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テーマ(笑) その2 & 文学(笑) その2

かなり今更ですが、感想欄でのやり取りで結構本編で重要なことを語ってたりします。

もしここまで読んでくださっていて、かつ感想欄を見ていない方がいましたら、よろしければそちらも覗いてみてください。

 まずは「テーマ(笑) その2」

 区切りとして締まりの悪い部分を発見したので、前回分のちょっとした補足です。


 前回、『「作者のテーマ」と「読者のテーマ」は明確に分離して考える』と言いましたが、その「読者のテーマ」の話をするのを失念していました。


 さて、では「読者のテーマ」はいったいなんでしょうか。

 私がこの二つを分けて考えるべきだ、と考えるようになったのはわりと最近のことです。

 しかし、なぜ分けて考える必要があるのでしょうか。

 それは私の「テーマ」に関する定義に仕方に問題があったからです。

 もう一度、私のテーマに関する定義を明文してみます。


 テーマ=『作者が意図して作品に込めたメッセージ性』


 こうなります。

 この考えはわりと前から持っていました。

 何度か人と議論を交わしましたが、この考えに至った時から私の意見にブレはなく、わりと強く信じていました。


 しかし、最近気づいたのは「この定義では読者側からテーマを定義できない」という事実でした。

 しかし、私がこれまで信じてきた定義がそこまで大きく間違っているとは思えませんでした。


 では、読者はテーマを主張できないのだろうか?


 いや、それもおかしい。

 本当にテーマと言っていいのかは分からないけどど、自分はこれまでテーマだと思われるものを「読者として」受信してきた経験が間違いなくある。では、それはいったいどう考えればいいのだろうか?

 と、色々考えた結果、立場により定義の内容を分離して考えるのが妥当なのではないか、という今の考えに落ち着きました。

 一度、読者のテーマを明文してみようと思います。


 読者のテーマ=『読者が作品から読み取ったメッセージ性』


 こうなります。

 この定義で「読者のテーマ」を考えると、『実際に読者が受け取ったテーマが、本当に作者が意図したものかどうか』ということはまったくの無関係となります。(もし「意図されたメッセージ」と「受け取られたメッセージ」が噛み合ったのであれば、作者としてはそれが最上のことだとは思いますが)

 「テーマ」というものが、作者の意図しないところで形成されることも多い、という話はよく耳にしますが、こう定義すれば上手く説明することができるのではないでしょうか。


 「作者の意図したメッセージ(テーマ)」と「作者の意図しなかったメッセージ(テーマ)」は立場の違いを踏まえることで矛盾なく同じ物として扱うことができる、ということになります。

 欲を言えば、前者と後者にはそれぞれ固有の名詞で括りたいくらいです(笑)



 ちなみに、ここで問題になってくるのが、作品を読んだ人間の作品に対する言葉です。

 読んだ人間は書いた人間ではないので、当然テーマに対する立場は「読者のテーマ」に限定されます。

 ……と、言いたいところですが、ここで問題なのが「批評」というスタンスです。

 批評はある程度作者側の思考をトレースして行う部分があるので、「批評者」の立場というものは「テーマ」という概念と向き合った時にかなり微妙なものとなります。

 もちろん批評者は作者の思考をトレースしたところで、それは作者本人ではないので本当の意味で「意図されたメッセージ」なのかどうかということは確かめようがありません。

 しかし、その批評者の言及する「テーマ」が「作者が意図した(と思われる)メッセージ性」なのか、それとも読み手として「読者が受け取ったメッセージ性」なのかを意識しないで語りだすと、これまた「その1」での事例と同じようにあまり意味のある言葉の交換とはなりません。

 しかもこの問題がさらに厄介なのは、「批評を受け取る作者」もある程度この考えを承知していないとあまり有意義なものにならない、ということです。


 ほどほど、「テーマ」という言葉の「ベンリ」さにも困ったものだと思います。




 関連して「文学(笑) その2」。


 私は感想欄でのやり取りの中で「文学」とは結果なのかもしれない、と書きました。

 その理由が、この章に書いた「読者のテーマ」です。


 以前、私は文学を定義する上で「テーマ」の定義は避けられない、と書きました。

 また、感想欄でのやりとりの中で「自己啓発」に繋がる、というのも重要だと考えている、とも。


 どういうことかと言えば、


 「文学」とは『「自己啓発」に繋がるメッセージ性を作品から受け取った読者個人が、あくまでも個人的にその作品を「文学」だと定義するもの』なのではないかと疑っているからです。


 現在この定義を強く信じている私にとって、例えプロであろうが「文学を創作する者」として「文学者」を名乗る人間はただのアホです。

 ただ、幸いなことに私の知る限りそんな間抜けなプロ作家はいません。


 また、この定義からすると、「文学」とはあくまでも結果であってジャンルにはなりえません。

 私にとって「文豪」とは「より多くの読者にとっての『文学』を書くことに成功した小説家」というだけです。

 ライトノベルだろうが、一般書籍だろうが、漫画だろうが、音楽だろうが、映画だろうが、その他どんな表現物であろうが、全てのジャンルはたったひとりの読者にとっての「文学」となる資格を持ちます。


 「文学」とは「文学を定義する読者」と「文学と呼ばれるものを研究する読者」がいるだけであり、「文学を書く者」も居なければ「文学作品」なんていうものはただの幻想なのだと私は考えています。


 ここまで書けば、なぜ私が「ネット文学者」を嫌悪するのかがだいたい分かってもらえるかと思います。



 これだけ言っても、まだあなたはネット文学者を続けるのですか?



さらなる補足。


 二章にわたりテーマについて語ってきましたが、私の定義からすれば、当然「テーマの存在しない小説」というのは多く存在します。

 それは二つのテーマ、両方に言えることです。


 どういうことかと言えば、「作者がメッセージ性を意識しない小説」というのは存在しえますし、「読者がメッセージ性を受け取ることのできなかった小説」もまたあって当然です。


 わざわざ書くことでもないような気もしましたが、少し不安になりましたので、これで補足としたいと思います。

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