主役が来ない
王宮の夜会で司会を務めて二十三年になるが、私が一番恐れているのは、客が退屈することではない。予定にないことが起きることである。たとえば、乾杯の前に酔いつぶれる大臣。演奏の途中で逃げ出す花嫁。名前を間違えて紹介しただけで、三代前の家同士の争いを持ち出す老伯爵。王宮の夜会には、立派な服を着た面倒事がいくらでもやって来る。
だから私は、招待客の名前も、演奏する曲も、祝辞の順番も、すべて小さな手帳に書きつける。胸の内ポケットに収めたその手帳があれば、たいていの事故には対処できると信じていた。
その夜までは。
「エレノア様が、まだいらっしゃいません」
開宴まで十五分。控室に入ってきた補佐のサラが、白い手袋を握りしめて言った。
「馬車が遅れているのかもしれない。門の係には確認したかね」
「はい。ご実家にも使いを出しましたが、今日はお出かけになったとしか……」
私は手帳を開いた。今夜は春の大夜会。王太子ジュリアン殿下が、婚約者エレノア・ロイス伯爵令嬢との婚礼の日取りを発表する、と招待客の間では噂されていた。あくまで噂だ。公式の進行表には、殿下のご挨拶としか書かれていない。もっとも、進行表を読み込む貴族など、王宮の儀式係くらいのものだろう。
「殿下には?」
「先ほどお伝えしました。『あの女は最後まで人を待たせるつもりか』と」
嫌な予感がした。王太子殿下は、何事も人前で大きく見せたがる方だった。剣術大会で勝てば優勝者よりも長く演説をし、勝てなければ審判の見る目を疑う。若さゆえと周囲は笑っていたが、私は笑えない。殿下の思いつきで、三度ほど式典の時間が延びたことがある。今夜に限って、その思いつきが大ごとにならなければいいのだが。
「フェリクス」
扉を開けたのは、まさにその殿下だった。金糸で刺繍された礼服に、少し大きすぎる宝石の飾り。立っているだけなら、たいへん絵になる青年である。殿下の後ろには、淡い桃色のドレスを着た娘が控えていた。カルフェン子爵家のリディア嬢だ。最近、殿下が彼女を連れ歩いているという話は、使用人の耳にも届いていた。
「今夜の挨拶を変更する。婚礼の日取りは発表しない」
「承知いたしました。では、その旨を記録係に……」
「代わりに、エレノアとの婚約を破棄すると宣言する。あの女が来たら、全員の前に立たせろ」
思わず、手帳を落としかけた。
「殿下。それは、ご本人とご両家にお話を通されたうえでのことでしょうか」
「私の婚約だ。私が決める。エレノアは王太子妃になる資格がない。自分がどれほど恥をかいたか、今夜こそ思い知らせてやる」
「しかし、ご本人がお見えになっておりません」
「だから来たらと言っている!」
殿下は声を荒らげ、リディア嬢の肩を抱いた。
「心配するな。今夜、すべて片づく。そうすれば、私たちは堂々と一緒になれる」
リディア嬢は微笑もうとして、うまくいかなかったようだった。
「殿下。エレノア様とのことは、もうお話が済んでいると伺いましたけれど……」
「だから今、済ませるんだ」
彼女の表情が固まったのを、私は見た。殿下は気づかず、立ち去りながら言った。
「フェリクス、余計な口は挟むな。私が今夜の主役だ」
扉が閉まったあと、サラが小さな声で尋ねた。
「どうなさいます?」
「まず、誰にも手帳を落としたところを見られていないか確かめよう」
「そこですか」
「そこから立て直さないと、私の心がもたん」
拾い直した手帳の角は、少し折れていた。
午後七時、夜会が始まった。高い天井から下がる大きな灯りが、磨き上げられた床に映る。楽団が最初の曲を奏で、色とりどりのドレスがゆっくり動き出した。私は予定どおり来賓を紹介し、料理係に目で合図を送り、どうにかいつもと同じ夜を演出した。しかし、主賓席の一つは空いたままだった。エレノア嬢がいない。
