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呼ぶのだ、勇者を。今この斜陽の世に勇者を、救世主を。
一刻も早く喚び姫の、健やかなる成長を我らは希う―――
「”十日後の双月の刻、勇者召喚の儀を執り行う”」
目の前にある書状にそしてそれに記された事柄に、湧いて浮いてくる笑いを、私は押さえる事ができなかった。
ようやくだ、と思う。絶対にこの国の誰よりも、その時をそしてこの儀式を、待ち焦がれていたのは私だという確信があった。
くつくつと、のどを突いて出てくる己の声はおおよそ、同じ年頃のうら若き乙女のそれとは程遠い。
それは幾度も幾度も際限などなく、声というものを形成する器官を傷つけられ、同時に満足な再生の時間など一度として私には与えられなかったという事実の結果だ。終わりの存在すら忘れかけてしまうほどの恐ろしい修行の過程において、あらゆる場所の修復は、ちっともうまくなどいかないままに無残に放り捨てられてしまった。
まともな修復を望むより先に、切羽詰まった次の死の危険を、何としても回避しなければならなかった。
それが私に望まれる、たったひとつのことであり。
それを常に越えなければ、私は死すら甘美に響く、業苦に長く、長くどうしようもなく長く放り込まれて、無様に泥濘をのたうちまわらなければならなかったのだ。
「…やれやれ」
ずるりと長いローブからのぞく、ひどく不格好な己の手を見下ろして笑う。
声と同様の理由によって、私の体にはありとあらゆる種類の傷が痕として蓄積されていた。傷ついたことのない部位を探すのが非常に困難なくらいの数の、傷跡がこの身体にはまみれている。
書状を保持する手の指は、両方を合わせても七本しかない。足の指に至っては、もういつだったかも覚えていないような昔に十本すべてが腐ってぼろりと足から落ちてしまった。
そんな過酷な私の修行は、無論、顔は例外、などという器用なことを起こしてくれるはずもなかった。
ひたりと片手を顔に当てれば、容易に歪な凹凸に当たる。それは目口鼻といったものではなく、本来ならつるりとすべらかであるはずの部位にばかりぼこぼこといびつに存在している。
私は外に出るときに、絶対に目深のフードつきマントを手放すことができない。
なぜなら私には、左目がない。あるのはかつては左目が収まっていた虚ろな大きな穴と、顔を左右と上下に深く長く走る、いびつな無残な傷痕。
私は同年の誰よりきっと、ひどく、醜いおぞましい姿をしている。
誰より強い魔力の代わり、それ以外の何も、私はこの手にすることを決して、許されなかったからだ。
「十日後、か」
男とも女ともつかぬひび割れたかすれ声に、傷だらけで大穴のあいた無惨な顔。手入れのしようも分からず絡まるのもめんどうで、小刀でざんばらに適当に切り刻んだだけの短い髪は真っ白だ。
指は少なく、傷だけ多く。他人を生かし、或いは死に追いやることは容易くとも、己に過去の痕として残ってしまった数々は消せない。消しても増えるだけなので、消すという思考をいつしかなくしてしまった。
ああ時間が早く進まないだろうか、そう私は小さく笑って思う。
十日後に召喚の儀が行われる、ということは、生まれた日から正確に数えれば私は、十日後に十六になる、ということだ。生まれ落ちたその日からそうあるべしと定められてきた、たった一つの至上の命題を果たす日がようやく、来るということだ。
それを数えて待つ意思と希望など、もうすでに失ってしまって本当に久しい、のだけれど。下手な希望など根こそぎ捨てなければ、ただひたすら業苦にのみ沈まねばならなかったから。ずっと。
己が魔力を増幅し、それを自在に操るがため。
修行という名のおぞましい拷問、惨劇ばかりを繰り返し血ばかりを流してきた日々もようやく、―――おわるのだ。
「…ほんとうに」
その日が来るんだな、と。
簡潔でいびつな命令の文を、足りない指で何度も何度もなぞる。
その内容は短いが故に、何度読み返ししわがれた声で音読し、光に透かしてみても闇に起き去ってみても、魔術でその裏を見つけようとしてみても何も、何一つとして変化することはなかった。
