松賀騒動異聞 第六章
第六章
「松賀族之助が江戸で病死したのが、内藤侯平藩史料の巻四に依れば、赤穂浪士討ち入りで有名な元禄十五年(一七〇二年)三月二十二日で、その後は実子の伊織孝興が組頭・家老職を継いで、十二年間勤め、正徳四年に隠居して、正元と改名し、養子の織部稠次に家督を譲りました。そして、伊織という名に改名した織部稠次が家老職を継いで五年目の享保四年の正月に、松賀騒動が勃発して、松賀正元・伊織父子が失脚して、正元は同年三月に牢死、伊織は正元の死から五年後の享保九年に牢死して、ここに松賀家が断絶しました。松賀族之助が組頭・家老になったのが、寛文十年(一六七〇年)で、松賀騒動により松賀正元・伊織父子が牢舎に繋がれたのが享保四年(一七一九年)ですから、四十九年ほど松賀一族の繁栄が続いたわけですね。松賀族之助が三十二年間、正元が十二年間、伊織が五年間、合計、四十九年の間、松賀一族が内藤藩の家老を務めたわけです。僕は、基本的には、松賀騒動というのは、息子の政樹が藩主となって、漸く自分の時代がやって来たと思った内藤義英が松賀一族の追い落としを謀って実行した政治クーデターであると考えているのです。毒饅頭事件などと云う、まさに勧善懲悪を画に描いたような冤罪事件もでっち上げられたものに過ぎないと思っています。義英及び守旧派、つまり、松賀・島田という新参者の台頭を苦々しいものと思っていた三河以来の譜代の家臣を主体とする守旧派によるクーデターであり、十三歳の藩主の父である義英が断固として実行するクーデターには誰も反対出来なかったのではないでしょうか。敗者の歴史は勝者によって抹殺されるか、書き換えられる運命にあります。かくて、以前の浅香十郎左衛門事件、小姓騒動なども意図的に真実が歪められ、改竄されることとなり、後世の我々から見たら、史料によって内容が異なり、何が何だか判らないような記述になってしまったわけです。一度、勧善懲悪的な立場を離れ、つまり、松賀一族を悪人とする立場を捨てて、新参者と譜代家臣の対立・抗争といった観点から、浅香事件、小姓騒動を再検証する必要があるのではないかと思っています。何しろ、譜代家臣による藩政の結果として、松賀伊織牢死後、十四年で苛税撤回を要求して藩内百姓が一斉に蜂起した元文百姓一揆が起こったわけですから。僕は思っているのですよ。養子の松賀伊織が油断していなければ、義英派による陰謀による松賀騒動、そしてその松賀騒動による失脚を防止出来て、藩政を譜代家臣に委ねることも無く、無茶苦茶な苛税による百姓一揆も防止出来たのではないかとねえ。木幡さんの見解はどうですかねえ」
十二月初旬
小泉さんから、自宅に招待された。
じっくりと話をしたいから、一度、遊びにおいで、という小泉さんの誘いであった。
小泉さんは私の到着を待ちかねていたかのように、玄関前の庭先に出ていた。
普段は少し鋭い印象を与える顔だが、笑うと急に人懐こくなる小泉さんの笑顔に迎えられて、私は日当たりの良い居間に通された。
居間はかなり広く、ゆうに二十畳はありそうな広さだった。
居間の北側はキッチンになっており、四メートル以上ありそうな長いステンレスの調理場、シンクも大小三つほどあった。
おそらく、奥さんの要望に基づくキッチン設計であろうと思われた。
案外、小泉さんは愛妻家或いは恐妻家かも知れない、と思い、私は思わずニヤリとした。
私は、ふと内藤家の二代目当主の忠興と奥方のエピソードを思い出した。
