間章 《きょうだい》の物語
「行ってしまいましたな」
王弟ラデンはつぶやいた。それに対し、王は、物憂げな視線をバルコニーに向ける。星のない夜空を反射して、広がる雲は漆黒とすら言えるほど、濃い闇の色をしていた。
天界王子エイルは、地上を目指し、天界を出た。地上から見上げたのでは、空は、天はあまりに遠いだろう。
「ラデン。あれには、どこまで話した」
ふいに、王は訊いた。
王の弟は、不思議そうな顔をした。
「エイルにですか? それでしたら、ただ、婚約者がいることだけを」
「そうか」
どこか安堵したように、王はちいさく息をつく。
「では、ルカーツェンのことは、まだ知られていないのだな」
「―――兄上。まさか、エイルに話していないのですか。あのことを」
「話していない」
途端、ラデンはハッと、自身の兄を見た。先ほどとは、表情がまるで違っている。
「何故です」
「あれにはまだ早すぎる」
なんてことだ、とラデンはうめいた。王はそれを見ていた。いつにもまして大げさなラデンの態度であったが、今夜ばかりは、それはわざとではなかった。
「エイルには、時間がないのです、兄上」
「あれは子供だ」
「ラザーリンのときも、兄上はそうおっしゃった」
ふと、王はわずかにではあったが、驚いたように眼を見開いた。
ラデンを見る。いまの彼の声に、わずかな非難の響きを感じて。
そして、それ以外の理由も。
「珍しいな。―――お前がラザーリンの名を口にするのは」
ラデンとラザーリン。ふたりは、仲が良かった。兄妹というよりはまるで恋人のようだと、そんなことを言われるくらいに。けれどラザーリンは、それほど親しかったラデンにも、駆け落ちのことは一言も相談しなかった。
それと関係があるのかは分からないが、それ以降―――妹が結婚式の当日に姿をくらましてから―――ラデンは王が知っている限り、一度もその名を呼ぼうとはしなかったのに。
「そんなことは、どうでもいい」
ラデンは王に、掴み寄らんばかりに近付いた。
「兄上、エイルは、何も知らずに地上へ降りたのですよ」
「それが?」
「地上では、我々―――天界の者は敵視されている。もしエイルの正体がばれたら!」
「そんなことはエイルも承知している。地上人との不仲を知らぬ天界人などいない」
「兄上! キィツェンがどうして死んだか、ご存知のはずでしょう」
「―――」
王は、黙った。ラデンは、自分が言ってはならぬことを口にしたと気付いた。けれどもう遅い。一度口にした言葉は、取り消すことができない。
「キィツェンの死は、天が定めたことだ。キィツェンとエイルは、違う」
低く、王は言う。
その冷たく輝く瞳を見つめることが恐ろしくて、ラデンはそっと視線をそらした。