彼女は遅刻をするような人ではない。むしろ以前は、私より先に会場へ来て、席札の並びを手伝ってくれたほどだ。まだ王太子妃になる前から、礼儀や外交、領地のことまで学んでいた。年配の大臣に話しかけられても慌てず、初めて夜会に来た若い令嬢には、自分から声をかけていた。ただ、一度だけ、彼女が進行表を見ながらため息をついたことがあった。
『王宮の一日は、いつも予定でいっぱいですね。フェリクスさんは、好きな場所へ行く時間がありますか?』
『休暇には妻と芝居を見に行きます。もっとも最近は、よい劇場を探すのが難しくなりました』
『そうですか。では、いつかご招待したいですね』
そんな、どうということのない会話だった。あれから一年。私には相変わらず休暇が少なく、エレノア嬢にはさらに公務が増えた。彼女が約束を覚えているとも思わなかったし、私もすっかり忘れていた。
「フェリクス様、まだ見つかりません」
サラが小走りで戻ってきた。
「王宮の門には入っていないそうです。それから、ロイス伯爵家の執事が『ご本人は招待状にお返事を差し上げたはずです』と」
「返事?」
「はい。欠席のお返事を」
それは妙だ。婚約者が出席すると思われている夜会に、本人だけが欠席の返事を出す。しかも、その返事が私のところへ届いていない。
「招待状の担当は誰だった?」
「今回は殿下の私室で取りまとめるようにと、ご指示がありました」
私は目を閉じた。夜会の招待状を勝手に取りまとめ、婚約破棄の発表を突然決め、当人が来ないと怒る。あまりにも殿下らしい。
「サラ、記録局へ行ってくれ。ロイス家と殿下の婚約について、最近、正式な届け出がなかったか確認してほしい。口頭ではなく、記録簿でだ」
「婚約を破棄する届け出、ですか?」
「あるかどうかも分からない。ただ、殿下が知らないことを、私たちまで知らずに済ませていいとは限らん」
サラはうなずき、裾を少し持ち上げて廊下へ駆けていった。その背中を見送りながら、私は楽団長に合図を出した。今夜二曲目に演奏する予定だったワルツを、急きょもう一度繰り返してもらう。
これで七分稼げる。
もしも七分で足りなければ、同じ曲を三度聴いた客から苦情が出る前に、別の曲をお願いしよう。王宮の儀式係とは、こういう仕事である。
最初に異変に気づいたのは、年老いた侯爵夫人だった。
「フェリクスさん。エレノアさんは、今日はお休みなの?」
「ただいま確認しております」
「まあ。あの子が風邪でもひいたのかしら。先週、うちの孫に芝居の本を貸してくれたのよ。お礼を言いたかったのだけれど」
「そうでございましたか」
「王宮へ来るようになってから、あの子は少し痩せた気がしてね。無理をしていなければいいけれど」
夫人は気遣うように主賓席を見て、離れていった。ほどなく、今度は財務官が私の袖を引いた。
「ロイス嬢はいないのか。東地区の旧劇場について、相談を受けているのだが」
「劇場でございますか」
「修繕の許可が下りた。別に王家の予算を使う話ではない。彼女の祖母が遺した建物を、私費で直すそうだ。あそこは長く閉まっていたからな」
話を聞いているうちに、以前の会話がふとよみがえった。いつかご招待したいですね。あれは、社交辞令ではなかったのかもしれない。そこへ殿下がやって来た。二曲続けて踊ったせいか、少し顔が赤い。
「まだ来ないのか」
「はい。ロイス家からは、欠席のお返事を差し上げたとうかがっております」
「逃げたな。自分のしたことが後ろめたいからだ。いいだろう、いないならいないで構わん。そろそろ挨拶を始めろ」
「もう少々お待ちを。進行上、確かめることがございます」
「何をだ。まさか、あの女をかばう気ではないだろうな」
