#031――修行5
「…それが…兄の為になるんですか?」
先に答えたのが花音だったことに意外性を感じつつ、阿久津は冷静に答えた。
「正確には彼の為だけじゃない。あなた達、二人の為の提案よ。」
阿久津の答えを聞き、花音は直ぐに影汰の方を向いた。
そして、影汰の手を握りしめ、お互いに暫く視線を合わせる。
「お兄ちゃん…。」
あえて結論を出さず、花音は視線だけで影汰に意思を伝えた。常に兄と共に、それだけが彼女の意思だった。花音の考えを、影汰も正確に感じ取っていた。
だからこそ少しだけ強く、彼女の手を握り返した。
「解りました。ここに住ませて下さい。」
――二人は阿久津へと、あえて頭を下げた。
「なら本当の意味で、ようこそパラダイム零へ。」
阿久津も笑顔で、二人を迎え入れた。
そうしてこの日は、引っ越しと花音への現状説明に費やし、あっという間に消化した。
意外にもこの数奇な現状を、花音はすんなりと受け入れたのだ。
兄の表情、質問、それらの情報から花音は、兄が何を考えパラダイム零に参加しているのかを、感じ取っていたのかもしれない。
それに、兄妹の絆は、この程度で崩れるようなものではない。
◇◇◇
更に翌日、地下修行上にて、二人は向かい合っていた。
もちろん二人というのは、馬渕と影汰のことである。
馬渕はごく普通にその場に立っているが、影汰は片膝をつき、馬渕を見上げていた。
既に模擬戦を行った後であり、影汰はかなり消耗している。
(…ここまで差があるのか。僕が子供だからっていうのもあると思うけど、本当に全く敵う気がしない。)――影汰は苦悶の表情で、そんなことを考えていた。
すると馬渕は影汰の表情から考えを察したのか、首を右手で掻きながら話し始める。
「お前、やっぱり根源の使い方が下手だな。その一点さえ克服できれば、俺なんてお前に全く敵わなくなると思うぞ。」
彼は当たり前のようにそんなことを言うが、影汰からすればとても信じられない話だった。少なくとも影汰からすれば、何か小さなきっかけで、どうこうできるような差ではないように感じられる。
そして、それほどまでに馬渕は強者なのだ。
「ただな、これに関してはお前にしか解らないことなんだ。根源は覚醒した本人にしかその本質を見せない。…そうだな、今日はお前の根源を見つめなおそう。」
馬渕は勝手に一人で納得すると、上階へ移動するための階段へ向かってしまった。
「ど、どうしたんですか?」――影汰は動揺しつつ、馬渕に質問した。
すると馬渕は、振り向かずに影汰の質問に答えた。
「根源に向き合う気持ちは、もうあるんだろ?後必要なのは――時間だ。だから今日はそこで一日中、自分の根源と向き合ってみろ。」
彼はそこまで告げると、そのまま手を振って階段を上がっていってしまった。
地下修行場に残ったのは、影汰だけだ。
唐突に生まれた、久しぶりの一人の時間に、影汰は茫然としていた。
妹すらもいないというのは、ここ最近中々ない環境だった。もちろん便利屋の仕事で一人になることはあった。但し、仕事中に余計なことを考えられるほど、影汰は豪胆ではなかったのだ。自分をあえて過小評価するような、そんなタイプだ。
「根源と…向き合う…か。」
確かにそんなことをしたことはなかった。妹を養うために仕方なく根源を使用する機会はあったが、向き合うなど以ての外だ。
なんとなく影汰は、地面に胡坐をかき、その上に合わせた両手を置いた。いわゆる座禅スタイルに他ならないが、こと集中することにおいて、これほど適した状態はない。
瞳を閉じると、ゆっくりと呼吸を遅らせる。深く吸い、深く吐く、これを数度繰り返すと、まるで深い泉へと沈んでいくような感覚に、彼は陥った。
それは、集中力が極限まで高まった状態である。
(根源と向き合う…か。ならまずは…出してみるか。)
影汰の周囲から、闇がゆっくりと広がり始める。
そしてその進行は、十メートル地点に到達した瞬間、停止した。
(解る…これが限界だ。これ以上離れると、俺は闇を操ることが出来ない。恐らく闇そのものも、これ以上俺から離れれば、自然に消失してしまうはずだ。)
それを理解した瞬間、影汰の脳内に半径十メートルの円が広がった。
晦冥のリーチが、すんなりとイメージ出来るようになったのだ。
そして、それど同時に今の自分が、晦冥という名称を理解した瞬間と、非常に似通った状態であることを理解した。
振るえるほどの怒りに包まれてはいたが、深い集中状態であったあの時と。
(もう少しだけ、イメージを具体的にしたいな。)
すると影汰は、闇を操り始めた。ゆっくりと揺れる闇が、上えと昇っていく。
高さは大体一メートルくらいだ。それが徐々に、何らかの形をとり始めた。
色は黒一色であり、その形状から情報を読み取るしかない。形は間違いなく人間、サイズ感から子供だと解る。おかっぱのような髪形で、体はとても華奢だ。
闇の形成が終わると、影汰はゆっくりと目を開いた。
そして、自分で作ったそれを見て、とても寂しそうな顔をする。
間違いなくそれは、治癒師の少女だった。
影汰はそれを暫く眺めると、やがて口を開いた。
感情をコントロールする為に、あえて声を出したのだ。
「…こんなことをしても、何の意味もないか。…彼女は、俺の中で生き続けている。」
そのまま影汰が少しだけ俯くと、闇で形成された治癒師の少女は、一瞬で崩れた。