そんなささやかな事実に、何度でもそして私は笑った。
部屋には完全な防音の魔法をかけてあるし、そもそも私に関する噂を信じ、私をおそれるものたちしか、私の周囲にはもういなくなっている。私に関わると不幸になる。私と親しめばその命を落とす。私に近づけばその血を吸われ、その骨肉を、砕いてかけらも残さずにいつか、すべて食いつくされてしまうのだと―――。
既にこれ以上、他人に何が欲しいとも思わない私にはそんな、おぞましい噂はむしろ好都合だった。
なぜなら誰も私に近づかなければ、私のためと嘯くこの国の愛国、国防という名の牙にとらわれることはない。
魔力は希望と絶望の、相転移において最もその増幅の幅を増すのだという。
そんな過去の繰り返しは、もういい加減にほとほと、厭きた。私のために落とされる、命の数とそのためにどん底に突き落とされた人間の数など今更数えたくもなかった。
はやくその日になれば良い。はやく、その日が来れば良い。
十日が過ぎれば少なくとも、誰かの命が私のために、落ちるということはなくなるのだから。
「………ふ、」
体の芯に刻み込まれた、その日のための術式を目を閉じて思い描く。
勇者召喚のための特別な魔法も、もう今の私にとってはさして、難しいものではなくなってしまっていることを今一度また確認する。さすがに楽だとまでは言えないけれど、少なくとも先代や先々代の喚び姫たちのように、術式の発動と同時に魔力を使いきってその場に無様に倒れ込む、などということにはならないはずだ。
そう。ただただそのためだけに。ごく安全かつ完全なる、召喚をするというためだけに。
私とそしてもうひとりは、ずっとずうっと、いきてきた。
「…え?」
パキン、と胸元で小さく甲高い音がしたのは、もう一度術式を改めてなぞり直そうとしたその瞬間だった。
閉じていた目を、思わずひらく。音の在りかへふと手を遣る。
掌がそれへと触れた瞬間、ざらりと砕けてしまったものの感触がてのひらをぬるく、ぬるくにぶく突いていった。
「…あ、」
その感触に、理解する。ため息のような声が思わず漏れた。
確かに昂揚していたはずの心は、その一瞬にしてしぼんで枯れおちた。ただでさえ暗い目の前が、さらに真っ暗になって、思わず小さく笑おうとしたら嗚咽のようなひびわれた声がのどを震わせてついて出た。
かたん、かたん。なにかが私の中でいびつに傾いていくのを感じる。
どうかお願いとささやいて、かれに託した自分の一部が。
破れ裂かれて引きちぎられ、無惨な力と、転じていく。
「ああ、」
もう、力なんていらないのに。
けれどそれを言ったところで、誰が理解してくれるとも思えない。
金具が手のひらに食い込むのを感じながら、私は砕けてしまったペンダントを握りしめた。あのときからいままでずっと身につけ続けていた、これは彼が最後に私にくれたものだった。
私の傷まみれの体を綺麗だと言い、一つしかなくなってしまった瞳を澄んでいると言い。
いびつな私を強いと言い、醜い私を好きだと言い、無惨な私を守ると言い、何もない私と一緒に生きたいのだと言い。
私の心の一部と一緒に、この国から遙か遠くへ、遠くへ亡命して行ったはずの、彼が。
「あ、」
つきりと。胸の奥が小さく針に刺されたように痛んだ。もう感覚を伝えなくなって久しかった左の虚ろが、不意にどくりと疼いて何かを押し出した。
ああきみも、とうとう私に捕まってしまったのかと。どうしてせめてあと十日、きみはがんばってくれなかったのかと。
思ったところでどうにもならない。どうすることもできないからこそ、かれに託した小さな希望と、かれへの未来の展望は、すべてころりと位相を変えて、転移し絶望へとおちていく。
もういらないのに、これ以上。きみが殺されて手に入る、力なんてもう私にとってはただの余剰でしかないのに。
考えても考えてもただ胸が痛いだけで、それを誰かに訴える術もそして私にはない。
苦しさだけが満ちる身体から涙は流れることはなく、しかしどうしてか涙の代わりのように。
私の左の虚ろから、赤い雫が一筋、頬を伝って床へとぽつりと落ちていった。