感情理論 基本理論
本当は次は『文学(笑)その2』をやろうと思ったのですが、評価欄を読んでこっちを先にやったほうがいい
かな、と思いなおしました。
こうなった以上、たぶん今後も順不同私のノリと評価欄でのリアクションによっての超絶フリーダム曲芸運行
になるかと思います。よろしければ呆れずにお付き合いいただけるとありがたいです。
また、一部の先生方がたへの返信をする前の更新、また語りの中での引用をお許しください。
評価欄を読ませていただき、私としては先にこちらの持論を示しておいたほうが無駄が省けるのかな、と思ったんで今回の話題はこれ。
『感情理論』。
……はい、唐突になにいってんだこの野郎、って感じですね。すみません。
ちなみに一般語彙に存在する「感情論」とは別物です。
完全に余談ですが名称の経緯。
小説についてよく話しをする友人間で、私はよく持論を持ち出して作品を語ろうとする悪癖があるのですが、その時持論を指す言葉があると便利 → 感情論じゃ混ざるから感情理論じゃね? それだ! みたいなやり取り後完全に自分の中で定着してしまいました。
以上、持論に固有名詞を付けている恥ずかしさに対する言い訳終了です。やめて! 後ろ指ささないでっ!
閑話休題。
評価欄にて文学とは「人、又は心を描くこと」というご意見が提出されました。
これについて思い当たることがあるので、それについて少し語りたいと思います。
実は私は創作をする際、「人、又は心を描くこと」をかなり意識して作品を作ろうとしています。
それは感情理論の芯の部分でもあるわけですが、そんなわけで少し恥ずかしい持論にお付き合いください。
感情理論。
持論、なんて大仰に言ってはいますが、まったくもって当たり前すぎることをただどこまでも自覚的に行おう、というのがこの理論の骨子です。
ちなみに、私にとってこの感情理論とは「エンターテイメントを実行するため」の手段として考案したものです。
……これはちょっと気取った言い方すぎたな。いつもの言い方でもう一度。
感情理論は俺にとって、「『面白い』っていったい何?」という自問への回答です。
概略。
とはいっても概略しかないような理論です。
何度も言いますがただ「当たり前を自覚的に」がコンセプトなので。
話を戻します。
私はある時期小説教本を読み漁っていました。
そこでとある教本にあった記述が、この理論のベースです。
曰く、「小説の面白さとは葛藤である」。
拙い記憶力に頼っての文なので、本文どおりではないと思います。ただ、かなり大胆に言い切った男らしい文章でした。女でもないのに惚れてしまいました。
なるほど、確かに面白かった小説の面白かったシーンを思い返してみると「葛藤」という言葉はしっくりくる。
そんな感じでしばらくは納得していました。
ですが、そんな私はとある壁にぶち当たります。
……あれ? 「葛藤」が面白いんだとしたら、じゃあラブコメってなにが面白いの?
ラブコメにだって葛藤がある作品はあります。そりゃ惚れた腫れたの話なのですから、巧く話を組めばクライマックスにはそれなりの葛藤があります。
……でもラブコメが面白いのってクライマックスだけか?
いいや、そんなことはない。
俺はあのこそばゆい、ラノベやギャルゲー特有の「妄想青春」臭さのある、身悶えするような小っ恥ずかしさが、ぶっちゃけ大好きだ。
鋭く突き刺さるような葛藤も好きだが、この気持ちも決して嘘ではない。
平和で呑気でベタベタでラブラブな雰囲気を愛していると言ってもいい。
と、そこまで考えるとさらなる問題発覚。
……あれ? だとしたら「ホラー」の面白さも「葛藤」じゃ説明できなくね?
そんなに好きなわけでもなく、触れた作品数が圧倒的に少ないので、ホラーに関してはあんまり不用意なことを言えないのが本当のところです。
しかし、それでもホラー作品なんかは読者自身ヒヤッとする恐怖を望んで読むはず。
そこにある「面白さ」はラブコメ以上に「葛藤」からほど遠い気がしてなりませんでした。
では、「葛藤が面白い」というのは間違いだったのだろうか?
色々考えました。
ところが、この意見自体はどうも間違っていない気がしてならない。
ならラブコメやホラーは「面白い」の例外なのだろうか。
そんなことを考えている時、まさにそれらを巧く説明する言葉を思いつきました。
そう、それこそが「感情」です。
『人間は感情が揺さぶられることに快感を覚える』。
これが感情理論の中身です。
これならば「恥ずかしさ」も「恐怖」も説明できる上、「葛藤」に至ってはもはや人間の感情がもっとも「揺れる」その現象、そのものを指して「葛藤」という言葉の意味です。まさにまんまです。
つまり、私にとってエンターテイメントとはイコール「感情を狙って揺さぶりにいくこと」を指します。
こうした持論の上に立っているためか、普段私が他の方と「エンタメ」について語るとままこちらの意図が伝わりきらないことがあります。
そういった意味で私の小説「鳩と少女と思春期」はエンターテイメント小説であって、決して私にとっては『文学』ではありません。
大事なことなので言い方を変えてもう一度。
『ストーリー創作に置ける「面白い」とは、そのストーリーがいかに読者の感情を揺さぶったかである』。
これが私の一番大切にしている持論であり、普段感情理論と私が呼んでいるものの正体です。
概略はこんな感じでしょうか。
かなり自信のある理屈ですので、もしツッコミどころを見つけました是非かまして欲しいです。内容しだいでは、すぐにでも理論改築に取り掛かります。
さて。
これまでのことを踏まえて、もう少し寄せられたご意見に触れます。
>文学とエンターテイメントの両立は可能である
私にとっても「テーマ性を持つこと」と「エンターテイメント性を保つこと」は矛盾しません。
……普段はそうでもないのですが、ここのエッセイの中だけでは、あくまで自分の考えとして『文学』と言う言葉を用いることは避けたいと思います。「テーマ性を持つこと」=「ガルドの中で文学っぽいと考えている小説」くらいの認識でお願いします。(テーマに関しては『テーマ(笑)』という項目でもおったてて、そのうち持論を書きたいと思います。いろんな人に言ってやりたいことや聴いてみたいことが、これも多い議題です)
ただここまで書いて思うことは、寄せられた意見と私の持論は、貼られたラベルが違うだけで中身は実は同じものなんじゃないか、という疑問ですかね。
かといって私としては「文学」という言い方はちょっと受け入れられないですし、私にとって感情理論はあくまでエンターテイメント技術でしかないのですが。
私の考える「これがもしかしたら『文学』なのかもしれない」というまとまりきらない理屈と、「感情理論=文学」論はわりと相容れない感じですし。
いや、とはいえ私が寄せられた意見を完全に読み取れたと言い切る気もありませんし、そこに書かれた文章が彼の全意見だなんては決して思っていませんので、あまり不用意なことを言うと私の立場が危ういですね。議論をしよう、という者として(笑)
ともかく。
これを読んだ貴方は、いったいなにを思い、なにを考えましたか?