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―――目の前に映し出されたのは、あまりに残酷で幸福な他人の光景だった。
背を追う声も伸ばされる手も、何もかも振り切って自分の部屋へと飛び込みカギをかけた。
ただでさえずる長いローブと目深にまでかぶさるフードをかぶってしか部屋の外に出ない私の顔を、今更見ようとする人間などいるとも思えない。思えないが、しかしそれでもどうしても、今は誰とも顔をあわせたくはなかった。誰の顔も見たくはなかった。誰の声も聞きたくなかった。自分以外の誰も、見たくなかった。存在を感じることすら嫌だった。
自分のめちゃくちゃになった顔を、見られたくなかった。
自分で自分が信じられなくなるほど、動転した私自身の顔など私だって絶対、見たくないのに。
「……っ、く、」
部屋に備え付けられた、自分のベッドへと倒れ込む。布団の中へと潜り込んでぎゅっとかたく目をつぶった。
先ほど目にした光景が、ただの幻影でしかないと信じられたらどんなにいいだろう。どこかの誰かが呼びだした、根も葉もないただの夢であると断言できればどんなにか、私は仮初にでも幸福になれるだろう。
けれどそれは、決してありえないことだと魔術師としての私の感覚は告げている。あれは厳然たる魔法であると、事実を映しだす魔法であると、そう私は「あれ」に対する分析を既に終えてしまっている。
あれは私が勇者のことを声に出して呼んだ、その声音に名前に感情に、思考に感応することで無意識に発動した私自身の魔法だ。
今までは一度も、なかったことだ。だがそれを起こしたのは自分なのだと、私は知っていた。あの場にあったのは私の、生まれたときより親しんできた、親しまざるを得なかった私の魔法の気配だった。
そして、少しだけ頭を冷やして考えてみれば。
かつては不可能であったことが「今」は可能である理由もまた、割合簡単に私には想像がついてしまった。
「なんて、こと」
思わず呟く声が震える。変化の起点は九日前だ、おそらくは。なぜなら九日前、彼が死んだからだ。
私の最後の希望、私の一部を託され亡命していった彼が、とうとうこの国から放たれた刺客により亡き者とされてしまったからだ。
その絶望と虚無により、私の力は九日前、それまでよりもいや増した。増したことを、感じていた。感じてしまえる残酷を、今更大々的に嘆く気にすらももはや、なれなかった。
今までだって、ずっとそうで。誰かを何かを失うたびに、それまでは不可能であったはずの事柄を私は痛みと虚脱感と喪失感とに全身苛まれながら乗り越えた。
そして今回の、増幅は。
俄かには信じられないような事象を私に突き付け、更に更に絶望しろと負の感情に苛まれろと、そうとでも言うかのようにあんな魔法を無意識で私に発動させる結果を、もたらした。
「…あ、」
言葉にならない惨めな声が、喉をついてこぼれ出た。
足りない指がぎゅっと、強くシーツを掴んで皺にした。足の指が全て落ちていることを、今更ながらに苦痛に思った。なぜなら足を丸められない。己の身体を存在を、縮められるような気がまるでしない。
それを、最初に目にしたとき。視界に景色に、だぶるようにして映るそれが何であるのかを明確に理解することは私には、できなかった。
ただ、この場所と同じく夜であろうそこはひどく眩く、明るかった。一体何をどうすればそんなに夜を明るくできるのだろうと、心底から純粋に不思議に思ってしまったほどの明るさだった。
映り込んだのはきらきらと、火のようには揺らめかない不思議な明りがあちこちに大量にひしめいている光景。その中に存在する夜は、分類や楽器すら分からない音楽と雑踏と雑然とした人々の、或いはそれ以外の声に満ちて、ひどくにぎやかでそのとき、私が実際に身を置いていた静寂とは驚くほどに程遠かった。
あまりに己の知るものとはちがう、違うに過ぎる光景に半ば呆然としていると。
その中で、…ほんとうにとても楽しそうに、からからと快活に笑っている一人の青年の姿が刹那、目に入った。
「…ああ、」
零れるのは嗚咽めいた情けのない声。ああ、あなたが勇者殿かと。すとんと何かがそのときすんなり、私の中には落ちてぴたりとどこかへ、はまってしまった。