胸の奥で、何かが静かに冷えた。私はエレノア嬢と親しくない。王宮の廊下で会えば挨拶を交わす程度の仲だし、彼女の素顔をすべて知っているわけでもない。もし本当に落ち度があるのなら、それは正しい手順で確かめられるべきだろう。だが、人がいないところで、その人の言い分も聞かずに恥をかかせようというのは、話が違う。
「殿下。婚約についての重大な発表であれば、記録局の確認が必要です。儀式係として、そこは省けません」
「お前は私に逆らうのか」
「いいえ。殿下のお言葉が、間違いなく後世に残るようにしたいだけでございます」
それは嘘ではない。王族が夜会で述べた言葉は、記録として保存される。今夜の出来事を、将来の歴史家が読むことになるかもしれない。殿下はその意味を、よいほうに受け取ったようだった。
「ならば、きちんと書いておけ。エレノアが婚約者として失格だったと、王太子自ら判断したのだとな」
「かしこまりました」
私は手帳の隅に小さく書いた。――殿下、たいへんご機嫌。あとで清書するときには、もう少し適切な表現に改めるつもりだった。
七時四十分。
サラが戻ってきたとき、私は三曲目の演奏をお願いしていた。今度は、最初から曲の長いものを選んである。
「フェリクス様」
サラは私の耳元へ顔を寄せた。
「記録がありました」
差し出された紙には、王宮記録局の赤い印が押されていた。私は読み始め、最初の二行で息を止めた。王太子ジュリアン殿下とエレノア・ロイス嬢の婚約は、三日前に正式に解消されている。解消を申し出たのは、エレノア嬢のほうだった。
理由の欄には、双方が将来について意見を異にしており、婚姻を続ける意思がないこと、そのため婚約関係を終えるのが妥当であることが、簡潔に記されていた。国王陛下の裁可もある。
「どうして殿下は、ご存じないんだ?」
「記録局の方によれば、書類の写しを殿下のお部屋に届けたそうです。でも、殿下は『エレノアからの手紙なら読む必要はない』とおっしゃって、返されたそうで……」
「それは、手紙ではなく公文書だろう」
「私も、そう思います」
サラは困ったようにうなずいた。添えられた記録によれば、王室の使者が二度、殿下に書面を渡そうとしていた。二度ともお受け取りにならず、使者はその事実を記録局へ報告している。私は紙を裏返した。さらに小さな書面が付いていた。
『春の大夜会につきましては、出席を辞退いたします。なお、私の婚姻に関する発表を予定されている場合は、すでに成立した婚約解消の記録をご確認ください。本人不在の場で新たなご説明が必要になるとは思いませんが、念のため申し添えます』
署名は、エレノア・ロイス。この人は、自分のいない会場で何が起きるか、おおよそ見当がついていたのだ。それでも、来なかった。私はその判断が、少し羨ましかった。そのとき、音楽が止まった。見れば、殿下が楽団長に直接合図を出している。人々が何事かと顔を上げ、広間の中央に空間ができていった。殿下は私を手招きした。
「始めるぞ、フェリクス」
ああ、困った。
せっかく長い曲を選んだのに、殿下は待つことまで苦手らしい。
私は壇上に立ち、広間を見渡した。こういう場で大事なのは、声を張り上げないことだ。よく通る声で、必要な言葉を、必要な順に話す。聞いている人が何を知り、何を知らないのかを忘れてはいけない。
「皆様。本日は、春の大夜会にお越しいただき、誠にありがとうございます。ここで王太子殿下より、お言葉をいただきます」
拍手が起こり、殿下が前へ出た。背筋を伸ばし、普段よりもさらに大きな声で話し始める。
「今夜、私は皆の前で、ある決断を明らかにしたい!」
広間が静まった。
「私の婚約者、エレノア・ロイスは、王太子妃にふさわしくない。王家の務めを軽んじ、くだらぬ芝居小屋に心を奪われ、私の言葉にも耳を貸さなかった」
