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ALIVE  作者: 大川由宇
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少年、昼~

 普通の高校生として生活している弱気な少年・焔木孝友。彼には超能力があるが、あくまで秘密である。

 友人の霧尾雄と下校中、幼馴染である葉生由依と帰ることになる。そして由依には、拒否されることを畏れつつも、孝友に聞きたいことがあるようだ。

 頭が少し痛む。眼鏡のせいだ。しかし、外すことは出来なかった。隣で、彼がちらちらとこちらを気にしているから。

 眼鏡をかけた少年は、眼鏡を少し触って、束の間渋い顔になった。

「駄目だぞ、外しちゃ」

「わ、分かってる、よ」

 青い空に白い雲がゆったりと浮いている初夏の太陽の下、二人の少年が歩いている。学生服で、ブレザーの上着は着ていない。二人の背後にある学校の生徒なのだろう。

 二人で比べると背が低く、それでいてなかなか頑丈そうな体をしている体格の方。名前は霧尾雄。もう一人の少年の友達。この世で二番目に少年を良く知る人物。成績優秀でその体格だからかどうか、かなり身軽な動きをして、運動能力が抜群。その真面目な性格もあって、女の子たちにも人気がある。少年も彼が好きだ。少年に対して、細かいというよりも厳しいと言った方が良い態度を取る以外は。理由はちゃんとあるのだが。少年の方に。

 校門を出た所。車通りも少ない、安全な通学路に入る。毎日見る光景だが、いつまで経っても違和感がある。

 この、眼鏡だ。

 度数がかなりキツイ。酷使しているのと変わらない少年の目から見える光景は、全てがこの世あらざるもののように感じる。フワフワして、それでいて瞼や、目の玉が痛覚を訴えてくる。実際にその激しい視覚の消耗は、絶えず少年に柔らかな頭痛を与えているのだ。

 取りたい。

「夜までは我慢、我慢」

 雄が言った。痛みに苦しんでいることを知っているのに、そんな軽い口調で返されると、少年の顔はまた渋くなる。

「あっ、焔木くーん、霧尾くーん、バイバイ!」

「バイバーイ。ほら、ユウも!」

「さ、さよなら」

 同じクラスの女子が、少年二人に気付いてさよならを言ったのだ。いや、雄にかな、と少年は思う。

「いやあ、ユウは人気があるねえ?」

「な、何言ってんの? 僕じゃなくて、雄が…」

「分かってない、分かってないよ、君は。うん、うん」

 何故かしみじみと言う雄。

 雄は、少年のことをなぜかユウと呼ぶ。ユウユウと呼び合っているのだ。少年の名前が孝友で、最後の友でユウなのだろうが、どうしてわざわざそう呼ぶのか。ホムちゃん、ラギ、たまに孝ちゃんと呼ぶ人がいるが、ユウと呼ぶのは雄だけだ。理由を聞いても、いつもはぐらかされる。

 いや、それよりも、僕が人気があるだって。少年は思った。こんな、いじけた暗くて情けない奴を。何も出来ない、いつも声が小さいこんな男が。

 信号を渡る。杖を突いたお婆さんとすれ違った。雄と人気の押し付け合いをしながら、少年が何気なくそちらを見ていると、

「あっ!」

 少年は小さく声を発した。年齢は時間の進み方を変えてしまう。二人はもう横断歩道を渡ったが、お婆さんはまだ途中、さらに渡り切る前に信号が赤になり、その上杖を落として屈み込んでしまった。そして、遠くから聞こえてくる耳障りな爆音。

 少年の脳裏に、心臓を掴むような衝撃を伴って、予感が走る。それも、最上級に嫌なやつだ。

 振り返りながら、少年の小さな叫び声に反応している雄は、その視界にやはり何かを捉えている。

「雄!」

 少年が叫ぶ。叫びながら、手を顔の方へと移動させている。

「仕方ない! 外せ!」

 少年の目にも、捉えられた。暴走車。お婆さんは、杖をまだ拾っている所。

 かあっ、と目が熱くなった。しかし心地良い熱さ。解放の喜び。少年の手には、眼鏡が握られている。

 お婆さんと車が、交錯する。

 キキキキっ!

