ある夏の自動販売機
暗闇を切り裂くように車のヘッドライトが駆け抜ける。お盆休みを利用して久しぶりに地元に帰省した私は今、乗り慣れた自家用車の運転席にいる。別に急いではないのだが、やっぱり早く帰りたい。家に帰ってたらまずは中途半端にしたままの書類の整理をしないといけない。あとそれに――。
「はぁ、今仕事の事をあれこれ考えるのは止めよう。今は運転に集中しよう」
そう一言呟くと私は改めてハンドルを強く握った。
車は高速道路を順調に進む。このままのペースで行けば予定していた時間帯より速く自宅に帰れそうだ。
そう思った時だった。
『この先三十キロ渋滞』と書かれた電工掲示板がピカピカ光っている。
「えっ――。せっかくここまで順調に進んでたのに」
お盆の帰宅ラッシュという事態はある程度予測はできたのだが、できればこの渋滞の列に参加したくはない。
「下道を通るか……」
そう決めた俺は高速道路を降りた。
***
何回か通ったことのある旧道ではあるが、やはり昼間通るのと夜中に通るのとでは状況がまるで違う。暗闇が支配する空間を見てるとまるで違う世界に来たかのようだ。
――カチャ。
雰囲気を変えるためにラジオをつけてみる。スピーカーからは何ともご機嫌な曲が流れてきた。はて、何の曲だろう。どこかで聴いたことがあるような……。ダメだ思い出せない。大音量で聴けば聴くほど気になってしまうのでボリュームを少し下げた。
――その時だ。
「キキタイナ。オオキナオトデ……」
「えっ!?」
声の主を探して後部座席を確認する。もちろんそこには誰もいない。
「ふぅ……。疲れてるのか。まさか幻聴が聴こえてくるなんて」
頬っぺたを叩きながら私はそう呟く。そうだ。コーヒーでも飲もう。こう言うときはそれが一番だ。しかし……。こんな道に自動販売機なんてあるのだろうか。
そう思った時だった。
車のヘッドライトが道端の草に半ば埋もれたような看板を照らす。その看板には『休憩所』と書かれていた。
「おっラッキー!」
まさかこんな寂れた旧道沿いに休憩所があるなんて。偶然の発見に心から感謝しながらも私はハンドルを右に切った。
***
停止線が見えないようなボロボロの駐車場に車を停めて外に出てみる。その時、夏場とは思えないような冷たい風が頬を過る。
「なんか……。寒いな。まだ夏なのに」
この先に何かあるのだろうか。いや、まさかな……。そんな事を考えながら私は一歩一歩前へと進んだ。
まるで自動販売機に群がる羽虫のように私はその元へと向かう。古そうな自動販売機ではあるが、どうやらまだ稼働中らしい。
――カチャン!
百円玉を勢いよく投入口へ滑り込ませる。さて、どれを買おうかと思った時だった。
「――。なんだこれ?」
『ふ・珈琲』と書かれた見慣れないジュースがある。どうやら珈琲の一種らしいのだが……。
「よし、これにしようかな」
そう決めた私は『ふ・珈琲』を買った。
車に戻り息抜きに先ほど買った『ふ・珈琲』のフタをあける。匂いは普通のコーヒーみたいだが……。それにしても『ふ』ってなんだ。なんの『ふ』だろうか?
「まぁ、いいか。飲むか」
買ったのに飲まないんじゃあ買った意味がない。そう思い直した私はその珈琲を一気に飲んだ。
うむ、とても刺激的な味だ。ブラックコーヒーのようでなんだか違う。なんていうか独創的で不思議な味だ。その時、『ふ』の意味がわかった。『ふ』は『ふしぎ』を意味しているのだ!
***
「ふぅ――」
一呼吸した後、車のエンジンをつける。そして再び走ろうとした時だった。
「いや、待てよ。ガソリンあるっけ……。それにタイヤの空気圧はどうだろう。あとバッテリーも――」
急にたくさんの不安が脳裏を過る。ダメだ。こんな気持ちじゃあ再び車を走らすことなんてできない。
「はぁはぁ」
ダメだ。考え出すとキリがない。そもそも私は帰省する前、マンションの部屋の鍵を閉めたのだろうか?
いや、そもそも冷房は切ったのだろうか……。
それに、冷房のスイッチは……。
ダメだダメだ。不安だ。何もかもが不安だ。行こう。とりあえず車を発車させよう。一刻も早く自宅に帰ろう!
ブルン――。キキキキキッ――。
私は震える手を必死に動かしてハンドルを右へ切った。
***
――パシャ。――パシャ。
カメラのシャッター音が辺り一面に響き渡る。夏の暑さでシャツに汗が滲む
「――――。またここで事故ですか」
「えぇ、刑事さん。これで今年に入って四件目です」
「うむ……。運転していた人は?」
「はい。軽症なのですが、ある言葉を唱えているのです」
「ある言葉とは――?」
「不安だ不安だ」と……。
「不安か……」
それにしてもどうしてこんな緩かなカーブでハンドル操作を誤るのだろう。旧道とはいえ道路のアスファルトがボロボロというわけでもない。
「ところで所持品は鑑識に渡ったのか?」
「はい。一応、事件の可能性もあるからと……」
「そうか。わかった」
謎が謎を呼ぶ。いったいこの緩やかなカーブのどこに危険が潜んでいるのだろうか。いや、そもそもこの事案に事件性はあるのだろうか――?
――トットットッ……。
私は事故現場に何か痕跡が残ってないか草むらに入る。
「ん――?」
足に何かがある。拾い上げるとどうやら空き缶のようだ。不思議とまだ真新しい。
「ふ・珈琲かぁ……」
見たことのないコーヒーだ。でも……。とても事故の原因に繋がるものとは思えない。そう考えた私は空き缶を捨てた。
終。