客の何人かが、驚いたように顔を見合わせる。
「しかも、今夜はこのような大切な席に姿を見せない。私を侮辱するとは、よほど自分の立場を理解していないのだろう。よって私は、この場で彼女との婚約を破棄する!」
殿下はそこで一度言葉を切り、客の反応を待った。拍手は起きなかった。代わりに、誰かが小さく咳をした。食器を片づける音が、妙にはっきり聞こえる。殿下は気を悪くした様子で、リディア嬢を自分の隣へ呼び寄せた。
「そして、私は真実の愛を見つけた。ここにいるリディアこそ、私の隣にふさわしい女性だ!」
リディア嬢は一歩進み出たものの、殿下の横には並ばなかった。
「殿下。少しだけ、よろしいでしょうか」
「なんだ。恥ずかしがることはない」
「いいえ。私は、エレノア様との婚約がすでに解消されていると聞いておりました。先ほどのお話では、今ここで破棄するということでしたが……それでは、話が違いませんか?」
その問いは、広間の隅まで届いた。殿下の笑顔が引きつる。
「細かなことは気にするな。私の気持ちは変わらない」
「私が気にしているのは、気持ちの問題ではございません。知らないうちに、誰かを傷つける役にされていたのかどうかです」
リディア嬢は静かに頭を下げ、殿下から離れた。周りの客が道を空ける。彼女は自分の家族がいる席へ戻り、母親と思われる婦人がその手を握った。殿下はしばらく、その背中を見つめていた。私は横から声をかけた。
「殿下。よろしければ、儀式係から記録に関するご報告をいたします」
「今か? あとにしろ」
「ただいまのご宣言に関わることでございます。ご列席の皆様に、誤解が残ってはいけませんので」
周囲の視線が集まる。殿下が不機嫌そうにうなずいたのを確かめ、私は一礼して前へ出た。
「先ほど、王宮記録局に確認が取れました。ジュリアン殿下とエレノア・ロイス嬢の婚約は、三日前、国王陛下の裁可によって正式に解消されております」
今度こそ、広間がどよめいた。殿下が私を振り返る。
「何を言っている?」
「こちらが記録の写しです。三日前の日付と、陛下の印がございます」
「私は聞いていないぞ!」
「使者が二度、お届けに上がっております。殿下が書類をお受け取りにならなかったことも、記録されております」
「そんな話は知らん!」
そうおっしゃるだろうと思っていた。私はなるべく穏やかな声を出した。
「殿下。書類をご覧になっていなくても、裁可がなかったことにはなりません」
客席のどこかから、押し殺したような笑い声が漏れた。殿下の耳まで赤くなる。
「ならば、なぜエレノアはここに来ない! 自分の口で説明するべきだろう!」
「欠席のご連絡も、正式に出されております。現在、エレノア様にはこの夜会へ出席する義務はございません」
「私が呼べば来るべきだ!」
「招待状は、相手が断ることもできるものですから」
そう言った瞬間、隣に立つサラが口元を押さえた。笑いをこらえたのか、私の言い方がまずかったのか、あとで尋ねる勇気はなかった。
「ふざけるな! エレノアを呼び戻せ! あの女がいなければ、この場が収まらないだろう!」
私は広間を見渡した。客は全員、こちらを見ている。楽団長は楽器を下ろしたまま、私の次の合図を待っている。料理係は、運びかけた皿を持って足を止めていた。これまで何百もの宴席を見てきたが、今日は何よりもよく分かった。殿下は、エレノア嬢が来て、自分の前で泣くところまで考えていたのだ。そこで初めて、この宣言は思いどおりの物語になる。
謝罪してほしかったのだろう。引き止めてほしかったのかもしれない。誰かが自分のために取り乱すことを、殿下は当然のように期待していた。だが、その相手はもう、この場所にいない。
「申し訳ございません、殿下」
私は深く頭を下げた。
