3.その日、少女は無理して男は助けたかった
この国では、移住者は特に珍しくないらしい。
それほど大きくはなくても城下町だから、様々な人間がやってくるという。
少女の説明ではここは日本ではないようだった。
もちろん店の外を見せてもらったが、やはり日本ではなかった。
男は店前の掃除をしながら町を眺める。
この国の風景は、一見だけならどこかの外国の風景にも思えた。
素朴だが整備された石畳の上には木材やレンガの家が並ぶ。
信号も車も電化製品もなく、これだけなら外国の田舎にもあるかもしれない。
けれど大通りや市場では、詰襟の制服らしい服で剣を携えた者たちが見回っていて、喧嘩や揉め事が起これば仲裁している。
そもそも少女が依頼するギルドなんて組織はゲームやアニメでしか知らない。
町の向こうにそびえる城塞は現実味がない。
本物の魔法なんて、男の現実ではありえなかった。
「超能力でさえ見たことないのにな」
それでも信じるしかない。
先ほど、手のひらで萎れていった花があるから。
少女に連れられて結婚を了承した日から、今日で3日目。
正確には結婚はまだできないので、婚約ということになるのだが。
色々と訊き出して、男はある程度少女の言う結婚について知ることができた。
結婚については、男の知る常識と相違はない。
今回少女が男に申し出た結婚――婚約とは、通常は結婚に至るまでの様々な準備を整える期間とされている。
正式な手続を行う婚約は、きちんと結婚が決まっている場合にするもの。
つまり、破棄されることがほとんどない手続だ。
貴族や身分の高い者はなおさら準備に時間がかかるので、普通に行っている。
しかし手続自体は強制ではないため、平民はあまり縛られず、したりしなかったり自由だそうだ。
少女は昨日、意気揚々と男との婚約手続をした。
そうしなければ少女はたちの悪い貴族に手篭めにされてしまう。
少女からはきちんと説明もされたし、男も散々確認をした。
ちゃんと分かった上で男は婚約を承諾したものの、かなり年下の少女を結婚相手にするとなると、どうしても犯罪者になったかのような気分に陥る。
「……それでも、か」
くたりと萎れきった花をそっと紙にはさむ。
少女は男から承諾をとった時に言った通り、毎日彩花を用意してくれた。
出会った時に手渡されて瞬時に枯れた3本の花は、2日目の朝に2本が枯れた。
昼で2本が瞬時に枯れ、夜には1本が瞬時に枯れた。
そして3日目の朝に手渡された花は、1本がみるみるうちに萎れた。
「ほんと、魔法ってすごいな」
花が瞬時に枯れなかったので、確実に男の疲れはとれている。
これだけ頭や体が軽いのは久しぶりだった。
効かなくなった栄養ドリンクを飲むのも一苦労だったのに、3日目ですでに少女の作る食事によって空腹を感じたり、おいしいという感覚が戻ってきたようだ。
時間に追われないということが、どれだけ精神的に楽か思い知る。
職場からの連絡はなく、上司の罵声は飛ばず、積み上げられる書類もない。
暖かいベッドで夢を見ずに朝までしっかり眠れる安心感。
婚約の事実に対しては、未だに戸惑いや違和感がある。
しかしまぎれもなく自分を助けてくれた少女には、できるだけ恩返しをしたい。
「やあ、婿殿」
「っ ――いらっしゃいませ」
背後から唐突にかけられた声に一瞬だけ息を止める。
慌てて振り返りながら、男は顔に営業スマイルを貼り付ける。
「ルディシオン様」
「こんにちは、きみの嫁殿……おっと、店主はいるかな?」
「からかわないで頂けますか……今お呼びいたします」
「ふふ」
婿とか嫁とか、慣れない上に気恥ずかしい。
くすくすと、悪く言えばニヤニヤと笑うのは、店の常連である青年だ。
全体的に中性的な雰囲気だが、すらりとした執事服の着こなしがよく似合う。
青年の声が聞こえたのか、男が呼ぶ前に少女が店から出てきた。
「こんにちは、ルディシオン様。お花のご用意はできていますわ」
「いつも助かるよ、ありがとう」
「いいえ。こちらへどうぞ」
ルディシオンの主は少し病弱で、念のためにと毎日彩花を購入しているそうだ。
確かに貴族といえど、毎日手に入れるとなると染花ではあまりに高額になる。
