4.その日、男は立ちつくし少女は泣いていた
ひとりで頑張ってきた。
両親が亡くなって、頼れるひともいない。
くわしくは知らないが両親は近しい親戚がいないようで、少女にとって血縁があるのは両親だけ。
もちろん近所のものたちが冷たいというわけではない。
遺された少女を気にかけて声をかけてくれたり、手を差し伸べてくれたりもする。
それでも彼らには彼らの生活がある。
幼い子供ではない少女に対して、全ての面倒を見ることもできない。
店を守るためにひとりで頑張ることは、少女にはあたりまえのことだった。
少女にも少なからず意地や矜持がある。
いつまでも途方にくれて嘆き続けたりできなかったし、必死に働くことで落ちこまないでいられた。
そもそも恋愛ごとなんて二の次。
何とか生活の基盤を整えられるほど店の運営が落ちついても、あえて恋愛をしたいとは思えなかった。
友人たちが婚約したり、結婚したりと続いても、身近な出来事に思えなかった。
貴族の依頼の件がなければ、未だ結婚を考えもしなかっただろう。
少女は片付けの手をとめて傍にいる男の様子を見る。
男はせっせと濡れた床を拭いていて、少女の様子には気づいていないらしい。
仕事をしたくないと公園で泣いていた彼。
婚約することに戸惑っていたものの、それでも受け入れてくれた。
少女の言うことにまったく文句を言わず、積極的に“お手伝い”してくれている。
踏み台がないと無理だった高いところにも簡単に手が届く。
時間をかけて移動していた重いものも、彼は軽々と運んでしまう。
少女が幼い頃から練習した花の包み方も、教えたらすぐに習得できてしまった。
周囲の動きにかなり敏感で、少女がなにを考えているのか、客がどうしたいのかをすぐに読みとって、さっと準備をする。
あんなに優秀なひとが“仕事”を嫌がるなんて、余程のことがあったのだ。
下手にこの国に来る前のことを問いかければ地雷を踏み抜くはず。
少女は彼について何も訊かなかった。
それに男がどれほど疲れていたのか――なんて。
彩花を毎日手渡す少女からすれば、一目瞭然なのだ。
少しずつ癒されてきたのか、今では最初に会ったときよりは、ひどい枯れ方はしていない。
よく眠れているようで、食事もあっているのか、顔色もよくなり安堵した。
少女の問題にひとつも関係ない彼は、巻きこまれてもよく手伝ってくれている。
せめて自分の作る彩花で癒してあげたい。
――ふと、少女は瞠目する。
今までこんなに近くで助けてくれたひとは、両親以外にいなかった。
自分の今いちばん傍にいてくれるのは彼だけだった。
「どうした?」
手を止めている少女に気づいて、男が声をかけた。
ぱっと顔をあげた少女はどこか上気した頬を隠すように、慌てたように首を振る。
「な、なんでもないの。こっちの片付けは、もうすぐ終わるわ」
「……そうか……?」
訝しげに様子を伺う視線に、少女はこくこくと頷いた。
少女がそういうのであればと、男は無理に詮索はせず止めていた手を動かす。
なんとか濡れた床を綺麗に拭えたのを確認して、男はこっそりと溜息をついた。
貴族の男を追い返した翌日から、店に対して嫌がらせが始まった。
看板が倒されていたり、汚されていたり。
今朝のように店の床に水をまかれていたりするのはまだマシと言える。
だが、根も葉もない悪評をそこかしこで流されたり、客が多い時間帯を狙ってゴロツキのような風体の者が周辺をうろついたり、と。
店の営業に支障が出ていることが一番の問題だった。
通ってくる常連こそ、心配そうな表情をしながらもまだ来てくれている。
少女は懸命に仕事をこなして頑張っているのだが、それでも目に見えるほど客足は遠のいていた。
貴族の男が嫌がらせを行っている証拠はない。
とはいえ、現状でこの店に嫌がらせをするのはあの貴族ぐらいだと周囲も分かっている。
しかし腐っても貴族である男を、明確な証拠もなく捕縛することもできない。
剣警の者たちには、周辺の巡回を強化してもらうぐらいしかできなかった。
悪評を口にしたり店を汚したりする実行犯は、結局金で雇われたにすぎない。
彼らは命令された貴族の子飼いや手下から嫌がらせの話を受けている。