 甲高い音と共に、お婆さんに直撃のはずだった車は軌道を変え、ガードレールすれすれの所を掠めてお婆さんをよけ、また元の軌道に戻って走り去った。

「はい、すぐ着ける!」

「あっ!」

 雄が、少年の手に握られていた眼鏡を取って強引にかけた。眼鏡を通して見える視界に、不思議そうな顔をしているお婆さんが腰を曲げて立っていた。

 そうだ。僕に、人気なんかあるはずはない。こんなおどおどして情けない僕なんかに。女の子に挨拶を返すのさえ恥ずかしがるような僕に。あるはずがないんだ。

 彼は、焔木孝友たかと。念動力が使える、高校二年生の大人し過ぎる男子、らしい。能力は一応、秘密だ。



 ドドドドド!

 大地を揺らす轟音が、何者かの接近を告げていた。

 ドドドドド!

 なだらかな坂になっている車一台分ほどの細さの道。立ち並ぶ民家に挟まれて、窮屈にも見える。

 未確認ながらも、存在確率八十パーセント。孝友が前方に目を凝らす。予想は付いていた。同様に、雄も気付いていた。その怪訝な表情には、疑問と共に焦りも見える。

「あ……」

 孝友の呟き。曲がりくねった道の先は、十メートル前方しか確認できない。その可視領域に予想通りのもの、いや、人が侵入した。

 ドドドドドドドドドド‼

「はわ!」

 雄が小さく悲鳴を上げる。汗をたらしながら周りを見回す。どうやら隠れるところを探しているらしいが、付近には電柱くらいしか目立つものはない。

「おーーーっす、お二人さん‼」

 その人間は、女性だった。長い髪をなびかせて、カバンを携えた手を振りながら突進してくる。

 相変わらず、焦った様子の雄。女性が雄に顔を向けて叫んだ。

「遅いわ‼」

 二人と女性の距離が縮まっていく。五メートル、三メートル、一・・・。

 そのスピードに孝友は反応できず、またする気もないのか、その場で眉根を寄せ、少しおどおどした様子で女性を目で追っている。その姿が、地面から接触を絶った瞬間。

 どんっ!

 激しい衝撃。孝友がまるで自分にも余波が来たかのように手で顔をかばう。

 ドゴッ! ごろごろごろごろごろ……。

「はわああああっ‼」

 雄の叫び声がこだまする。姿が消え、残ったのはどんどん遠くなるその雄叫びと、彼が様々なものに衝突する効果音と、彼と入れ替わるように立っている女性だけだった。

 雄に高速で高威力のドロップ・キックを喰らわせた女性。見れば、彼女は孝友や雄とさほど変わらない年に見える。彼女は制服を着ていた。孝友と同じ学校のものだ。

「葉生さん…」

 孝友が髪をかき上げる彼女を、大人しい、というよりも弱気な顔を渋い顔に変えて言った。

「いやあ、今日は結構調子悪かったんだけどな。いい飛び具合じゃなかった?」

 眩しいほどの笑顔を孝友に向けた彼女に、悪びれた様子はひとつもない。孝友は、この旧知の知り合いに、複雑な眼差しを渋い顔に乗せて向けた。

 葉生由依。孝友と同じ高校の生徒で、今の所二年間同じクラス。文理が分かれているから、よっぽどのことがない限り三年間一緒になる予定だ。ちなみに、雄も同じクラスだ。

 その標準をはるかに上回るボディーラインは、その輝くように奇麗な瞳と肌と共に、クラスの、いや、学校中でもかなりの噂の女の子だ。堂々とした時の表情は大人びてはいるが、それが時に子供のように愛嬌のある笑顔を浮かべる。その笑顔には、どんなものも惹き込んでしまうような魅力がある。大魔神の怒りも静められそうだ。

