#001――不気味な少年
少年が一人、夕暮れ時の街路を、俯きながら歩いている。
背中にはランドセル――彼が小学生であると、誰もが一目で理解できる。
ただし、その表情のみを切り取った場合、彼の年齢を正確に言い当てられる者は、十人中一人もいないだろう。
とかく、それほどに大人びた表情をしていた。
ある種、仕事疲れのような――何かを諦めた者が成せる表情だ。
時期は三月の始め。木々は乾いた枝に、緑を少しずつ取り戻している。
――少年は、卒業式を控えていた。
しかし、彼が当日を迎えることはない。
少年には、とある期日が近づいているからだ。
そして、その期日こそが、少年の今の表情の原因である。
彼が見つめる先には、アスファルトで固められた地面しかない。
すでに街灯が辺りを照らし始めてはいるが、彼の心が照らされることはない。
不意に――ようやく顔を上げた少年は、涙に濡れた頬を街灯に照らされた。
◇◇◇
黒音 影汰は、残念ながら環境に恵まれなかった小学生である。
家族が貧乏だとか、そうした個人の金銭感覚に偏りを持つ価値観の話ではない。
両親は所謂ギャンブル狂いであり、家庭の経済環境に見合わない散財を重ねていた。
元々貧乏な家庭であった為、結果がどうなるかは、火を見るよりも明らかだった。
黒音家は、度重なる借金により――破産した。
世界経済崩壊の後、政府の独断により、とある政策が可決した。
それは、「人身売買」の合法化である。
そして人間は、ある種の資産になった。
――人身売買には、いくつかの条件が設けられている。
人身売買が可能なのは、経済破産した家庭のみである。
資産として扱える人間は、子供のみである。
黒音影汰は、このどちらの条件も満たした子供だった。
彼の人生の行く先を、あえて言うまでもないだろう。
それが、これから綴られるのだから。
◇◇◇
「黒音影汰君、初めまして。君は、今日からこの研究所に所属することになる。非検体として、だがね。」
その場所は、真っ白な部屋だった。先進的なデザインを取り入れた、どこかのマンションの一室かのようだ。室内には正方形の白い机と、同じく白い椅子しかない。机の上には最低限の筆記具と、拳銃に近い形をした青い特殊な器具、それと一冊のファイルが並んでいるくらいだ。
中には二人、白衣を着た男と、小学生くらいの少年がいる。
白衣の男は、三十~四十歳ほどで、黒髪を無造作に目の下くらいにまで伸ばしている。残念ながら、その身を包む白衣とは、似つかわしくない不清潔さだ。
少年の方は、日本人らしい黒髪に黒目、少しだけ瞳の色素は薄く、背丈は150センチメートルくらい、小学生でも中学生でも、どちらとも見て取れる容姿をしている。
――そして、「影汰」の目は、どこか無気力で、無機質だった。
まるで道端の小石を眺めるかのような、どこか遠くをただ見つめるかのような瞳で、白衣の男の胸元辺りを眺めている。
白衣の男は、この少年に不気味さを感じずにはいられなかった。
しかし、彼にとって今は非常に重要な仕事の最中であり、放棄することはできない。
一度だけため息に近い深呼吸をすると、早速仕事にとりかかった。
「さて、それでは始めさせてもらうよ。」
そういうと、少年の上着を脱がし――少年は余りに無気力であり、人形の服を脱がすよりも容易だった――白衣の男は、机から器具を一つ手に取った。
しかし白衣の男は、そこで一度手を止める。
なぜ手を止めたのか――その理由は、少年の体にあった。
そこには無数の打撲痕、浅い裂傷の痕、小さな円状の火傷の痕――少年がどのような環境で育ったのか、それらの傷跡が雄弁に物語っている。
それでも白衣の男は、作業を進行するしかない。止めていた手を再び動かし始める。
「こちらに背中を向けて。…少し痛むかもしれないけど、一瞬だけだから。」
すると白衣の男は、手に持った器具を、少年の背中、首と胴体の丁度中間辺りに押し付けた。そして、そのまま器具についたスイッチ――銃であれば引き金部分を引く。
チュン…という小鳥の囀りのような非常に小さな音が鳴った。
それは作業が完了した合図でもある。
この時、針で刺すような痛みが生じるはずだが、相も変わらず少年は無反応だった。
大概の子供は、この作業で何らかの反応を見せる。少年は、そんな子供たちの中で少数派に属しているようだ。
白衣の男は、少年の首裏に刻印し終えた「バーコード」を確認した。
それは文字通りのバーコードであり、用途は商品を管理すること。
既に両親に売却されてはいるが、今回のバーコードは、この研究所から売却する際に使用される。
それにこのバーコードには、商品管理以外に、非検体を管理する役割もあるのだ。
研究員は作業を終えると、一切の声すら上げなかったこの少年を、少しだけ気味悪そうに眺めた。本心をさらけ出せば、出来れば触れたくなかったほどだった。
ほんの少し、肌を撫でる程度の寒気を感じ、研究員はすぐに口を開いた。
「私室を用意してある。そちらに向かってくれ。」
男がそういうと、少年はすぐに立ち上がり、扉の外へと出ていった。
少年が係の者に手を引かれる間、男は見えなくなるまで少年の背中を見送った。
「…不気味な子供だ。」
部屋の中に戻ると、机の上に乗った一冊のファイルを手に取った。
ファイルはプラスチック製の付箋により、1ページごとに整理されている。付箋に書かれているのは、全て人名だ。
そして、ファイルの1ページ目を開いた。付箋には、「黒音影汰」と書かれている。
簡易的にではあったが、そこには彼のプロフィールが記載されていた。
「――この経歴なら、もしかするとあの子は、既に壊れているのかも。」
ファイルに書かれているのは、ここに売られてきた子供たちの簡単な経歴だ。
少年のページには、最悪の経歴が書かれていた。
ギャンブル狂いの両親、暴行による重度の虐待、栄養失調による数度の入院。
こうした子供たちに対して、今の政府が出来ることは、ほとんどない。
児童保護施設も、現在はほとんどが閉館している。
それもこれも経済崩壊の影響であり苦しむ子供たちは、増える一方だった。
だからこそ、政府が強行した「人身売買政策」は、そうした子供たちの内、幾人かを救う結果になった。もちろん反対の声が大きかったことも確かだが。
そうして人身売買が好転的に働くこともある。
それでも、この研究所に所属することになった子供たちは、決して「救われた」訳ではないのだ。
それが何故か、この男は深く知っていた。
これからもあの少年には、更に辛い日々が待っているはず。
男は、ふと天井を見上げると、まるでそうした思いを吐き出すかのように、今日もっとも深いため息をついた。