内藤忠興は父の政長同様、豪気果敢な戦国の猛々しい武将であったが、武田信玄の孫娘である奥方には終世頭があがらなかったらしい。
或る時、奥方附きの侍女にちょっかいを出した時なぞは、怒って薙刀を振りかざす奥方に屋敷中を追い駆け回されたという逸話が残されており、それ以後は、藩政に関しても重要な会議には必ず奥方も同席させたという話にもなっている。
私と小泉さんは南に面した大きなガラス戸の前で東西に向き合う形で大きな椅子に座った。椅子は背もたれの付いた民芸風な作りの椅子で幅広いアームレストも付いている、がっしりとした椅子であった。小泉さんの話では、この椅子の材質は沖縄杉でなかなか柔らかく、この感触が気に入り、東京を出る際、二脚購入して持ってきたものです、ということであった。
暫くは、小泉さんが住んでいる泉という町のあれこれを話していたが、その内、奥から誰か近寄って来る気配を感じた。
私はちらりと足音の方に視線を走らせた。
小泉夫人と思しき婦人がお茶のセットを持って近づいて来るのだった。
婦人は思いがけない声を発した。
私は度肝を抜かれた。
「木幡君、お久しぶりね」
婦人の声に私は驚き、その婦人を見た。
見て、驚いた。
中学の四年先輩がそこに居たのだ。
「美智子さん? 馬目美智子先輩です、よね」
「当たり! その通りよ、木幡君」
その婦人、小泉夫人はそう言いながら、私と小泉さんの間にあるテーブルにコーヒーカップを静かに置いた。
「ああ、本当にびっくりしました。馬目先輩にこのような形で会うなんて」
小泉さんは黙って微笑みながら、私たちの会話に耳を傾けていた。
馬目美智子は中学の四年先輩で、中学でブラスバンド部が初めて創設された時の創設メンバーであり、卒業してからも時々は私たち後輩の指導に現れていた先輩であった。
中学では男を抑えて成績は一番を通し、地元の名門女子高に入り、その高校の制服のまま、時折中学に来ては後輩の指導にあたっていたのであった。
彼女が吹くアルトサックスは男顔負けの力強い音を出し、同じサックスを吹いてはいたが、どうも弱々しい音しか出なかった私なぞは、彼女からよく叱られたものであった。
もっと、男らしく、大きく吹きなさいよ、と何回言われたことか。
その彼女、私にとっては恐い先輩であった馬目美智子が小泉美智子となって、四十数年という長い時を経て、今私の前に出現したのだ。
これは、驚くなという方が無理である。
彼女は、台所から洒落た丸椅子を持って来て、私と小泉さんの間に座り、暫くは私を質問攻めにした。
おかげで、小泉さんは易々と私の細かな個人情報まですっかり知ることが出来た。
「馬目先輩は確か、大学は早稲田でしたよ、ね」
「そう、全共闘華やかなりし頃の早稲田の文学部よ」
その後聞いた彼女の話に依れば、彼女は全共闘の活動家になり、相当激しく活動したらしい。
当時、ナチスに対する抵抗勢力として活躍したローザ・ルクセンブルクというドイツの女性闘士が男の活動家の間ではヒロインだったと言われており、女性活動家で頭が良く綺麗な女子学生は皆ゲバルト・ローザと呼ばれていたと聞いたことがある。
美智子さんもそのように呼ばれていたかも知れないと私は勝手な想像をした。
但し、私が大学に入学した頃には全共闘の季節はとうに過ぎ去り、学生運動は既に沈滞期に入っていたが、馬目美智子先輩の話は時折私たち後輩の耳に入って来た。
大学を卒業し、大手の商事会社に入り、そこで上司と結婚して会社を辞め、東京で暮らしているという噂が私が彼女に関して聞いた最後の噂だった。