 それにしても…。

 昔は、こんな人じゃなかったなぁ、と孝友はよく思う。もう少しおしとやかで、ちょっとドジだったけど、大人しくて…。

「なによ、孝友?」

 由依がカバンを持った手を引き締まった腰に当てて、彼女を見つめていた孝友に不思議そうな顔で言った。

「い、いや、ひどいかな、と思って」

「どこがひどいのよ、あの程度! あんなんじゃあ、一分も活動を停止させられないわ」

「て、停止って…。それに、すごい音だったよ。電柱に当たったとき」

 孝友の脳裏に焼きついた光景は、まるで今起こったかのように思い出される。それほど見事なドロップキックだった。雄はそれを受けた後、背後の電柱に激突し、更に電柱にいなされる様にして坂道を転がり落ちて行ったのだった。

「気にしっなぁ~い」

 空いた手で、ウインクしながら孝友の口元付近に人差し指を立てる。

「この~~~!」

 なだらかな坂とはいえ、長い傾斜を転がった雄が、猛然と駆け上ってきた。その顔には、丸粒の汗が幾筋もの線を描き、まだ身が多少残っている魚の骨を貼り付かせていた。

「何考えてんの!? 世間話の最中のオバサン軍団の中に突っ込んじゃったじゃないか!」

「明日には引っ越さないとね」

「そうそう、すぐ恐ろしいほどの背びれと尾ひれが付いた噂を立てられて……って、平然と言うんじゃない!」

 由依と雄の会話を苦笑いしながら聞いている孝友は、それに介入しようという気はないらしかった。

「今日はまあ、もう一人がいなかったから、ダメージが集中してお疲れ様ということで」

「な、何言ってんの! だいたい、何で俺までやられにゃならんの!?」

 オバサン軍団に何か嫌味でも言われたのだろう。雄の剣幕は今まで見たことのないようなもので、孝友は少しはらはらしていたが、会話の内容は結局いつもと同じ展開になりそうだったので、溜息をついてその場から目を逸らした。

「そりゃあ、祐輔は知らないよ! あいつは分かるさ。でも俺まで巻き添えに……って、今日は俺だけにじゃん!?」

「何一人で言ってんの? 雄も祐輔もそんなに変わらないじゃない」

「お、俺とあいつを一緒にするのか!」

 先ほどから会話に出ている人物は、孝友たちの隣のクラスで、山本祐輔という同級生だ。普段は家の方向が近いので、孝友と雄と祐輔の三人で帰ることが多い。そして由依の大技は、雄と祐輔の二人が実験台になることに決まっていた。

 今まで何度もその光景を見ている孝友は、その脳裏に焼きついたものを全て保存している。今の所、メモリーの空きはまだ十分だ。数々の大技と、その度に違う二人の表情を走馬灯のように思い出すと、孝友はやはり苦笑いをした。

「ちょっ、孝友! このわがまま王女を何とかしてくれよ!?」

「え、えと…」

 頬を指先でコリコリやりながら由依を上目遣いに見ると、ゆっくりと彼女は腕を組んだ。本物の風が吹いたかのような、威圧感を感じる。孝友は怯えた。

「ったく、幼なじみがそれでどうすんだ」

 雄が肩をすくめて呆れた顔をする。一応、これでこの件は終了だ。

「さ、さっさと帰ろ」

 由依の言葉で、三人は歩き出す。

 家に挟まれた細い路地を抜けると、家もまばらになってくる。一応、坂の上の団地なのだが、この辺りはそんなに高低差はなかった。ただ、雄の家の方面と孝友の家のある方面とは、かなり差がでる。なにしろ、雄は上った坂を逆側に下りていかなければならないからだ。孝友の家は、その周辺はまだ開発が進んでおらず、進む予定もないのか、下界と離れた静かな地域という感じだった。

