プロローグ
もう、五年になるのか。
あの日の月は、それまでに見た夜の月の中で一番奇麗だったんだと思う。
だが、思い出せない。あの日のことを、俺は未だに思い出せない。
僕は、思い出したいのに。最後に見た、お母さんと幸樹の顔を。
そして、俺の人生を決めた、あの日のことを―――。
夜。
日付が変わって間もない時間。それでも、眼前に広がる光景には、様々な明かりが乱舞し、昼間より少ないはずの車の走る音が大きく感じられる。少し高い建物から漏れる光は不気味で、車のクラクションのような不愉快な音も、そんな大きいものが立てているのではないかと思える。明るさにのみに目を奪われて、それらが真の闇を作っていることなど到底気付かず、命を持たないものばかりが大きく見える。
欠けた月が雲に隠されても、誰も気付く者はいない。
そんな町の明かりを下から受けながら、騒がしい闇を行く影があった。
一人の少年。
その少年は、おおよそ現実とはかけ離れた身体能力で、町の光を避けるように、一般住宅の屋根の上を軽快に飛び移っていく。その顔は険しく、どこか攻撃的な雰囲気を漂わせている。
少年は、様々な形の屋根から屋根へと、着地するとすぐにまた跳び立つ。優に、十メートルは跳躍しているだろう。
と、夜の喧騒に混じって、どこかで悲鳴が聞こえた。
少年は足を止め、目を見開いた。そしてその声が町から離れた所から聞こえたのを、ほっとするかのように胸を撫で下ろすと、すぐにまた跳んだ。
きらりと、何かが少年の脇で光る。それは一振りの剣。
剣を持つことは、銃刀法違反として犯罪に類する。にも関わらず鞘にも収めず手に持っているそれは、少年が跳び、微妙に角度を変える度に町の明かりを反射して、鋭い光を放つ。
しかし、光を放つのはそれだけではなかった。
少年の瞳。対の瞳が、淡く青白く光る。放つというよりは、漏れ出しているという感じのその光は、少年に安らぎを与えるものだ。
剣を持つという罪を犯している彼は、しかし堂々とした態度だ。急いでいるように見えて、その体の動きからはどこか自信が表れている。
見えた、と少年は心の中で呟いた。
先ほどの目に痛いくらいの光の集団はすでに遠く、閑静な住宅街に達していた。
仕事帰りだろうか。一人の女性が、ハンドバックもそっちのけに、道の中央にへたり込んでいる。どうやら腰を抜かしているらしいが、体の力の抜きように比べて、その顔の力の入れようは凄まじい。奇麗に手入れしてある眉は醜く曲がり、その化粧の濃い頬はかなりの深さまで口の端を広げている。引きつっている、というほうが正しいだろうか。その口は小刻みに震え、地面に付いた手は、何かを探るように意味もなく動いている。
「大丈夫か?」
その隣に降り立った少年は、女性の方には向かずに無表情に尋ねた。
「あ、ああああ…」
女性は、満足に言葉も発せぬまま、ただ音を出しているだけのように思えた。
街灯が、少年たちの前を小さく照らしていた。
その光の円の中に、何かが形を現した。
それは、異形の生物。生きて動いている、という部分で生物だが、おおよそこの星で生を同じくしているとは信じがたいもの。
ただ、形は人だった。シルエットだけならば、体格のいい人間と間違えるだろう。
しかし、耳はない。鼻もない。目もない。口もない。あるとしても、とても機能しそうにない出来損ないの器官。あえて言うならば、その耳は小さく形が崩れ、その鼻は穴がふさがってただの突起。その口は、半分ほどが縫い付けられたように不自由そうだ。だがその目だけは、位置もおかしく形も崩れてはいるが、光を放っていた。生きていると、それだけが言っているようだった。
「こいつも…、違う…」
悔しそうに吐き捨てる少年の言葉は、何度もこのような状況に出くわしたことを表していた。その剣を握る拳が、力を象徴するように震えている。
「見られてしまったようだしな…。さっさと終わらせる」
どこかあきらめたような口調で言い、剣を持ち上げる少年。瞬間。一足飛びに、その物体に斬り付ける。
向こうが、太く短い右腕を振って応戦しようとした。その左腕は、極端に細く長いが、中ほどが筋状になっている。腐れて、垂れ下がっているのだ。
ぞんっ!
少年の瞳が、今度は光を吐き出した。そしてそれが波のように引いた時、その不恰好な腕が切り飛んでいた。返す刃がその胴に叩きつけられる。再び、少年の瞳に淡い青が走る。
赤い液体を少し流すと、胴を半ばまで切断されたそれは、ふらりとくず折れた。小さく聞こえたような気がする悲鳴のようなものは、頭から消し去る。考えたくも、ないことだ。
「ヒッ…!?」
腰が抜けたままの女性が、自分の顔に飛び散った液体の感触に、悲鳴を上げる。
「夜は気を付けるんだな。それと、ここにしばらく留まってもらう。すぐに助けが来る」
助けは少年であって、女性はすでに助かっているのだが、少年に詳しく説明するつもりはないらしい。
剣を振ってまとわり付いた異物を払うと、少年は跳び上がる。女性が、ぽかんと口を開けた。夢のような出来事に感じているに違いない。
街灯の小麦色の光の中に、束の間、少年の瞳の青が際立った。
「やばいな、宿題やってねえよ。ま、雄がなんとかしてくれるだろう」
少年の呟きは、女性の深刻さと、その場に残された異様な骸とは全くそぐわない内容だったが、それも闇がすぐに霧散させる。月が、雲間から顔を見せた。
見下ろすように照らす月の弱々しい明かりと、町から遠ざかる少年の剣と瞳とが、ただ光を湛えていた。