美智子さんは大柄ではあるが均整の取れたスタイルの持ち主で、派手な目鼻立ちで綺麗な女子高生であった。
彼女のファンは多く、正直に言うと、私も秘かに憧れていた先輩であった。
その彼女が今、私の目の前に居るのだ。
世の中も案外狭く、捨てたものでは無い、と私は思った。
私と美智子さんの中学は、今私が住んでいる小名浜という港町にあった。
小名浜は結構歴史がある古い港町で江戸時代の史料にも、小名千軒とあり、相当賑わったところであった。
内藤侯平藩史料の巻一の中にも簡単な記述であるが当時の賑わいが紹介されている。
(筆者注記:原文はカタカナ混じり文であるが、現代風に区切り、且つ平仮名表記とした。)
平城郭:
御城は山城にして
外郭の門六ヶ所
本丸まで四重の郭なり
要害の処は皆桝形にて渡り櫓の門なり
惣門数十八ヶ所
本丸には二重三重棟作の櫓ありとて
八ヶ所に櫓を構え
堀は三重になり
堀口の広き所五拾間
深き処は十間
岸の高さ十七間
其上に石垣の高さ二間に築き
塀をかけ
要害堅固の名城なり
小名浜:岩城七浜という項の中に記述がある。
小名四倉の両所は御領内の大浜にして
世俗小名千軒と云い伝えしかとも
二千竈余軒を並べ
其外四浜あり
惣じて
岩城七浜と云う
小名浜は千軒、或いは、二千竈、というふうな表現でその賑わい振りが紹介されており、昔は磐城平城下を凌ぐとまで言われていた。
「正一郎さんは知らないだろうけど、あたしの小さい頃の小名浜は本当の漁師町だったのよ。大きくも無いけど、小さくも無い、素敵な港町だったの」
美智子さんが飲みかけのコーヒーカップをテーブルに戻しながら、話し始めた。
眼を少し上げて、どこか夢見るような眼差しであった。
「昭和で言えば、三十年代、西歴では一九六〇年代と云ったところね。戦争で沈んだか、戦争が終わり、沈めたのかは知らないけれど、今のララミューあたりに軍艦の船体をそのまま利用した岸壁があったわ。その岸壁が一つの目安で、陸からその軍艦岸壁を見て、左側が漁港、右側がかなり長い砂浜となっていたの。岸壁となっている軍艦には貝が一杯付いていた。あたしたちはしゅうり貝と呼んでいたけど、何のことは無く、ムール貝だったのよね。ほら、スペインの郷土料理、パエーリャに欠かせない、あの大きな黒い貝よ。初めて、パエーリャ・ア・ラ・バレンスィアーナを食べた時、正一郎さん、あたし、あなたに言ったわよね、あっ、これはあたしの故郷ではしゅうり貝と言うのよ、と。しゅうり貝も結構大きなしゅうり貝で、そう、十センチ近い大きなしゅうり貝がびっしりと鉄の船体を覆い尽くすように付いていたの。父と兄が泳いで、軍艦に近付き、しゅうり貝を剥がして、浜辺に戻り、あたしに渡す。あたしは浜辺に転がっている石を集め、小さな竈を作り、家から持ってきた薪に火をつけ、そのしゅうり貝を焼くの。やがて、固く閉ざしていた貝の口がパカリと開くの。開いた口に、醤油を少し垂らして、指ですくうようにして食べる。熱々と言いながら指ですくうようにして食べるしゅうり貝のその美味しいこと。あの、美味しさは今でも忘れていないわ。ねえ、木幡君も覚えているかな。小名浜の浜辺は、今の勿来の浜辺よりも綺麗な砂浜だったのよ」
美智子さんはこのように言っていたが、残念ながら私はそうは思ってはいなかった。
小名浜の砂浜と勿来の砂浜を比べると、やはり勿来の海の砂浜の方が綺麗だ、という話を小さい頃に聞いたことがあるからだ。
美智子さんのノスタルジーに過ぎないとその時思った。
しかし、ノスタルジーをこのように話す美智子さんは悪くはない、素敵だ、と思った。