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 見上げるふたつの月は、希望と絶望の双方を(つかさど)り美しく空たかく輝く。





「…いい月夜だな」


 完全に酔いに呑まれ混沌と化した酒場を出、表通りを少しだけ外れた道を私は一人で歩いていた。

 小高い丘になっているここからは、すぐ下にひろがる王都がよく見晴らせた。そこに住む人々の実在を示すかのような明りは、静かにそれぞれの窓の内側に灯ってやわらかくそれぞれに揺れている。

 ざあ、とひとすじ、風が吹いた。やわらかくつめたくない、心地の良い夜風だった。

 天空を見上げれば満天の星。暑くも寒くもない夜は快適で、さらさらとやわらかく風に鳴る葉ずれの音は耳に優しかった。

 星たちの間に浮かぶのは、明日の夜、実に百年ぶりに完全にぴたりと重なる双つの月だ。どこか蒼めいたやわらかな白の光は、人を、家を、人々を、街を、国をそして世界をあえかに照らし出している。

 空には深い黒の夜帳と静かにきらめく星月、地上には人々がそこに生きる証としての数多の灯。

 それらすべてを一望できる、この場所は私のひそかな特等席だった。


「……分かっているよ」


 小さく、小さく苦笑する。ああそうだ、とっくの昔から私は知っている。知っている、身にしみて自分の肌で感じて、そうして分かってしまっている。

 ひどく残酷でありながら、それでもどこまでも世界はどうしても、あまりにも美しい。

 世界は美しい。この国は美しい。多くの命が息づき多くの人々が笑い、懸命にその手に明日を手にするため命の灯を燃やしている。

 市井の何を知ることもない、平凡なる人々の暮らしは慎ましやかな中でどこかあたたかく、時折はさきほどのように羽目を外してお互いに愉快に騒いで楽しがる。魔王の出現に対する勇者の召喚、そしてそれを行う優れた美しい喚び姫の存在は、抗いの力を持たぬ人々にとっての、確かな大きな希望であるのだろう。

 そして、そう。それはひどく己からは遠い、どこかお祭りじみた薄っぺらく軽薄な希望だ。

 彼らは決して、異世界の勇者の存在を切望したりすることはない。人々の大事は、己の存在、日常、家族や友人といった大切な存在、そして己という存在が活動する決して広くはない場所のことだ。

 彼らにとっての脅威とは、未だはるか遠い別の国で猛威を振るっているという魔王ではない。彼らの関心は常に、自己とそれに連なるものへの保身にある。

 大事なければ決して揺らがぬ地盤など持たないちいさな人々にとっては、干ばつや大水などといった自然災害や夜盗や賊といったものも結局、魔王と同列に存在する脅威だ。

 結局のところ、人々とは。

 自分とその周囲が守れるなら、己に害為す存在を排除してくれさえするなら。

 そうすることを可能にする力を持つのが異世界の人間であろうがこの世界の人間であろうが、老若男女も種族もなにもかも、何も問わずにまったく構ったりはしない、のだ。


「けれど、」


 その事実を私は、決して咎めようとは思わない。大事のみに目線を遣りすぎ、己が身に差し迫った脅威に気づくことなく自滅した愚者の話など掃いて捨てるほどある。

 大勢、趨勢、世の動き、流転。

 王とは国民からそれらすべてを一任され、彼らに小さな己のみを着眼させるためにその手に大権を持つ。そしてその大権を揺るがせぬための、他国とも対等に渡り合うための力として存在させ続けるための道具の一つが、私でありあの、光の姫君だ。

 もっともきっと彼女の方は、私のようなひねくれた、下手に口に出してしまえば国家反逆罪に問われるような思考などしてはいないだろうな、と思う。

 彼女にとっては明日はきっと、覚えてもいないような昔から周囲の人々に期待され続けた「義務」を果たすべき最初の日なのだ。華々しい光に満ちた、異世界の勇者との新たな、己に与えられたこの世界での使命の始まりなのだ。

 それは考えるだけでもあまりに眩い、光の道。私には決して与えられることなどない正道、誰の目にも美しく正しく祝福される、人を、国を、世界を救うものの歩み路だ。


「なあ、勇者殿」


 この国そして世界には、「異世界からの勇者」という、絶対的な救世主の存在がすべての人民の思考根底に既に根付いている。

 魔王に対する勇者は常に、喚び姫の呼びかけによってこの世界に顕現し須らく魔王という恐ろしい脅威を、この世界から排除し新たな素晴らしい未来を誰にも確約してくれた。

 それをいびつだと思う、私はきっと召喚者として喚び姫として完全に失格なのだろう、と思う。そんな思考が当然のようにつるりと滑り出てしまうからこそ、私は決して光にはならないのだとも思う。