そこにいたのは、朗々と明るい表情で笑うひとりの、どこにでもいるようなふつうの男の子だった。
集団の中にいても決して埋もれることのない、強い意思の光と楽しそうな笑顔が、ひどく印象に残る子だった。まだきっと私と、…いや、姫君とそう年は変わらないであろう、どこかまだ幼さの残るあどけない青年だった。少年と呼んでもなにも、差支えはなさそうだった。
ゆらりと揺れて見えるのは、たくさんの音と光に満ちた空間の中で彼とともに在るのは、見たこともない不思議な黒い衣を纏った、数人の青年たちだった。そして彼らとは別の藍色の衣を纏う、幾人かの少女たちでもあった。
めいめいその手にしているのは、おそらくはお菓子か何かだろうか。
お互い手に持つそれの中身を交換してはその味に笑い、ふざけて互いにじゃれあい、声をたてて。冗談めいて少し怒って見せたり拗ねて見せたり、けれど結局最後には、みんなで大口をあけて本当に、楽しそうに何のてらいもなく嘘もなく、ひどく自然に当然のように笑っている。
なんて楽しそうなんだろう、と思った。なんて幸せそうなんだろう、いい仲間たちと、楽しく自分の、彼個人としての何の変哲もない日々をきっと、彼は送っているのだろうと思った。
改めてその光景をありありと思い描いた瞬間、不意にぐにゃりと私の目の前はゆがんだ。
訳が分からずに右目を拭ってみると、皮膚にするりと濡れた感触が伝わってきて驚いて、私は目を見開いた。
「…わたしは、」
布団にもぐったまま発するくぐもった声さえ、明らかな涙に滲んでいるのが自分で分かる。
どうして泣いているのかなど、もはや私に知りようもなかった。分からなかった。勇者は今が幸せなのだ。この世界で掴む可能性のある「幸福」など何一つなくとも、彼は既に今の時点で、十分すぎるほどに幸せなのだ。
あんなに幸せそうな人から、私は明日、世界を奪う。
それはあまりに残酷で、本当にこの世界のことしか考えてなどいない卑劣な行為なのだと。「彼」という異世界の個の存在に対し、あまりにも最低な下郎の振る舞いであるのだと。
あの景色を見たことで、私は確信、して、しまった。
「…ああ、あ」
右目がひどく、疼いて熱い。左のくぼみがじくじくと、たった今何かに刺されたかのように抉られるように痛い。
ぼろぼろと涙は流れて落ちて、しかし私以外の誰にもその存在を知られることはないままシーツに吸われて消えていく。押し殺した泣き喚きの声もくぐもった叫びも、誰にも聞こえはしない、誰にも聞かせはしない、…この嘆きを、私以外の誰が理解できようとも思わない。
なぜならこの世界は勇者を、あまりに当然のように今まで召喚しすぎてきた。
勇者が「人」であることを、ただ異世界に住んでいるだけの人間、一個人であることなど考えているようで何も考えないまま。ずっと昔から私たちの、この世界の存続のためだけに幾度も幾度も幾度も、信じられない数を召喚してきた。
その結果でながらえた世界? すべてを終えた後に勇者が得た名声、地位、栄誉? そんなものは知らない、何の意味もない。
ただ厳然たる最低の事実は、私が明日彼を召喚するということは彼という存在をその人生すべてを破壊し、きっとあると信じて疑っていないはずの未来を破滅させ彼の築いてきた過去すべてを冒涜するということだ。彼が望むと望むまいと、その意思になどなんの関係もなく、彼をこの世界を救うためのただ一つの道具としてしまうという、こと。
ああ、召喚とはほんとうに何という傲慢なのだろう。何という「彼」という存在に対するそれは侮辱であろう、蹂躙であるのだろう。
そして私という存在の、召喚のためだけに幾人もの命を吸うことを余儀なくされた存在の。
まったくもって何という、無意味であるうえ、無様で憎しみしか受けられるはずもない、どこにも救いなど存在しない現実でこれは、あることか。
「うう、…っう…!!」
生まれたときから定められた、それは義務であり宿命だった。
決して逃れられなどしない、鎖でつながれ穿たれた、勇者の召喚は私の楔であった。
それで幸福になるひとを、守られる国を世界を知っているからこそ、そしてこれから逃げようとしたところで、死すら甘美に響くほどの地獄しか待っていないことを身にしみて分かってしまっているからこそ。私は明日の召喚にも、ただひた静かに臨もうとしていた。世界に望まれる勇者を喚び、その勇者の活躍を魔王を倒し平和をもたらす異世界の者の世界への凱旋を、元来そうあるべきこととして受け容れようとしていた。