店の手伝いのために少女から色々と教えられたが、金額の差には驚く。
そもそも専門に作る魔法使いが少なく、高価になってしまうのは、染花の方が魔力も時間もかかることが最大の理由だそうだ。
だからこそ、貴族も染花より彩花を選ぶ者がいて需要がある。
少女が狙われた理由もそこなのだ。
「手伝ってもらえる?」
「ああ、準備するからそっちは任せる」
「お願いね」
青年を伴って店の中に戻った少女をカウンターへ誘導して、男は棚から持ち帰り用の大布を準備する。
作業台の上に用意してある大きめの花束は、花の部分には軽くシートがかけられて触れないようになっている。
それでも男は、決して花を触らないよう慎重に手早く大布に包み込む。
会計が終わった頃を見計らって、そっと青年に花束を渡した。
「ありがとう。いやあ、さすが婿殿だね。手渡すタイミングばっちりで、すぐに店の仕事も覚えて。店主は良い人を選んだね」
「ルディシオン様にもそう言っていただけて嬉しいです。手伝ってもらえて、本当に助かってますの」
にこにこと少女は嬉しそうに笑って満足げだ。
青年の言葉に、まだ婚約者だと男は抵抗したくなる。
だが、婿と呼んでも差し支えないだろうと言われてしまうのだ。
少女の店を手伝うようになってすぐに、近所の人たちや、常連客から婿婿と呼ばれて落ちつかない。
しかしあくまでも手伝いであると、少女は言う。
仕事をしたくないと嘆いた男に手を差し伸べた少女は、男に何か要件を申しつけるとき「手伝って」と言うのだ。
そして少女の“お手伝い”は、男にとっては本当に“お手伝い”だった。
重い荷物を移動するとか、高いところの箱を取るとか、どれにしても簡単なこと。
華奢な少女には確かに大変なのだが、今まで少女だけでもできた仕事。
もちろん、花の名前も特徴も分からない男には選定はできない。
簡単に教えられたとはいえ、見たことのない金銭のやりとりは気をつかう。
店の運営に関わる重要な物事は、今まで通り彼女だけで行っている。
男も、仕事だと身構えてしまうと胃がきりきりと痛む。
申し訳ないと感じつつも、手伝いだと断言されることで精神的に安定していた。
「ところで、店主。噂に聞いたのだが――」
「店主はいるか!」
ルディシオンが何か言いかけたところで、その後ろから大声が飛んでくる。
怒りを含んだ声は上司の叱責する声に似ていて、ぎしりと男の身が竦む。
隣にいた少女はその声に眉をひそめた。
同時に男の硬直に気づいたのか、そっと背を撫でる。
「……おっしゃっていた期日までには、まだ数日あったかと思いますが」
背を撫でる少女の手は優しいが、聞いたことないほどの固い声。
男はようやく我に返って少女を見下ろす。
少女はぴったりと男の傍についたまま、無表情で前を見つめている。
その視線を追うと、青年の後ろには、何やらごてごてと着飾った50代くらいの男。
華美な装飾と偉そうな雰囲気をまとっているが、少女の態度はそっけない。
もしかしてこいつが少女に無理な依頼をした貴族か、と気づく。
「忙しいところだが成果を聞きにきてやったのだ! 無理か? 無理ならば今すぐにでも違約をしても――何だその輩は」
居丈高にべらべら述べていた貴族は、ようやく少女の隣に立つ男に気がついた。
じろじろと上から下まで見下すように眺め回される。
居心地の悪さと無遠慮な視線の苛立たしさ。
会社をまざまざ思い出し、落ちついていた胃がぎりりと痛みそうになる。
だが、背を撫で続ける優しい少女の手によって、だんだんと落ちつきを取り戻していく。
「何だも、なにも。彼女の、婚約者、ですが」
「……なにぃ?」
男はつとめて冷静に言葉を紡ぐ。
貴族は不愉快そうに顔をしかめながら少女を睨んだ。
だが、少女は男の傍から一歩も離れず、無表情を保つ。
「この間は一方的にお話をされてしまいましたので、お伝えすることが出来なかったんですの。正式な手続を、している私の婚約者ですわ」
正式な手続き、という部分をゆっくり強調して伝える少女。
さすがに言いたいことが分かったのか、貴族は苦々しい表情を浮かべた。