「本日、エレノア様はお見えになりません。婚約を解消されたご本人の意思でございます。いない方を壇上へお呼びすることは、私にもできません」
「では、私はどうすればいい!」
難しい質問だった。夜会を二十三年も取り仕切ってきたが、婚約が三日前に終わっていたことを知らず、破棄を宣言してしまった王太子への対処法は、手帳に書いていない。ただし、夜会を続ける方法なら知っている。
「皆様、お騒がせいたしました。以上で殿下のご挨拶を終わらせていただきます。このあとは、予定どおりご歓談とお食事をお楽しみください」
私は楽団長に合図した。曲が始まる。少々早すぎるタイミングだったが、誰も文句は言わなかった。最初の一小節が響くと、まるで息を止めていたかのように、人々が一斉に息をついた。殿下はその場に取り残され、私をにらんでいた。
「フェリクス。覚えておけよ」
「はい、殿下。今夜のことは、記録に残りますので」
言ってから、これは余計だったと思った。殿下は何も答えず、足早に広間を出ていった。
その後の夜会は、驚くほど普通に進んだ。料理は温かいうちに運ばれ、楽団は最後まで美しく演奏した。先ほどまで気まずそうだった客たちも、やがて踊り始めた。リディア嬢は帰り際、私のところへ来た。
「フェリクス様。もし、いつかエレノア様とお会いすることがあったら……」
彼女はそこまで言って、言葉を探した。
「やっぱり、自分でお伝えします。誰かにお願いするようなことではありませんね」
「そのほうが、よろしいかと存じます」
「ええ。ありがとうございます」
リディア嬢は、少しだけほっとした顔で笑った。殿下とのことがどうなるのか、私には分からない。ただ、今日の彼女は、自分の意思で一歩下がった。それはあの場にいる誰よりも勇気のいることだったかもしれない。夜会が終わったころには、足の感覚がなくなるほど疲れていた。
「フェリクス様、今日は大変でしたね」
サラが控室にお茶を運んできた。茶葉を少し入れすぎたらしく、ひと口飲むとなかなかの苦さだった。
「長い一日だった。手帳に『婚約者が来ない場合』という項目を増やそうと思う」
「でも、婚約者ではなかったんですよね、三日前から」
「そうだった。では『婚約者だと思っていた人が来ない場合』だな」
「長い項目ですね」
「説明の必要な事故ほど、見出しが長くなるものさ」
サラがようやく声を出して笑った。私もつられて笑ったあと、机に置いた手帳を開いた。今日の出来事を、正式な記録として整理しなければならない。王太子殿下による婚約破棄の宣言。ただし、婚約関係はすでに解消済み。エレノア・ロイス嬢、欠席。書いてみると、ずいぶん短い話だった。数時間かけて騒いだことが、たった三行で済んでしまう。
「そういえば、こちらをお預かりしています」
サラが封筒を一通差し出した。
「エレノア様からです。今朝、王宮の門番に預けられていたそうです。夜会が終わってから渡してほしい、と」
封には、小さな花の印が押してあった。中には手紙と、少し厚めの紙が入っている。
『フェリクス様
以前、いつか劇場にご招待したいとお話ししたことを覚えていらっしゃいますか。祖母の遺してくれた劇場を、ようやく直すことができました。今夜が最初の公演です。王宮の夜会と重なってしまったため、直接お誘いできず残念ですが、来週からも同じお芝居を上演します。もし奥様とお時間が合いましたら、ぜひいらしてください。
追伸。今夜はきっと、いろいろとご迷惑をおかけします。私が行っても、かえってお仕事が増えるでしょうから、どうぞお許しください』私は最後の一文を二度読んだ。ずいぶん分かっている方だ。同封されていたのは、東地区の小さな劇場の招待券だった。二枚ある。
「ご招待ですか?」とサラが聞く。
「ああ。芝居だそうだ」