けれど、もう私には分かってしまった。私が明日行おうとしているのは、かつての私とまったく同じ類の苦しみを勇者へ強制することなのだ。
今己の世界で仲間とともに、何の不足もなく生活している勇者を、問答など無用に修羅へと放り込むこととまったく同義なのだ。
「ああ、あ…ああああ…!!」
ああ、ああ、知りたくなどなかった。本来なら知るはずすらなかった。なぜなら私は醜い喚び姫の影。光を受ける権利を与えられるのはいつもあの光の姫君一人だけで、私には永久に、勇者が私を私と、一個人と意識することさえありえるはずもなかった。
死にたいと、随分久方ぶりに強く強く思った。九日前に彼が死んだ、その事実を感じてしまった時よりずっと強く、己という存在の消滅を希った。
しかし例え手首を切り落とそうとこの首を引き裂こうとしようと、はるか高い塔の天辺よりこの身体を落下させようと幾千もの刃で身体をずたずたに引き裂こうとしようと、その何もかもがただ猛烈な痛みだけを私に与え、その先の死は決して与えてくれぬただの苦行でしかないことを私は事実として知ってしまっている。けれどそれでも死にたかった。私という、術を発動させさえすれば「彼」の召喚を絶対に成功させてしまう存在を、この世界から完全に消し去ってしまいたかった。
もうこれ以上、誰かの生命すべてを背負うのは嫌だった。私を理由にその生命を捻じ曲げられ、あるはずだった未来を踏みにじられあまつさえその未来そのものすら失う光景など見たくなかった。
あの何も知らない無邪気な顔を、見も知らぬこの世界の犠牲としてしまう事実におぞましい吐き気を覚えた。きっとあの手は何かを殺す経験どころか、まともに剣を握ったことすらほとんどないに違いない。彼の目があまりにきれいだったのは、きっと守られるべき存在として、保護をつかさどる諸存在によってきちんと彼が個人としていままで守られ続けてきたからだ。
そんな保護から、祝福から、私は彼をこの世界の傲慢の結果として引き剥がすのか。力を望むから、この世界の力では足りないからと、ただそれだけの理由で彼という個人の尊厳をまったくの無碍にするのか。
ひどい頭痛がした。痛みは絶望に似ていた。
脈打つ左の虚が、ぞわぞわとひどくおぞましく疼いていた。呼吸が苦しかった。うまく呼吸をする方法を忘れてしまっていた。
涙は枯れる様子をおくびにも見せず、ただただ滂沱のごとく頬を伝い落ちてシーツを濡らしていった。苦痛だった。最後の最後に事実を目の当たりにして、生きることはもう、私にとってはただの苦痛以外の何でもなかった。彼だって死んでしまったのに。もう一緒にいようと、ともにあって欲しいと私に手を伸ばしてくれる存在などどこにも誰もいないのに。世界はその美しさを私にはただちらちらと見せびらかすだけで、決して私という存在を、その美しさの内側へ入れてはくれないのに。
私はどうすればいいのだろう。死ねないのに。儀式の行われる時刻には、確実にその場に在るようにとこの身体には厳格なる術式が幾重にも施されてしまっているのに。
勇者殿、ああ、勇者殿。私はあなたを喚びたくない。あなたが世界へ浮かべる笑顔を、壊したくなど絶対ない。
けれど世界は違うのだ。ひどく身勝手なこの世界は、人々はあなたをただ、人間ではなく勇者として強く強く欲している。
もうこれ以上、殺したくない、背負いたくない。生きることはあまりに私にとってただひたすらに苦しい。今も既にどうしようもなく苦しいだけなのに、この上あなたの存在したかもしれない未来と確かな過去とを奪って平気な顔をして生きろなど、…もう、私には無理だ。誰に何を言われようと何をその褒賞とされたとしても、それでも絶対に無理だ。不可能なのだ。
召喚の儀を、失敗させる? いいやそれもまた絶対に無理だ、儀式における私はただの魔力溜まりに過ぎない。全ての道筋を引きその轍に沿って魔力を満たし、異世界の勇者を呼ぶのは光の姫君なのだ。
…いや、本当に無理、なのか?
嘆きと涙の果てにそれを私が思いついたときには、とうに空は夜から昼へとその姿を色彩を完全に変えていた。