#010――実験8
まるで柔らかい布団に針を差し込むように、相手の体内へとナイフがするりと入っていくような感覚だった。
その感覚に驚き、手をすぐに引き戻すと、温かい液体が自身へとかかった。
口に少しだけ入ったそれは、非常に鉄臭い味がした。
この味覚を、影汰は何度も経験したことがある。
父親に殴られた時、あるいは母親に踏みつけられた時、タイミングはいつでもいい。
とにかくそれは――血液だった。
影汰は手を震わせながら、ゆっくりとVRゴーグルを外す。
そうして前方を確認すれば、そこに力なく倒れる一人の少女がいた。
「…嘘…だろ?…そんな。」――影汰はすぐに片膝をつき、彼女の側に寄った。
VRゴーグルで顔の半分が隠れてはいるが、彼女は間違いなく治癒師の少女だった。
力なく倒れる彼女の真下には、既に血液によって作られた赤い絨毯が広がっている。
影汰はすぐに彼女を抱き寄せた。
「なぁ…お願いだ…逝かないでくれ…頼む。」
「…うる…さい…な。」――治癒師の少女は、薄目を開けて影汰を見る。
彼女の意識が戻ったことにホッとする。で、あれば、まだ救えるはずだと。
「自分を治療するんだ。君ならできるはずだろ?」
「でき…ないよ。私の根源は…他人を…治すだけ。自分は…治らない。」
力なくそう言った彼女は、こんな時に限って笑顔だった。
「そん…な。」――影汰の顔から、一気に血の気がなくなってしまった。
影汰は以前、彼女の指先に絆創膏が貼られていたことを思い出していた。あれは滑り止めではなく、もっとシンプルな用途によるものだったということだ。
しかし、そんなことを考えている場合ではない。影汰は、すぐに思考を切り替えた。
誰かが助けに来てくれるはずだと、彼は周囲を確認する。
しかし、この部屋に誰も入ってくることはなかった。
(これすら何かの実験の一部だっていうのかよ…。)
今の影汰に出来るのは、彼女の力の抜けた手を、ただ握りしめることだけだった。
「頼む…お願いだ…。」――この瞬間影汰は、初めて心から神に祈った。
「これで…いいの。」――治癒師の少女が、突然そう言った。
影汰は疑問気に彼女を見返す。
「私は…もう疲れた。私は…ずっと傷つく誰かを治してきた。でもその誰かは、明日になれば…また傷ついて戻ってくる。一見治療しているように思えても、私はこの研究所で、誰かを傷つける手伝いをしていた…だけなんだと思うの。」
「それは…違う!そんなの…結果論だろ!君は確かに治療してきたんだ。」
「そう、結果論。でも私は………後悔してる。私が…いなければって…何度も…何度も…考えて…自分で何も決めることもできず…今日まで…こうして…。」
話している途中だというのに、彼女はゆっくりと目を閉じてしまった。
影汰の瞳から涙が溢れ出し、それが頬を津たり、顎先から滴り、彼女の頬に当たる。
すると最後に彼女はもう一度だけ口を震わせ、力なく、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「最後が…あなたで…よかった。あなたは…自由に…生きて。」
握っていた手から完全に力が抜ける。彼女の全身の震えが、唐突に収まった。
影汰は、彼女を抱きかかえたまま俯き、動かなくなった。
彼女の顔を、いつまでも眺めている。
影汰から滴る涙が彼女の頬を津たり、彼女もまた泣いているかのようだった。
「こんなの…間違ってる。なぜ僕は…今日までこうして受け入れてきたんだ。僕がいたから…彼女は死んだ。僕は…僕が…僕の…せいだ。あぁ…最悪だ…頭が――痛い。」
影汰は急な頭痛を感じ、右手で頭を押さえた――左手は彼女を抱えている。
そして、全身の血液が毛穴から一斉に流れ出したかのように、影汰の体調は悪化していった。彼女を見つめる視界が、徐々にぼやけ始めていた。
そのまま微動だにせず、余りにも残酷な現実を見下ろす。
彼自身理解できてはいなかったが、それは彼にとって初めての感情だった。
絶望や希望でも、ましては悲哀や憤怒でもない。
【虚無】――そう表現するのが、もっとも適切なのかもしれない。
まるで地面に意識を吸い込まれるかのように、影汰はゆっくりとその場に崩れ堕ちる。
すると彼の体から、純黒のオーラが溢れ出した。
彼の体から溶けだした、その液体のような「闇」は、彼を球体状に包み込んだ。
そんな中、マジックミラーの向こう側では、安藤と福部が満足そうに影汰を観察していた。
「覚醒…したのか?」
――安藤は額の汗を拭いながら、影汰の体から溢れる闇を見た。
「どうやらそのようです。黒い…オーラのような…未発見の根源ですな。もしかすると、強力な根源である可能性も…。これは…大量にコストを回収できますよ。」
「馬鹿を言うな、強力であれば、私の元で飼いならす。金なんてものは、容量さえ知っていればいくらでも膨らむ。肝心なのは、私の地位向上だ。」
安藤と福部の瞳は、影汰の覚醒により、期待に輝いていた。
「贅沢に一枚カードを切ったかいがありましたね。」
福部はゆっくりと頷き、一度冷静になった。
すると、周囲の研究員たちのざわつきが、彼の耳にまでようやく届いた。
「ン?どうかしましたか?」
――夢中になってマジックミラーの向こう側を見る安藤をよそに、福部はざわつく研究員たちの側まで寄った。
直ぐにモニターを観察していた藤堂が話を始める。
「…異常なエネルギー反応です。一番近いものでいえば…核分裂ですかね?」
「ッ!?は?そんなエネルギーが人間から発せられているというのですか!?」
福部はすぐに安藤の観察する画面を覗き込んだ。
藤堂の話が全て事実であることを自身で確認すると、一気に血の気を失う。
そして、安藤の元へと駆け寄った。
「まずいです。このままでは黒音君は爆発する恐れがあります。原理は分かりませんが、核分裂のようにエネルギーを、あの闇の中に蓄えているようです。」
「ほう?だが人間が生み出せる力には限界がある。あれはあくまで一人間の根源でしかないのだから、ここは私が直接彼の側まで行き、力を収めるように説得しよう。」
「む、無茶です。危険ですよ?万が一エネルギーが外部へと放出すれば…。」
安藤は福部の方すら見ずに、その言葉を聞いてむしろ表情を輝かせ、マジックミラーの向こうにある闇の球体を眺めていた。
「核分裂と見まがうエネルギーを手放す方が、私は怖い。何としてでもあの力を我が手中に収め、私はいずれ【豪財会】に食い込んで見せる。」
福部はそういった安藤の表情を見た。
いつにもまして、彼の表情は真剣だった。
安藤は本気で言っているのだと、理解した。
しかし、彼の私欲のために己が命、それに職員の命までは賭けられないというのが、福部の出した結論だった。
彼もいつにもまして、真剣な表情で安藤に話す。
彼が安藤の意見に逆らうのは、この研究所始まって以来初めてのことだった。
「…分かりました。私が職員、並びに被験者たちを一度避難させます。」
「…ふん、そうしたまえ。」
安藤は残念そうではあったが、その意見を否定するようなことはなかった。
彼も何も鬼ではない。商品でない人間まで、犠牲にするつもりはないようだ。
そして、部屋に入る為の隠し扉に手をかけた。
「それでは、私はここで。」
――まるでふと散歩に赴くように、安藤は部屋の中へと入って行ってしまった。
そんな安藤をよそに、福部はすぐに避難を開始。
およそ十五分程で、全職員・全被験者の退避が完了した。




