序幕
《また、神は黄昏れた》
狂信者は言った。時は満ちたと。
――――彼女は概ね同意した。
無惨に重なる瓦礫に激しく打ち付ける痛いまでの豪雨は、先刻まで絶え間なく響き渡っていた阿鼻叫喚を引き継いで、今やこの広大な世界で唯一の断続音になっていた。
一角に丘を築く灰色の岩石の隙間からは、黒ずみ煤けた腕が、どこかの神に救いを求めるように天へ伸び、空を切る事もできず、ただ朽ち果てるのを待つ。歪な白銀の塊の上には、かつて人だった何かが横たわり、命を以て滴る雨に彩りを与えていた。
終わり。
世界の終焉。
少女はその日、そこにいた。
あどけなさの残る顔は煤に汚れ、カタストロフィーの果てを映す瞳は焦点を失って久しい。彼女の足元を流れる雨水は、幾筋もの朱色を伴い、本来の機能を完膚無きまでに破壊された生活雑貨の残骸らを洗っていた。
全てが、わからなかった。
永遠に続くはずだった平穏を奪い、世界を地獄へと叩き落とした存在の正体の、しかし片鱗すら見えない。いや、末端は嫌でも目にしてきた。その断片が、俯瞰を許さないのだ。あらゆる事象が彼女の理解の範疇を越えていた。
轟音。
咆哮。
銃声。
爆音。
絶叫。
地は震え、
海は狂い、
雲は轟き、
空は堕ちる。
業火は万物を焼き、
汚濁は万物を呑み込み、
灼熱は万物を蹂躙し、
極寒は万物を悉く奪い、
神の使いは人を喰らい、
化け物は人を喰らい、
人は人を喰らい、
総てが終わろうとする。
破滅の中を歩く彼女の足取りは、あまりにも力無い。
家族や友人の安否には、一種の絶対的な諦観が支配していた。〝これ〟は人ごときの足掻きを許さない。生有る者は皆、平等に終わりを迎える。理由はわからない。考えるだけ徒労だった。彼女という存在は、世界の死の全てを悟るには余りにも小さい。
――だけど、せめて、
それは、骸と紙一重の彼女の肉体を駆り立てる原動力。
――絶望の根源を、知りたいと。
「ああ……」
グランド・ゼロ。
全ての憎悪が集まる所。
そこには、女神がいた。
美しすぎるその女神は破壊を嘆き、涙を流す。その涙は、大気を攪乱し、世界を壊し、そして女神は涙を流す。彼女の周囲には、慈しみの一片すら散見できず、感情は深い闇に呑み込まれ、奪われた命は弔われる事なく、濁流に浚われていく。
少女は、見惚れていた。
文字通りの、女神だった。
身体の節々を蝕む痛みも、視界を歪ませる目眩も、何もかもが払拭されたかの如く感ずる。空を覆うはずの暗雲は、しかし彼女の周囲だけ振り払われ、燦々と注ぐ光は女神を照らし出し、雑音と同じように理由など無く歌われる高らかな賛歌を彼女は纏っていて、必然として、彼女は涙した。涙せずにはいられなかった。蒼空に鎮座し、眩き光を放ち、自ら光となる彼女の神々しさは、少女のあらゆる感覚を超越していた。
思えてしまうのだ。
彼女になら、世界を滅ぼされても構わないと。
少女はようやく理解した。
女神の破壊が、即ち慈悲だと。
だって、彼女はあんなにも、涙を流しているではないか。
――しかし、歯車は狂い出す。
天を舞う女神は、世界の憎悪に心を握り締められたかのように、苦しみ悶え出した。同時に、彼女を讃える賛歌は沈黙し、雲は彼女に影を落し、放たれる光は勢力を一層増大させ――
そして、
そして、
そうして。
〝彼女〟はこの世に生を賜った。
いや、きっと、それは。
だから、
「〝彼女達〟は、生き続けた」
「女神の愛に殉教し、愛が無くなった白紙の世界で」
「〝彼女達〟は生き続けた」
「生き続けた」
「生き続けた」
「女神の愛を、体現すべく」
「生き続けた」
「ただ、その愛は、吐き気を催すほどのエゴだった」