「じゃあ、この辺で」

 その高低の分岐が来た所で、雄が言った。小さな公園を挟んで、上へ登る道と、下っていく道に分かれている。子供がよく遊んでいるその公園は、風に吹かれて木々の葉が鳴いているようだった。

今まで孝友がほとんど喋らず、雄と由依の二人の会話が主だったのだが、ここで雄が別れてしまうことに、多少の不安を感じる。いつものこと、なのだが。

「ユウ、葉生に襲われないようにね?」

「何言ってんのよ!」

 ばき、と由依の水平チョップが雄の首根っこに直撃する。

「いてぇ! 冗談だろう! それとも何か、思い当たる節でも!?」

「いね、さっさといね!」

 由依が拳を振りかざすと、雄が逃げるように坂を下っていく。雄の家はこの先のもう少し下りた所にある。

「もう! 行こう、孝友」

「う、うん」

 孝友と由依は、逆に更なる上り坂に足を踏み出す。視線を上げれば、家の途切れた辺りからと、更には所々にある空き地からはみ出すように、森が団地を覆っている。開発途上を物語っている。

「そういえば久しぶりじゃない、二人で帰るの」

「そ、そうかな」

「うん、だって、いつもはあの大木に咲ちゃんが待っててさ」

 由依が顔を向けるのにつられて孝友もそちらを見る。

 そこには、樹齢何千年といっても通用するような大木が生えていた。その名を、翼葉樹という。この町のシンボル。その名の由来は、初めてこの木を人間が見たとき、葉が鳥の翼のような付き方で茂っていたからという、一種の伝説的な話があった。それが本当かどうか。それは分からない。今では、その全容は他の木々に隠されて見えないし、葉の生え方も変わっているかもしれないのだ。

 その大木は、孝友の身長までには小さな枝とも呼べないような貧相な枝がいくつか生やし、その先に数枚の葉を付けている。見上げれば、その幹に相応の太い枝が増え、更に視線を上げれば鬱蒼と生い茂る葉の隙間に陽光が稀に見えるのみになる。ここまで大きな木は、日本の中でも南方の島にでも行かなければ見られない。一時、天然記念物にも指定されかかり騒ぎになったくらいだ。結局ならなかったのだが。

 その木は、道から多少逸れて少し森の中に入らなければ触れられない位置にある。いくら開発が進んでないといっても、家々の間を縫うようにしてある森の存在には、奇異なものがある。しかし住民はそれに不満を抱くことも無く、むしろ誇りに思っている部分もあるようだ。今のところ、害虫、害獣問題もない。

 森は、もちろん孝友にも自慢だった。なんとなくだが、あの公園の分岐から上の住人が森の管理をしていて、孝友や由依も、この森の一員と言える。とは言っても、まだ子ども扱いの孝友たちは大木周囲のゴミ拾いをするぐらいだが。

 その大木が太陽の光を葉で薄めて、転々と地面に降り注がせている。ステンドグラスのようで、それよりずっと奇麗だった。

 葉が、枝が、木漏れ日が、ゆっくりと動いている。

 ずっと昔からある木。孝友が、物心付いた頃から大好きだった木。

 あの日、あの時お別れを言ったはずの自分を、ここへ戻って来た時に優しく迎えてくれたこの木……。

「何、孝友? ぼっとしちゃってさ」

 大木を眺めながらぼっとしていた孝友は、由依の言葉にはっと我に返った。

「え、うん、いや…」

「もう、せっかく二人きりなのに! なんかこう、幼なじみらしい会話、あるんじゃないの!?」

 困った顔で困ったことを言う由依に、孝友は言葉を返せなかった。

 幼なじみ。あの翼葉樹の次に、付き合いの長い由依。

 だが今の孝友は、幼なじみという、近しい存在を表す言葉に対して抵抗を感じていた。

 たしかに由依とは幼稚園からの付き合いで、小学校も同じだった。小学校三年生の一年間、親の都合で他の土地へ引っ越したことがあったが、そのときは手紙で時々やり取りもした。