「いいですね。私、しばらく見に行っていません」
「君も休暇を取って行きたまえ。きっと王宮の夜会よりは、落ち着いて楽しめる」
「今日より騒がしいお芝居なんて、そうそうありませんからね」
それには、まったく同感だった。
翌週、私は妻と東地区の劇場へ出かけた。建物は小さく、王宮の広間なら片隅に収まってしまうほどだった。入口の塗り直したばかりの扉から、まだ木の匂いがする。古い座席には新しい布が張られ、舞台の幕は深い青色だった。入口では近所の子どもたちが切符を確認している。間違えて二度切ろうとする子に、隣の大人が笑いながら教えていた。妻は案内された席に座ると、周囲を見回した。
「いいところね。こんな劇場があったなんて、知らなかったわ」
「長く閉まっていたそうだ。先週からまた、客を入れるんだと」
私たちの前には老夫婦が、後ろには小さな子どもを連れた母親が座っていた。立派な服の人も、仕事帰りらしい服の人もいる。誰も、誰の身分を気にしていないようだった。開演の少し前、客席の端にエレノア嬢の姿を見つけた。淡い色の普段着に、動きやすそうな靴。王宮ではいつもまとめていた髪も、今日は後ろで簡単に結んでいる。
彼女は客の席を一つずつ確認し、子どもに頼まれて座布団を運んでいた。その顔が、私の知るどの夜会のときよりも楽しそうだった。目が合うと、彼女がこちらへやって来た。
「フェリクスさん。本当にいらしてくださったんですね」
「妻も楽しみにしておりまして。ご招待をありがとうございます」
「こちらこそ。あの日は、ご迷惑をおかけしました」
「おかけになったのは、別の方です」
私が答えると、エレノア嬢は一瞬きょとんとして、それから声を抑えて笑った。
「そうですね。あの方らしいというか……。でも、私はもう、あちらのことを気にするのはやめました」
彼女は少し離れた舞台を見た。
「この劇場を直したいと言ったとき、そんなものに何の価値があるんだと笑われたんです。だから、実際にお客さんが来てくれるまで、ずっと不安でした。でも今夜も、こんなに来てくださって……」
「お席が足りないくらいですね」
「ええ。来月からは公演を一日増やそうかと話しているところです。役者たちも、張り切りすぎて少し困っています」
彼女は照れくさそうに笑った。私は初めて、彼女が自分のしたいことについて、こんなに長く話すのを聞いた気がした。
「今夜のお芝居には、どんな主役が出るんですか?」
「町で帽子屋をしている女の子です。腕はいいのに、失敗を怖がってばかりで。でも、ある日、王様からとんでもない注文が来て……」
そこまで話したところで、舞台の裏から声がした。
「エレノアさん! 帽子が見つからないんです!」
彼女はぱっと振り向いた。
「また? 昨日も探したでしょう。分かった、すぐ行くわ!」
そう答えてから、私たちに申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい。どうぞ楽しんでいってくださいね」
彼女は足早に舞台裏へ消えていった。妻が隣で笑っている。
「忙しそうな方ね」
「ああ。本当に」
私は舞台の青い幕を見つめた。王宮では、あの人が来ないというだけで大騒ぎになった。けれど、ここでは彼女が走り回り、幕が開くのを待つ客がいる。誰かの機嫌を取るためではなく、自分が大切にしたいもののために働いている。やがて灯りが落ち、劇場が静かになった。
幕の向こうで、誰かが小さくくしゃみをした。客席の子どもが笑う。少し遅れて幕が開くと、帽子屋の娘を演じる若い役者が、緊張した顔で舞台の中央に立った。どうやら、無事に帽子は見つかったらしい。私は妻と顔を見合わせ、拍手を送った。
今夜の主役は、ちゃんと来ている。
それだけで、私は十分に嬉しかった。




