第五話「夫婦」Part.4
「・・・・・・子さん・・奏子さん?」
ふいに響いた声に、奏子は目を開けた。
「――――あ・・・・!」
目の前には、いつの間にか奏子の夫、崇史が立っていた。
いつものように優しい目で、奏子を気遣わしげに見ている。
けれど・・・・。
「崇・・史・・・さん・・・?」
いつもの、仕事の為の整ったスーツ姿ではない。ポロシャツにジーンズという、およそどこにでもいそうな普通の格好をした彼に、奏子は目を見張った。
「どうし・・・て・・・?」
それは、彼が大学時代好んでいた服装だった。思わず周りを見渡す。もしかしたら・・・・。
―――――ここ、は・・・・!
大学の、中だった。それも、奏子がよく利用していたサークルの、部室・・・・。
(まさか、そんな・・・・)
驚きと戸惑いが駆け巡る。もしかして、と思ってはいた。あのBARのあのカクテルは、過去へ自分を戻してくれるのではないか、と。
「奏子さん、どうしたんです?僕の顔に何かついてますか?」
(奏子さん・・・懐かしい響き・・・・)
怪訝そうに自分の名を呼んだ彼に、奏子は目を細めた。
その声も口調も、いつもの夫、崇史と変わらない。けれど、やっぱり違う。この崇史は、奏子の夫である崇史ではない。“大学時代の”崇史なのだ。
結婚してからは“奏子”としか呼ばなくなっていた。無論、それだけで、奏子に対する態度が以前と変わったかと言えばそうではないのだが。
結婚してからだって、崇史は以前と変わらず奏子に優しかった。ただ、あまりに忙しく、共に過ごす時間を持てなくなっていただけで。
「ねえ奏子さん、僕の事、嫌になりましたか?確かに僕は嘘を吐いてた。それが許せないというなら謝ります。ですが僕は、大河内の名ではなく、僕自身を見て欲しかった」
大学時代、身分を隠して密かに自分の本質を見てくれる女性を探していた崇史は、いつも飾らない格好をしていた。それでもその端正な容姿から、言い寄る女性は後を絶たず、片っぱしからそれを断るストイックさも相まって、その人気は凄まじいものになっていた。
その崇史が、たかがサークルで一緒に活動していただけの奏子に告白し、打ち明けたのだ。
自分の本当の身分、そして、奏子を真剣に想っていると云う事を。
「・・・・違うわ。隠しごとをされていたのは、確かに少しショックだったけど、私はそんな事で貴方の事を嫌になったりしないもの」
「だったら・・・・」
――――何が問題なのか。
それはこの状況だ。奏子が戻りたかったのは崇史にプロポーズの返事をした“この時”ではない。この直前、教室で幼馴染の大知に告白された“あの時”なのだから。
思い煩い、うつむいたままの奏子の肩を、ふいに崇史が掴んだ。
「奏子さん!お願いだ!僕は貴女の人を思いやる心遣い、飾らない美しさが好きだ。他の誰でもない、貴女だから好きなんだ!」
「――――――っ!!」
分かってはいた。それでも、いざ思い出と同じ告白をされると、奏子の心は揺れた。
このまま、受け入れてしまえばいいのかもしれない。自分はもう、大知を振ってしまっているのだから。でも・・・・。
「ごめんなさい崇史さん、私・・・・」
言葉を詰まらせた奏子に、崇史はゆっくりと問いかける。
「・・・・大知さん・・ですか?」
「・・・・どうして・・・・」
驚き顔を上げた奏子に、崇史は寂しげに微笑んだ。
「分かりますよ。だって僕は、いつだって貴女を見てましたから」
「あ・・・・・・」
思わず声を失った奏子に、崇史は優しく微笑む。
「行ってあげて下さい。彼はきっと、今頃、高松教授の研究室にいます。僕が頼まれた仕事を、彼が引き受けてくれたんです。こうして貴女と過ごせるように、ね・・・・」
そうだった。確かに大学時代のこの時を境に、普段は教授の研究発表の手伝いでなかなか手を離せない筈の崇史が、それでも週に一度は夜まで時間を作ってくれるようになっていた。奏子の為に。
『この人はどんなに忙しくても、自分の為に時間を作ってくれる人なんだ』
その心遣いがあまりにも嬉しくて、奏子は表面だけでなく、心から崇史を愛そうと決めたのだった。それがまさか、大知のお陰だったとは・・・・。
「ごめんなさい崇史さん、私・・・・」
「謝らないで。それより、お願いがあるんです。これから先も、僕と友人でいてくれますか?」
失恋は仕方ないが、友人まで失うのは堪える、という崇史の言葉に、奏子は涙が出そうになりながら、それでも何とか微笑み頷いた。
「・・・・ええ。ありがとう崇史さん。私、行きます」
崇史は頷き、にっこりと微笑み返した。
「いってらっしゃい。大知さんに伝えて下さい。ありがとう、と」
優しい笑みに見送られ、奏子は走った。
――――大知、大知!!
もう迷いは無かった。目的の研究室に着いた時、奏子はすっかり心を決めていた。
――――もう一度、やり直そう。今度こそ、大知と!
扉を開けた瞬間、中にいる白衣の彼が目に入った。
「奏子!?お前、なんでここに・・・・」
「ごめん大知!私、ホントは――――」
スッと歩み寄り、懐かしい幼馴染の目を見つめる。
がっしりしたその肩も、人懐っこい優しい目も、間違いなくあの頃と同じ、奏子が大好きだったその人のものだ。
奏子は、精一杯背伸びした。自分の想いを伝える為に。
「――――――――っ!!」
幼馴染の目が驚きに見開かれ、その腕が奏子の背に回った。
たくましい腕の中、唇を離した奏子は囁いた。
「大好き」
瞬間、今度は彼の方から唇を塞がれ、奏子はそっと目を閉じ、その温かさに身を委ねた。
<作者より一言>
第五話「夫婦」Part.4、いかがでしたか?
次回Part.5ではいよいよ第五話の最終回となります。
また出来あがり次第投稿しますので、宜しければまたご覧になって頂けたら嬉しいです。
宜しくお願い致します。