1.その日、男は疲れていて少女は提案をした
「あああああもう嫌だ仕事したくない戻りたくないやりたくないもう無理だああああああっ」
「あら! それなら私のお婿さんになればいいわ。そうしたらおうちのお手伝いになるし、お仕事にはならないもの!」
聞こえるはずのない柔らかな声に、男の思考が止まる。
ぼんやりと目にした視界は、見知った公園じゃない気がした。
「もうむり……」
――数分前。
公園のベンチに蹲るようにして崩れ落ちた男は、苦しさにあえいだ。
今までその一言を口にしないように、どれだけ頑張ってきたのだろう。
正直なところ覚えてないし、思い出すのも困難だった。
言ってしまったら心が折れて、もう頑張ることなどできない。
頑張ることができなければ社会から失墜してしまう。
今日までがむしゃらに、会社の歯車のひとつとして働いてきたのに。
男はぐったりとベンチに座り込み、ぼんやりと虚空を見つめる。
とっくに限界を越えているせいか体が重力に逆らえず、鉛のように重い。
手先はしびれたように鈍い感覚だけ残り、小刻みに震えている。
腕を動かそうにも肩が石のように固く痛み、頭の中で絶えずごんごんと襲う鈍痛。
寝不足のせいか乾いているせいか、目に空気が染みる理由も分からない。
「……もう、むりだ」
どうしてこんなことになったのか、男は思い返す。
最初は、いわゆるブラック企業だと知らずに会社に入社したことだろうか。
忙しいと思いながらも必死に働けたのは、きっと若さと無知のおかげ。
別の会社にいる友人が、自分ほど疲れていない違和感はあった。
けれど業績を伸ばしているから忙しいのだ――。
おかしいと認めたくなくて、ごまかして考えずにいたからかもしれない。
やがてノルマをこなせなくなり、何とかしようと必死に働いた。
残業と休日出勤で睡眠時間が減り、ストレスもあって体調が悪くなっていく。
時間も場所も関係ない体の痛みと息苦しさ。
どうしても集中できないのに、小さなミスでも上司からひどく罵倒が飛ぶ。
巻き込まれないようにと、あからさまに避ける同僚の手も借りられない。
きりきりと痛む胃が悲鳴をあげていた。
「できない……」
最大の転機は、同期が起こした横領事件。
同期入社したそいつとはわりと最初のうちは仲が良かった。
けれどやり手で営業に向いていたそいつは、みるみるうちに業績を伸ばして同期の中でもトップに躍りでた。
やっかみでいじめを受けていたらしいが、うまく助けることもできなくて。
それでも前向きに仕事をしていたから、そいつはきっと大丈夫。
何もできなかった男は傍観するしかなかったし、そう思っていたのに。
ある日いきなり、そいつが横領事件を起こしたという話が会社を駆け巡った。
あまりにも突然だったので、タチの悪い冗談だろうと男は肩をすくめた。
それなのに、一気に孤立無援になったそいつは即座にクビにされた。
通達もなく直接クビを言い渡されて茫然としていた、あの顔が忘れられない。
なによりも信じられなかったのは、そいつと付き合っていた同期の女。
立ち竦む恋人を助けるどころか、別の男の傍に平然と立っていた。
そこから何を信じればいいのか分からなくなった。
必死に働いてノルマをこなし、業績を伸ばしてもひとたび誰かに睨まれたら。
もしかしたら、自分にも同じことが起こるかもしれない。
やってもいない罪をなすりつけられて、ゴミのように捨てられる。
「いや、だ……」
自分もあの顔をするのだろうか。
男は初めて周囲のやり方に、会社の仕打ちに恐怖を感じた。
休憩時間になるなり会社をひとり飛び出した。
近くの公園のベンチに崩れるように座ったとたん、男は動けなくなった。
疲れた。疲れた。
もう、疲れたんだよ。
「……っあああああ仕事したくない戻りたくないやりたくないもう無理だああああああっ」
「あら! それなら私のお婿さんになればいいわ。そうしたらおうちのお手伝いになるし、お仕事にはならないもの!」
ふわりとした花のような香りと優しい声。
男は抱えた頭ごと、涙でかすむ視界で隣を見た。
最初に見えたのは布のような糸――ゆるく波打つ茶色の髪の毛。
チョコレートのような濃い色ではなく、ミルクココアに思える淡い色。
なんだか甘そうだな、とぼんやりと男は思う。
「こちらをどうぞ」
差し出されたのは5本ほどの小さな花束。
特にラッピングされたものではなく、どこにでもある白い紙で包んだだけの簡素なもの。
そこから花束を持つ細い指を認識して、細い腕を辿り、華奢な肩をなぞり、微笑む表情を写して、ようやく男は隣に座っているのが少女だと気がついた。
「……え……?」
「どうぞ」
少女はぼんやりした男に微笑んで、やはり花束を差し出してくる。
先ほど感じた甘い香りは、どうやらその花からしているようだった。
花にくわしくない男には、それがなんという花か分からない。
涙腺が壊れたのか溢れ続ける涙のせいか、オレンジ色花びらが妙にゆらゆら揺れているし、ほんのり光っている。
少女は差し出したままにこにこと笑っていて引っ込める気配はない。
「くれる、の?」
「ええ。どうぞ」
「そ、う」
こくりと少女が頷く。
甘い香りに誘われたのか男の垂れ下がっていた腕がのそりと上がって、鈍く痺れた指先が花びらに触れる。
――ばらり。
「ふぁっ!?」
「あら……まあ……」
男の指先が触れた瞬間、花びらが一気に色を失って地面に散った。
それも触っていない他の2本を巻き込んで。
「い……一瞬で、花が枯れた……ももも申し訳ございません申し訳ございませんっままままさか俺の気鬱が一瞬で花を枯らすだなんて思ってもみませんで」
「ふふ、謝らないで」
「な、だっ、だって……っ」
「いいの」
少女は男の今にも土下座しそうな謝罪に首を振る。
自分の頬に手をあてて溜息をつきながら、気の毒そうに男を眺めた。
「大変でしたね……普通のひとでも1日の疲れなんて、1輪がゆっくりと萎れるぐらいなのに、3本が一瞬なんて。でも、少しは疲れがとれたかしら」
「え? ……あれ……? なんか、頭がわりと軽い……?」
「良かった」
気だるい気分も、痛み続けていた場所も。
花が枯れたと同時に、男の体から散っていったように消え失せる。
奥底に残る重みはなくなってはいないが、それでも男にとっては劇的な変化だ。
「こんな体調軽いの、久しぶり……? ……魔法みたいだ……」
ぼんやりと手のひらを見つめていた男は、小さく笑う声に視線を少女へと戻す。
少女の姿は、柔らかな橙色の光の中でほんのりと輝いて見えた。
それは先ほどの散る前に見た花と同じようで、まるで魔法のように思える。
「――魔法……」
ぽつりと溢れた言葉に、男はようやく納得して瞬く。
触った瞬間に花が枯れて、それで体調が回復するなんてまるで魔法だ。
そもそもこんな可愛らしい少女が、くたびれたおっさんに話しかけてくるなんて現実にはありえない。
その上、少女はなんと言って隣に座ったのだったか。
「おむこさん……?」
「ええ! お仕事じゃなくて、お手伝いしてくれるお婿さん」
「……結婚、て、こと……?」
「ええ」
魔法の花を持った少女がプロポーズしてくる。
夢か。そうか夢だったか。
そうか、結婚すれば会社行かなくていいんだ。
「不束者ですがよろしく」
男は夢見心地のまま少女に頭を下げた。