「おやおや――これは。スゲィズク卿では? お久しぶりですね」
それまで黙って控えていたルディシオンが少女の前へと一歩踏み出した。
貴族はルディシオンを目にすると、ひくりと口元を引きつらせた。
どこかうろたえるような貴族を気にせず、ルディシオンは笑顔を浮かべている。
「……貴様っ」
「まさか貴方もこの店を贔屓にしていたとは存じ上げませんでした。ここは良い花屋ですよね、旦那様たちも気に入っておりまして」
「……そう、だな……」
「特にお嬢様は随分とこの花屋を贔屓にしているので、ここが潰れでもしたら泣いてしまわれます――そう、思いませんか?」
少女と男の前に立っているので、ルディシオンの表情は分からない。
だがルディシオンの穏やかな声とは対照的に、ひやりとした空気がその場を満たすことだけは分かる。
もちろん目の前の貴族も気がついたのだろう。
もごもごと文句のようなことを口の中で呟いていたが、くるりと背を向けて足早に店から去っていった。
貴族の姿が見えなくなると、ひょいっと肩をすくめてルディシオンは振り返る。
その時にはすでに冷たさは消えていた。
「店主、彼に依頼を受けていたのかな? 客を追い払ってしまっただろうか」
「……いいえ、そんなことはありませんわ。うちではできかねるとお伝えする前に帰ってしまわれたので、困っていたんですの」
「そうかい。ではお役にたてたのかな……けれど」
ルディシオンは気の毒そうに少女を見やる。
「申し訳ないが、解決したとは言いにくい。あの手の貴族は矜持が高いからね、何かあったらすぐに剣警団に知らせなさい」
「分かっておりますわ。ありがとうございます」
少女の返事にルディシオンは頷く。
そしてさっぱりと表情を穏やかなものに入れ替え、腕の花束を抱えなおす。
「では、そろそろ帰らなくては。待ちくたびれてしまうね」
「またお待ちしております」
「ではまた。きみもね」
「あ、はい……お気をつけて!」
ぽんと肩に手を置かれ、男は姿勢を正す。
ルディシオンは男の様子に小さく苦笑し、店を後にした。
男はぼんやりとルディシオンの背を見つめる。
肩に置かれた手に、少女をしっかりと守りなさいと、念を押された気がした。
あえてきみと呼んだのは、婿だからではなく、男としてちゃんと構えなさいと釘を刺されたように思える。
確かにあの場面では男が少女の前に出るべきだったのだ。
男と少女の婚約するに至ったのは、あの貴族の無茶ぶりが原因なのだから。
重い気まずさに溜息をつく。
そっと少女の様子を伺おうとして、男はぎょっとした。
少女がひどく青ざめ、背を撫でていた手はいつのまにか男の服を掴んで震えている。
「ちょ……だ、大丈夫か!?」
「え……」
「お、おい!」
少女は男を見上げると、そのままふらりと後ろへとよろけた。
慌てて引き寄せて倒れないようにすると、今度はくたりと男へと寄りかかる。
「……ごめんなさい、ちょっと、力が抜けて」
男は慌てて少女を抱えて店の中へと運ぶ。
住居スペースのソファに座らせて、水を用意するついでに店の看板をひっくり返して閉店を示した。
申し訳ないが、少女のあの様子では営業なんてできないだろう。
思えば少女はたったひとりで店を守り、貴族の横暴な依頼を投げつけられたのだ。
見知らぬ男と婚約するほどに追いつめられて。
男はそんな少女の決断に助けられたというのに、少女を助けられなかった。
いくら少女の機転で最悪の状況を回避できたとはいえ、ルディシオンの言っていた通り、まだ解決したとは言えない。
「ゆっくり飲んで」
「ええ……ありがとう」
疲れたように水を飲む少女の姿を見つめながら、男は情けなさを飲みこむ。
今は落ちこんでいる場合じゃない。
憤慨したような貴族の様子から見て、少女を無理やり攫うようなことはしなくても、何か嫌がらせのようなことをしてくる可能性が高そうだ。
少女が無理しないように、少女のためにできることを考えなくては。
――ふと、男は苦笑する。
今までどんなに会社で頑張っていても、自分のためだった。
誰かのために頑張ろうなんて、思ったことなかったな。
そんな男の考えを挫くように、嫌がらせは始まってしまった。