そのため、ことを先導する大元に関しては知らないのだ。
「そろそろギルドに行く時間じゃないか?」
「あ……納品されているだろうし、引き取りに行かなきゃ」
一通り片付けを終えたのを見計らって声をかけると、我に返ったように少女が顔をあげた。
慌てて支度をした少女と共に、店にしっかりと鍵をかけて外へ出る。
少女は店が休みのときは、わりと外へ出ていたらしい。
散歩をするのが好きで、よく男と出会った公園に行くことも多く、図書館へ行って勉強した帰りに買い物などもしていたそうだ。
しかし、今は嫌がらせのこともあって店をあまり離れたがらない。
というのも、店への嫌がらせは男や少女が店先にいない時間帯によく起こる。
朝に水がまかれたのは、少女が裏の庭にいて、男が近くの店に買い物へ行っていたときだった。
各ギルドが立ち並ぶ通りは少女の店からは離れた場所にあるので、どうしても店を離れなければならない。
どちらかが店にいればいいと最初は男も考えたが、少女がひとりでギルドにいくにしても、店に残るにしても不安がある。
今の被害は店にとどまっているが、少女に何もないとは限らない。
思考が堂々巡りするなか、男も少女も話題の少ないままギルドへ到着する。
ギルド周辺はいつも冒険者に溢れ、また依頼に来る者たちも加わってにぎやかだ。
しかし、今日は何故だかそのにぎやかさが楽しげなものではなかった。
ギルド職員や冒険者たちは顔をしかめながら何事か話し合い、傍にいる商人たちも戸惑いや憤りの表情でざわめていている。
「何があったのかしら……」
不安そうに呟く少女。
少女の声が聞こえたのか、商人たちの中から2人の男が慌てて飛び出してきた。
それは郊外にある花畑を管理している職員のひとりである男と、その花を少女に卸している商人だった。
遅れてギルド職員もついて来た。
「良かった、今から店の方に行こうと思っていたんだよ」
「あの、どうしたのでしょうか? ギルドの方もなにか……」
「……花が全て、だめになってしまったんだ」
憎らしげに告げる商人の言葉に、少女が息を呑む。
「実は、郊外の花畑が全て荒らされていると報告がありまして」
「まさか……そんな。……全て?」
「売れるような花は全てだ」
「残念なことに。深夜から夜明けにかけてのことかと思われるのですが、今ギルド職員や研究者、冒険者たちも一緒に確認している最中なのです」
ギルド職員がつとめて冷静に状況を話す。
確認というのは、花畑が荒らされた原因について――はっきりと言えば人か獣か、どちらの被害によるか明らかにするためだろう。
「ひどい……」
少女から教えられていたから、実際に見たことない男も知っている。
郊外の花畑はかなり大規模な施設で管理されている場所だ。
少女の店に卸す花以外に、染花や研究に使われる花や種、医師などが使う薬草など、様々な植物を育てている。
研究者も集っては品種開発や効能の解明など、重要な研究もされている。
ただの観賞用としてではなく、多岐に渡って国に貢献している花畑なのだ。
その花畑が荒らされたとなれば一大事。
発覚した直後、早急に城にも報告が飛んだだろう。
少女は今にも倒れそうなほど青ざめていた。
今の状況で、花畑が獣や自然災害で荒らされたと思う方がどうかしている。
彼女の店がどんな状況におかれているかも、ギルド職員や商人たちは報告や噂で知っているはず。
間違いなく人の手による仕業だ。
男はそっと少女の背を支えるように触れる。
怖々と見上げる少女の揺れる瞳に頷く。
ひとまずここにいても少女や男にできることはない。
少女の店だけの問題ではなくなっている以上、解決するまでは店にある花々で凌ぐしかないだろう。
商人や職員に見送られ、店へととってかえす。
話題など何も浮かばず、無言のまま店へと戻り――少女はふらりと倒れかけた。
「どうしてここまで……っ!」
少女は支えた男の胸にすがりつき、顔を覆って嘆いた。
じわりとシャツが濡れる感覚。
男は立ちつくしながら、少女が泣いたところを見るのは初めてだと、気がついた。
看板は倒れ、鍵をかけたドアは半壊し、拭いた床は水浸し。
――花は全て荒らされていた。