が、中学校の三年間、孝友は再びこの地を離れていた。由依には、理由も、そして別れも告げずに。

こちらに帰ってきて高校へ入学した時、今住んでいる家ではなく少し遠い所から通っていたのだが、由依に会った時、それは驚いたものだった。

彼女は、理由も聞かずに笑いかけてくれた。これも、焼きついて脳のメモリーに保存されている。どれよりも、大切に。

だから胸が痛かった。そんな優しい彼女に嘘をついている。いや、正確には真実を言っていない。

幼なじみといって、由依と仲良く話をする資格が自分にあるのか、そう思う。

だが、今は何も言えない。いつか言いたくなったとしても、今は言えない。

覚えていないから。あの日のことを。あの満月が輝く、世界に自分がいることを深く感動させてくれるほど美しさを持っていたはずの、あの日の光景を。

由依が変わったと思うのは、小学校の時と比べてで、確かに歳月は人を変えるのかもしれない。自分は変わっただろうか。由依があのとき孝友に言ったように、自分は変わっているのか。そしてそれは喜ぶべき変化か、それとも―――。

「もう、たぁかとぉーーー‼」

「わぁっ!」

 また考えにふける孝友に、遂に由依が業を煮やして叫んだ。その握られた両拳は、空を貫こうとするかのように高く突き挙げられている。そして、その指が孝友の耳に急接近、捕獲して、魚釣りの釣竿のように上に引っ張り上げた。

「どーして、無視すんの! さっきから、言ってんのにぃ!」

「いたたたた、な、何を?」

 痛がりながらも冷静な口調で返す孝友に、由依は溜息をついて、その手を放した。

「もう! だからね…。はぁ。太陽が眩しいねって言ったの」

 恐らくそれは嘘であろうと孝友は思ったが、これ以上機嫌を損ねることへの危険性を鑑みて、とりあえず返事をする。

「うん、眩しいね」

 ばっ…ん!

