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大学近くの2DK、バストイレ別の角部屋。農地8割民家2割のこの地域でオートロックにピッキング防止錠は、今日みたいに買い物帰りで荷物が多かったりすると厄介だけど、教育熱心で過保護気味の親――例えば私の同居人の親みたいな人種には好評だ。シェアルームで自活すると言ったらいい顔はしなかったらしいから、なんやかんやで許可が下りたときは本当に安心した。10万近い家賃を学生一人で払うというのは非現実的でしょう。
光熱費と家賃は折半、食費は各自。わたしはいままでの寮生活で自炊だってしてきたし、他の家事にも一応心得はある。問題は同居人、吏沙のほうだった。ガス台の使い方はともかく、にんじんをピーラーでむくことを、はたちの女の子に教えるなんて想定外。その点は彼女にとってもメリットがあったはずで、持ちつ持たれつの良好な関係だと思う。
時々、ちょっと私のほうが得をしているような気もするけれど。それは苦悩と背中合わせでプラマイゼロ、菓子や料理を貢いで一方的に清算する。一方通行の関係にはお似合いだ。
狭い玄関にはすでに彼女の靴があった。
「ただいま、」
返答のない挨拶が空しく暗い部屋に消える。不在。とりあえず鞄を置いて、買い物袋の中身を冷蔵庫に避難させよう。特に氷でできたスイカに、夏の熱気は酷だ。
アイスのほかに葉物やら肉やらを定位置に放り込みつつ人工的な冷気を堪能する。本当はずっとこうしていたいが電気代も怖い。自制心を働かせ冷蔵庫を離れ、中途半端な曲げ具合だった背骨をのばすと、どすん、と重たい音が響いた。違う、もちろんわたしじゃない。音がしたのはリビングの向こうの部屋だったはず。
「いたんだ、吏沙。……何かあったの?」
「大丈夫、なんでもないの」
「なんでもないって、そんな。とにかく水分、麦茶飲みなよ」
吏沙の部屋に電気が点いたと思ったら、部屋の主が床にへたりこんでいた。とりあえず朝イチで仕込んでおいた麦茶に氷を入れて、ついでにアイスノンも出す。声はカラオケで徹夜した翌日みたいに掠れていたし、目が腫れているようだったから。
素直に受け取ってくれてほっとした。ひとりっこゆえか、吏沙はいつも遠慮がちな、一歩引いている感じがするのだ。本当はもっとつっこんで事情を聞きたいし、できることがあるのなら言ってほしい。でもはっきり拒絶されることは怖いし、安定した距離を保つのに強引さは害にしかならない。
「今日はご飯作るから、一緒に食べよう。できたら呼ぶから」
「あ、ありがとう。あのね、」
「うん?」
「その、ゴーヤ、沢山貰ったの。食べ方がよくわからなくて、生で食べたら凄く苦かった」
「生? それは早まったね。種のところは取った?」
「種だけはとったの。でも白いふわふわしたところが苦くて」
食べ方はくれた人に聞いただけで、調べたわけではないらしい。あれを生――塩もみとか加工をしないという意味で食する勇気は尊敬に値する。わたしを見て吏沙は居心地が悪そうにした。
「きゅうりみたいな成り方だったし、同じような食べ方でいけるかと思って。苦いのは知ってたんだけど、まるのまま食べなきゃいけない気がしたの」
世間知らずなはずの彼女。苗から見たことのあるような口調で、ふと思い当たることがあった。
「もしかしてそれ、くれたのは佐野先生?」
東洋哲学担当、年齢不詳のメガネをかけた男性講師を思い浮かべる。柔和な物腰と少し飛んでる講義が、一部では有名だ。学内の独身寮住まいで、「今年はエアコンが壊れたからグリーンカーテンで乗り切る」と豪語していた、らしい。
何も言わずに視線を逸らした彼女が、彼の授業を頻繁に取っていることも、私は知っている。組んだ指先の短い爪、玄関に並ぶスニーカー。今年になって家事と、たぶん土いじりをするようになった吏沙。
いつもばかがつくほど正直な吏沙が、それを否定しない。欠かさず手入れしている細い指先。頭で考えるより先に、手を取っていた。小さい切り傷に少しだけ血が滲んでいる。
「包丁?」
「わからないの……少し痛いと思ったら、できてた」
冷蔵庫の上の救急箱を漁って取り出した極小サイズの絆創膏を、跪いて傷口――薬指の先に巻いた。唇をつけたのはほとんど衝動的。
「早く治りますように」
我ながら言い訳じみたお祈り。クッションの上、律儀に正座している彼女の真っ赤な顔と、かすれてほとんど聞こえない「ありがとう」が嬉しくて、指先は繋いだまま。
たぶんその傷のように小さなことを、わたしはずっと気にしていた。苦いものだって楽しめるのだ、例えばゴーヤのように。