第三話「殺し屋」Part.1
「今日はよく降る日ですねぇ‥‥」
BAR『幸せ一丁目』のバーテンは、降りしきる雨音に一人呟いた。
こんな雨の日はさすがに客足が遠のくらしく、バーテンは一人寂しくグラスを磨いていた。
(お客さんも来ないし、休憩がてらご飯でも作ろうかな)
バーテンが奥のキッチンへ足を向けたその時だった。
キィ‥‥‥。
扉が開き、一人の男が入って来た。
「いらっしゃいませ」
見ると、男は黒い帽子を目深に被り、顔にはサングラス、黒のジャケットに赤いシャツ、スラリとした黒のパンツに、足元には黒いソックス、そして大きな黒い革靴という出立ちだった。
雨に濡れたのであろう男の赤いシャツは、肌にしっとりと張り付き、服の下にあるであろう男の強靱な肉体を、微かに感じさせていた。
そんな男の姿を見て、バーテンはすぐに彼が何者か気付いていたが、別段表情を変えるでもなく、いつものとおりお客が席に着くのを待っていた。
男は、入口からいちばん近い席に腰を降ろした。
バーテンはいつもと何も変わらず、すぐに男に温かいお絞りを差し出した。
「何になさいますか?」
男は、静かに口を開いた。
「ジャック・ダニエル‥‥ソーダ割りをくれ」
「かしこまりました」
バーテンは手早くカクテルを作り、男の前に差し出した。
「お待たせしました」
男は、黙ってそれを手にとり口をつけた。
男が飲むその酒は、遠いテネシーを思わせるような琥珀色。
その味わいには、やり直す事は出来ない遠い過去を思い出させる様な切なさを覚えるほろ苦さがあった。
「お客様、ジャケット、お預かりしましょうか?」
酒を飲み、物思いにふけっていた男は、バーテンの声に無言で首を振った。
しかし、ややしてある事に気付きバーテンを見た。
「おいあんた、何で帽子は預かろうかと聞かない?」
普通なら、こんな濡れた状態で、ジャケットだけを預かりましょうかと聞くのはおかしい。
帽子も預かろうかと聞かれそうなものだ。
なのに、このバーテンはそれをしない。それが妙に引っ掛かった。
するとバーテンは、何でもない事のようにさらりとこう答えた。
「お客様は、それを人前で脱ぐ事はお嫌いだと思ったものですから」
男は驚きを隠せなかった。
なぜこのバーテンがそんな事を知っているのか。
確かに男は、人前でそれを脱ぐのを嫌っていた。
ある理由があったからだ。
男は、目の前のこのバーテンがどうしてそれを知っているのか、どうしても確かめたくなった。
「いや、アンタにならいいさ」
言って、男はサングラスを外し、帽子を脱いだ。
そこに現れたのは、燃えるような赤い瞳と髪だった。
男はバーテンを見つめていたが、バーテンは特に表情を変える事もなく、相変わらず穏やかな微笑を浮かべ、男の前にたっていた。
「俺が誰だか、アンタは知ってるんじゃないのか?俺は‥‥アカハチだぞ?」
男は核心をついた。
『アカハチ』
それは、裏の世界で知らぬ者はいないと噂される真紅の瞳と髪を持つ凄腕の殺し屋。
その名を知る者なら、誰もが恐れ慄く。
それなのに、そんな男の正体を知っているような振舞を見せながら、バーテンは全く怯える気配が無い。
それどころか、なお穏やかに微笑んでこう言った。
「お客様が誰で、どんな仕事をなさっていても、私にはお客様であることに変わりございませんから」
アカハチは驚きに面食らいながら複雑な笑みを浮かべた。
「まいったな。俺の正体を知ってて態度が変わらなかったのは、アンタで二人目だ」
そう。これまでは男があの殺し屋アカハチだと知れば、誰もが震え逃げ出した。
たった一人を除いては。
男は、久し振りにそのたった一人のことを思い出していた―――。