
だがその頃には彼そのものの動きすら鈍化しており、自由に動くことが出来ない。
「な…だ…こ…は…馬…な」――ストーカーは、必死に何かを喋ろうとするも、突然声が上手く出なくなってしまったことに気づいた。
影汰の根源の領域内にいる為に、彼の声帯すらも鈍化している。
空気を上手く震わせることが出来ないので、当然声もしっかりとは出ない。
「これには俺も苦戦してるところなんだ。」
馬渕は直ぐに男の現状を理解し、同情するような視線を向ける。
これは影汰が修行にて発見した、晦冥の極地である。
影汰は馬渕に根源と向き合うよう指示を受け、瞑想するうちにとある心理に到達していたのだ。それは、晦冥という根源で生み出される闇の性質は、非常に水に近いというものだった。
例えば闇は、氷のような硬度を持ち、水のよう軟度を持つことも出来る。
しからば柔らかさの究極系は、気体である。
思考がそこまで到達した瞬間、影汰の闇は霧散した。
大気中に漂う闇に触れただけでも、対象は鈍化の効果を受けてしまう。
範囲は闇を操作する限界点である十メートルだ。
また、霧散した闇は、通常の闇よりも鈍化の効果が薄い。対象が範囲内にどれだけいたかが重要になる。弾丸の場合、運動量が加算されることがないので、失速後、そのまま落下してしまったのだ。人間の場合、運動量を追加し続ければ、ある程度抵抗できてしまう。
しかし、今回の場合は時すでに遅しといったところだろう。
鈍化の効果をいくら受けようとも、ストーカーは鈍重な動きの中で振り向こうとしていたが、とある気づきから、突然振り返る行動そのものを止めてしまった。
彼は首にあたる何らかの鋭い物の感触を悟り、動きを止めたのだ。
もちろんそれを実行しているのは影汰であり、ストーカーの首に闇で形成したナイフを突きつけていた。
「今この場で、彼女に付きまとうのを止めると誓え。」
「お…れ…う…。」
――ストーカーは何か言い返そうとしているが、何分声が出ない。
一瞬悔しそうな顔をするも、次第にその表情に焦りの色が映し出される。
それはストーカーが、背後からの圧倒的な殺気を感じ取ってしまったからだった。
背後にいる何者かは、自分の命をなんの躊躇いもなく奪う。
そう確信できるほどの殺気が、ストーカーの背後に渦巻いていた。
ゴクリッ、という生唾を飲み込む音が聞こえた。それすらもやけにゆっくりとした音だったが、その音は確かに影汰と馬渕には聞こえていた。
「わ…か…った。」――鈍重な動きの中で、男は何とか声を出した。
その瞬間、ストーカーは自身にかかっていた全ての呪縛から解放され、圧倒的な脱力感を覚え両膝を地面についた。
「はぁっ…はぁっ…。」――ストーカーは息も絶え絶えになっている。
彼は怯えと好奇心の合わさった奇妙な状態の中、自身を恐怖のどん底にまで陥れた殺気を放つ何者かを、振り返って確認しようとした。
そうして、それを見た瞬間、更に胸の内に潜む恐怖心は成長を遂げる。
何故なら、そこに立っていたのが何の変哲もない、ごく普通の少年だったからだ。
まるであらゆる怨嗟を孕んだかのような殺気を持つ者が、どこにでもいそうな少年であるという事実が、彼の心を激しく揺さぶった。
うちに潜む恐怖心に支配され、ストーカーが体を震わせていると、その様子を睥睨していた少年が、口をゆっくりと開いた。
「ここで起きた何かを公言しても、僕はあなたを消さなくちゃいけなくなる。意味は理解できますね?」
ゾクリと体を震わせるほどの殺気が、再度影汰から放たれた。
ストーカーは、一生懸命首を縦に振るった。そのあまりの速度から、彼の顔があたかも数個増えたかのように見えたほどだった。
その激しい同意が無事終了すると、ストーカーは全力疾走を開始、逃亡してしまった。
客観的視点からは、明らかに影汰が悪者に見えたことだろう。
「…あの…ありがとうございました!」――突然女性が大きな声を出した。
そして、助けたはずの女性すらも、影汰の殺気に怯え、走って逃げ去ってしまった。
馬渕と影汰は、そんな女性の背中を見送ることしかできない。
静けさの戻った空き地で、数舜の間が開いた。
「まぁ、なんだ。ようは、自己満足の偽善だってことだ。そんな気負って考えず、趣味の延長くらいに考えてくれ。」――馬渕は気まずそうに頬をかいた。
「それくらいなら、今後も付き合いますよ。それに、確かにあの頃の俺は、いつか差し伸べられる誰かの手を、ずっと待っていたから。」
影汰はそういうと、屈託のない笑顔を見せた。
そんな少年らしさの残る影汰の表情を見た馬渕は、少しだけ安心した。
あの殺気は、本気で誰かを殺したいと思ったことがある者だけが放てるものであり、たかが十代半ばの少年が発してよいものではなかった。
危険な道に招きはしたが、馬渕は黒音兄妹に、子供らしい生活を送ってほしいとも常に考えていたのだ。だからこそ、二人を常に心配している。
「…いいことを思いついた。」
――馬渕はにんまりといやらしい笑みを浮かべた。
「…え?何を思いついたんですか?」
――影汰はそんな馬渕にあきれ顔を向ける。
「まぁ今は待ってろ。いずれ解ることになるさ。」
そういうと馬渕は、そそくさと帰路についてしまった。
そんな自由人である馬渕の後を、影汰も必死についていった。