「はいたぁ‼」

 由依の掌が、孝友の背中にしたたか打ちつけられた。いわゆる、もみじというやつだ。危険性を回避することは残念ながらできなかった。

「っとにもう! あーあ、家が見えてきたじゃない。どうすんの?」

「どうするって、帰るしかないんじゃ…?」

 その目に炎が宿った、ような気がした。孝友は、少し死を予感して、顔を引きつらせる。

「ちょっと優しくしたらつけあがりおって~~!」

「や、優しかったっけ~…!?」

「むきーー‼」

 そんな自分から減らず口が出るのは、孝友にとって不思議でならなかった。他の人とは、この十分の一でも話せるかどうか。

「わああぁぁ! 危ない、危ない!」

 背負いカバンを肩掛けから掴まれて振り回される。少しでも気を抜けば、足が地面から離れてしまいそうだった。

「うりうりうりうり~~‼」

 楽しくなくもない孝友だったが、いくらパワフルな由依でも、男一人をぶんぶん振り回すほどの力はないだろう。もし足が地面から離れたら…。

 孝友は、急激に心の焦りを増大させて、それが、自分でも望まぬ動きを体に伝えてしまった。

「あっ!」

「きゃあ!」

 足が完全に地面から離れた。孝友の悪い予想通り、孝友のせいなのだが、由依はそれを支えきれず、孝友の体重に引っ張られるように前へつんのめった。

 ドコ。

「がはっ‼」

 孝友は、いつの間にか地面に倒れ伏し、そして、自分の胸に何か強烈な衝撃を覚えた。梅干を食べたような渋い顔でそちらを見ると、深々と刺さった由依の肘が見えた。

「だ、大丈夫、孝友!?」

 自分が覆い被さったような形になって、更に孝友の叫びが聞こえたので、由依がとっさに起き上がろうとする。が、

「い、いたたたた!」

 心配してくれるのはいいのだが、由依は肘を動かさずに、というかむしろそこに全体重を乗せて起き上がろうとするので、その痛みに飛び出そうなほど目が見開かれる。

「あぁっ」

 ようやく気付いた由依が、そのまま転がって横に避けた。しかし、強烈な胸の痛みは当分治りそうにない。

「……ごめん」

「はは…、い、いいよ」

 頭が多少痛むのは、コンクリートに寝転がっているからだ。二人は、小さな大の字でそこに横たわっている。

「車、来たら危ないよ?」

「車なんて来ないわよ、こんな所」

 確かに、もともと車通りが少ないうえに、今の時間帯は車をこの辺りで使う人など滅多にいない。住人の経験知識だ。

 空が青かった。雲は留まることなく動いているが、孝友はそれらのどの欠片も追おうとはしなかった。痛み出した頭とコンクリの間に手を差し入れて、雄が、もうすぐ満月の夜が来ると言っていたのを漠然と思い出す。視界の隅にある太陽ではなく、雲ではなく、ただ空を見つめた。月は、まだ出ない。

「ねぇ、知ってる?」

 しばらくの沈黙の後、由依が突然口を開いた。

「……? 何を?」

 空をまっすぐ見つめている由依を、孝友は少し首を曲げてみた。コンクリに流れている由依の髪は光るように奇麗で、同じこの世の存在とは思えなかった。

「最近、夜に怪物が出るんだってぇ!」

 その口調は、孝友を怖がらせたいという意思が見え隠れしていたが、顔が空を向いたまま動いていないので、孝友は何の感慨も得なかった。それよりも、由依は別の何かを隠そうとしてしているのかもしれない、と孝友は目を細めた。掴みようもない何か。由依が孝友に伝えたくて、そして、伝わって欲しくないと同時に思っているもの。

 怪物騒ぎは、ここ三,四年で何度かマスコミに取り上げられていた。だが、いまや全世界を覆う巨大なシステムも、これに関してはなぜか消極的なところがあった。

 大きく取り上げられたと思ったら、次の日には、影も形もテレビ内の言葉の端にも現れない。そんな感じだった。それが、さすがに何度もあると、人々もなんとなくだが危険は感じるものの、それだけだった。なにか危険なものが夜に出没する。実体のないものに怯えるような、おとなしい社会ではない今の人々は、結局、何の対策も講じず、事実を知ることもなく過ごしている。

 そしてその騒ぎの起こりは、実は約五年前に遡ることを、孝友は知っていた。

 それに考え至って、孝友ははっとした。

 由依が、暗にその言葉に示しているもの。

 確かにこの辺りの人間なら、それが五年前から続いていることだと、感づいているかもしれないと思った。

 突然の別れの理由。それを話してくれないのか。そう言っているのだろうか。

 拒否されるのが怖くて、逃げ道を作っておきたくて、こちらを見ないのだろうか。空を、見ているのだろうか。

「え、でも…。あれは、噂でしょ?」

 静かに答えた。ピクリと由依の顔が動いた気がしたが、ゆっくりとこちらに顔を向けたので、詳しいことは考えられなかった。

「わあ、孝友ぉ、恐いんじゃないのぉ?」

 こちらを向いた由依の笑顔が、胸に痛い。そして、由依のその笑顔も、いつものものではない気がした。どこか、痛んでいるような。どこか、模型のような…。

「そ、そんなことないよ」

「ウソ、ウソ。顔に書いてあるよ!」

「ほ、ほんとに恐くないって」

 体を起こす。どうだか、と言いながら由依も体を起こし、立ち上がる。

 体の埃を払う由依を見て、孝友も立ち上がった。

 二人はそのまま、どちらからともなしに歩き出す。孝友は、由依に話しかけるかどうか迷った。しかし話題が見つからない。

 なんとなく俯き、何となく遠くを見る。

 気弱な少年は、幼馴染との気まずい雰囲気に、対抗する手段を持っていないようだった。


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