 けれど己が歪でなければ、決して見えないものもある。視点が斜角にならなければ、決して気づかぬことがある。

 異界からの勇者など、ある一面から見てしまえば。

 あまりに私たち、この世界に住む者たちだけの都合によるひどく自分勝手で、横暴横柄に過ぎるものでしか、ないのだと。


「勇者殿。…私はまだあなたの顔どころか名前すらも知らないけれど、」


 あなたは今、あなたの世界で幸せに暮らしているのだろうか。

 己に何の不自由なく、不足のないやわらかくあたたかな日々を過ごしているのだろうか。

 あなたに家族はいるのだろうか。親しい友人、大切な人は。その手で守ろうと決めている場所は、己が属すると己の意思によって定めた場所は。

 そんなことを、この世界の人間は誰一人として決して考えようとはしない。なぜなら勇者は、勇者だから。この世界にとっての勇者とは、現れた瞬間からそこに勇者として勇者たるべくして始まるものでしかないから。

 彼或いは彼女がこの世界に喚ばれる前、果たして何を考え何をなし。

 未だ何をなさず何を目標とし、誰を愛し誰を憎み、どのようにして召喚のそのときまでを生きながらえてきたのか思考する人間など―――いない。


「あなたは祝福してくれるだろうか。―――この身勝手な世界の理と私の呪縛によって、明日この世界にあなたを召喚することになる私を」


 私は明日、何も知らない知る由もない、異世界に今このときにも呼吸をする心臓の脈を打たせる、あなたという存在を召喚する。この世界が必要とするものとして、この斜陽の世界を、救う唯一の手だてとして、あなたの力を欲するすべてのために。この国のために。

 ああ知っているさ、そうだ。今もこの眼前に広がる世界は確かに美しい。これが失われてしまうことを、哀しいと惜しいと、どこかで感じてしまう程度には私も、世界の美しさを知ってしまっている。たとえその世界が、私という一個人に対してはなにも、やさしい時間など永くは与えてくれぬと分かってしまっていても。

 それに人の本性には、確かな善も存在する。

 確かな善というものがなければ、とうの昔に私はこの国を何も知らぬ市井の人々を、この心の底から憎み切ってしまっていたことだろう。国の世界の滅亡を願い、きっと何度でも何度でも、己に科された呪縛を解き、私をこのありさまに仕立て上げたすべての人間への復讐に向かう道へと駆り立てたことだろう。

 けれど私の記憶の中には、優しくされた記憶がある。何の見返りも求めぬあたたかなまごころを、まっすぐに存在を見つめるひかりを、私は知っている。

 裏切るのはいつも当人ではなく、ほんの少しだけ離れた場所にある、―――それこそ信じてもいいかもしれないと少しだけ思った瞬間の、なにか、だったのだ。


「勇者殿」


 明日あなたが目にする世界は、果たして美しいのだろうか。

 ああ、きっと最初に目にする、喚び姫と呼ばれる彼女はとても美しいだろうと思う。なぜなら彼女はそうあるよう作られてきた。そうあるよう路を敷かれ、おそらく物心ついたときから、彼女自身もまたそうあろうと、そうあるべきと信じて今まで生きてきたはずだ。

 突然にこの世界に呼び出されたあなたは、この世界を人々を美しいと感じ守りたいと思い、その手に剣を取ってくれるのだろうか。きっとあなたの周囲は私のように、ほんの少し外れたどこかで裏切られて善意が崩壊を迎えることは、…ないのだろう、けれど。

 けれど私のこの醜さが、明示しているようにこの世界は決して美しさばかりではない。

 そもそもあなたを呼ぶ私が、既に全き善、とでも呼べばよいのであろうものを信じるにはあまりに、人間にそしてこの国に、すべてに縛られいろいろなものを奪われ過ぎて、いるのだ。

 どことも知れぬ異世界から、あなたというたった一人の異存在、勇者を呼び出す。

 そのためだけに一体、幾人の人間が死んだだろう、そして不幸になっただろう。

 途切れた未来を紡ぐことは、世界の誰にも出来はしない。どれほど魔力が強くなろうと、私のこの手は守りたい人を誰一人として守れず、守りたい場所だってもうどこにもなくしてしまった。

 なあ勇者殿、勇者殿。

 あなたは、今、…しあわせですか?




 ―――瞬間、ふわりと夜景に何かがかすみ、重なったように見えた。

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