第3話 錆屑の街区と代弁の糸
灰燼街のさらに奥底。ロアの小さな背中を追って足を踏み入れた『錆屑の街区』は、スラムという言葉すら生ぬるい、巨大な鉄の墓標だった。
かつての魔王討伐戦において、最前線に投入された巨大な魔導兵器群。その無残に破壊された残骸が、天を衝くように折り重なっている。空を遮る鉄の山からは、赤茶けた錆水が絶え間なく滴り落ち、空気には古い油と腐敗臭が重く滞留していた。
迷路のように入り組んだ鉄塊の隙間。そこに、行き場を失った人々がボロ布や廃材を継ぎ接ぎし、辛うじて雨風をしのