#002――ヒーロー
私室へ案内された影汰は、ベッドの上に無気力に座っていた。
私室には、ベッド、勉強机、椅子、テレビ、個室便所があり、部屋の設備はしっかりと整っている。
影汰は静かに立ち上がると、ドアノブを回した。
しかし、扉は無反応だった。
どうもこの部屋は、内側からは開かない仕組みになっているようだ。
一連の行動は、何も脱出を試みた訳ではなく、分かり切っていたことを試しただけだ。
もはやそうした意思は、絶望に喰われてしまっている。
仮に扉が開こうとも、影汰は部屋へ戻り、この状況を受け入れていただろう。
少年はとある考えの元、自分の意思でこの場所にいる。
――そして、それは彼の妹に起因する。
自分が少しでも高い買い取り先へ行けば――もちろんその危険性は度外視で ――最低限妹は売られなくて済む、それが影汰の考えだった。
妹を守るために、彼はこの場所で、とある実験の非検体になることを選択したのだ。
「さて、どうしようかな。」
影汰は、先ほどの研究員の考えとは反対に、相当に強い精神を宿していた。
小学校入学式の頃には、既に死んだ魚のような生気のない瞳をしていたが、それは彼が最悪を目にし続けたが為に、著しく精神を成長させたからだった。
子供ながらに、中身は大人だ――少なくとも、同年代に比べれば。
ただ、他と違って「絶望を知っている」それだけの話だ。
影汰は、ふとそれがあるのならと、リモコンを手に取った。そして、テレビを付ける。
「…ン?」――彼はとある違和感に、首を傾げた。
何故なら、テレビが無音だったからだ。音量の操作は、一切できない。
不便さを感じてはいたが、直ぐに思考を切り替える。不可能であることを、いちいち思案するタイプでもない。
彼の知るところではないが、監視カメラによるストレスを軽減する為、音波と熱感知による監視システムが、この部屋には導入されている。
その為、テレビの音声がソナーを妨げる恐れがある。だからテレビは、無音だった。
個人の空間――何かを無心で考えられる空間というのは、この研究所では重要視されている。もちろん研究を少しでも前進させる為の、一つの手段としてだが。残念ながら、被検体に対しての心遣いではない。
チャンネルにもそれほど余白はなく、見ることができるのは、ニュース番組くらいだ。
それでも影汰からすれば、十分過ぎる気遣いではあったが。
無音である点は、字幕が補っていた。以下は、テレビに記載されている文字列である。
『速報が入りました。本日、午前十一時頃に発生した殺人事件の犯人は、新鋭ヒーローである「シャイニング」によって逮捕された模様です。』
音声がないので、アナウンサーの口だけが動く奇妙な映像だった。
ヒーローとは、ルート拡大・経済崩壊以来――ここでいうルートは、病名である――失われた人々の希望となった存在だ。
経済崩壊が起きると、世界の治安は、戦国末期ほどにまで衰退した。
その原因は、感染から完治した、およそ一割にあった。
彼らの内何人かは、突如特殊な力に目覚める。全員が全員目覚める訳ではなかったが、少数という訳でもなかった。
彼らは、その特殊な力を使い、経済崩壊した世界を強引に生き延びようとしたのだ。
犯罪という、非常に残酷な形で。
だがしかし、そんな数多くの騒動は、長くは続かなかった。
同じく特殊能力に目覚めた者たちが、抑止力になったのだ。
それは見せびらかすだけのものではなく、直接的なコミュニケーションを用いる抑止力だった為、効果は覿面であった。
彼らはヒーローとして、文字通り英雄的扱いを受けるようになる。
何よりも、希望を失った人々からすれば、それは大きく輝いて見えたのだ。
後にヒーローたちは、経済崩壊により瓦解した警察組織の代わりに、自警団として国民の為の大きな力になった。
更にその後、経済が右肩上がりに復帰していく中で、ある種のスポーツ選手のような広告主との関係性を持ち、経済活動に参加するようになる。
それが、現在の「ヒーロー」である。
余談だが、特殊能力そのものの呼称は、関係性の深い病名である「ルート」から取り、「根源」と名付けられた。ある種の「覚醒」という観点から、人類の秘められた「根源」が解放されたのではないか、という考察からの意味合いもある。
「ヒーロー…か。」――影汰は、それが嫌いだった。
なぜなら自分は、救われなかったから。
現状が運命だと受け入れつつも、光当たる人々を、羨望せずにはいられない。
そうした背景から時間を潰そうという気分すらも削がれ、彼はテレビを消した。
そのままベッドに横になり、ゆっくりと目を閉じる。
すると感覚が研ぎ澄まされ、首後ろにズキズキとした痛みを感じた。
ただこの程度の痛みは、日常的に経験してきたものと比べれば、騒ぐほどではない。
一般的な感覚など、とうに捨ててしまっていた。
次に瞼の裏に浮かんだのは、妹の顔だった。
唯一後悔があるとすれば、妹の行く末を見守れなかったことだけだ。
影汰は少しだけ悔しそうな顔をすると、直ぐにその表情を元に戻した。
やがて全身から力が抜け初め、彼はいつの間にか眠りについていた。