4話
大国リジェンを二分する、ユルセン山脈。そのふもとには、名もない小さな村が点在している。
人など、滅多に寄り付かぬ場所である。村人たちは基本的に自給自足の生活を送っていたから、地元の人間でさえ、村を出て森のなかをうろつくことは、ほとんどなかった。
それに、いまの季節、そろそろ冬になろうかという時期は、冬眠前の気の荒い獣と出くわす危険性もある。
だが。
そのユルセン山麓の森の道に、ひとつの人影があった。
「本当に、ここであっているんだろうな」
砂色のフード付き外套という旅装の、それはまだ若い青年だった。少年の頃を、ようやく脱したばかりの歳に見える。
エイルである。天界から地上に降りた彼は、考え込むこともなく真っ先に、このユルセン山麓を目指したのだった。
「地上人は、こんなところに住むものなのか?」
つぶやいて、エイルは服の下から、ある物を取り出した。
陽に透かす。それは、銀の鎖に通された、指環だった。うつくしい空色の輝石が嵌め込まれ、そのまわりを水晶の台座が飾っている、黄金でできた指環だ。
これはエイルが天界を出発する際、餞別代りにと父王から渡された、ものだった。なんでも、この指環は、エイルの婚約者の居所を示すのだという。
そんなわけで、彼はこの指環を羅針盤さながらに用いながら、旅をしていた。指環の輝石に光を透かすと、反射した光は一定の方向を示すのである。
「やっぱり、こっちか」
いまエイルが歩いているのは間違えようのない一本道だ。指環に透かした光は、その道を進行方向にまっすぐ示している。
だが、道の先は、気のせいではなく、昼間だというのに薄暗くなってきている。
それでもはじめエイルは気にせず道を進んでいたが、次第に道が細く荒れたものになってくると、さすがに不審に思った。
これでは、まるで獣道ではないか。
それも、何年も使われていない道に思える。
はたしてこの先に、本当に村などあるのだろうか。
そしてそこに、エイルの婚約者はいるのだろうか。
疑い出せばキリがない。しかし、今のところエイルには、あてにできるのはこの指環しかなかった。
この広い地上世界で、ひとりの人間を探し出すのは独力ではまず不可能だ。だから、指環が方向を指し示してくれるのを信用するしかない。
エイルは立ち止まり、もう一度指環を取り出して、陽にかざそうとした。
だが、うっそうと樹々の茂った森のなかでは、陽の光は差し込まない。
思わずエイルは舌打ちをしそうになった。どうするべきか。
指環は役に立たなくなってしまった。この先まだ進むか。それとも、光の差すところまで引き返してみるか―――。
「ッ!」
とうとつに、エイルは立っていたその場所から飛びのいた。
数秒前まで彼がいた場所に、鋭い風切り音をたてて、何かが突き刺さる。
その正体に気付いて、エイルは表情を険しくした。
小刀だ。
それも、はじめから投擲を目的として作られたもの。
「――誰だ」
短く、エイルは声を発した。
気をはりめぐらせて、周囲をさぐる。
誰か、エイルの他にもうひとり、この場にいる。
だが、気配が探れない。
「――――」
ざざ、と、樹々が揺れた。風だ。
その瞬間、エイルは、いきなり背後に何者かの気配が現れたことに気付いた。
とっさに距離をとり、そしてふりかえる。
そこに立っていたのは、エイルとさほど年の頃も変わらない、少年だった。まだどこか幼さののこる容貌は、それなりに整っている。が。
「お前!」
少年はいきなり、エイルに敵意を向けてきた。
エイルはすばやく少年を観察した。粗末な皮の衣服と布を巻きつけたような形の靴。地元の人間だろう。
だが、ただの人間ではない。こんな辺境の村人が、あれほど見事に、気配を消せるはずがない。
「…なんだ」
一拍、エイルの返事は遅れた。
この少年に、気おされたのだ。
そして、わずかに動揺もしている。
もともと天界では王子という身分であったくらいだ、他人からここまであからさまな敵意を向けられたことはない。
「その指環、どこで手に入れた」
押し殺したような声で、少年は言った。
指環、と繰り返したエイルは、少年の言っているのが自分の首から下げているものだと、すぐには気付けなかった。
「答えろ」
「………何が目的だ?」
まさか、この指環が目的の物取りだろうか。
宝石の価値はエイルには分からないが、環の部分には金が使われている。地上でも、ある程度の価値はあるだろう。
「答えろ! その指環をどこで手に入れたと訊いている!」
エイルは答えなかった。答えない代わりに、腰に帯びていた剣を抜いた。
それを見て、少年は目を細めた。彼も、ベルトに挟んでいた短剣を抜く。
まずい、と、とっさにエイルは思った。どう見ても、向こうの方が技量は上だ。エイルとてそこそこの腕はあると自負していたが、この少年は桁違いに強い。
「教える理由はない!」
エイルは言った。
と同時に、少年は襲いかかってきた。
応戦する。だが、予想通り、相手は強い。
すぐに腕はしびれはじめた。向こうは短剣、こちらは長剣。向こうの方が動きやすいし、剣もそれほど重くない。
しかも。
「っ!?」
突如エイルは横転した。わずかに遅れて、事態を理解する。
―――少年が、エイルに足を引っ掛けて、転ばせたのだ。
「卑怯だぞ!」
体を起こそうとしたところ短剣を突きつけてきた少年に、エイルは非難を込めてそう言った。
「卑怯?」
エイルをあざ笑うように、少年は言った。
「卑怯だろうが何だろうが、負けたら―――死んだら意味ないだろ?」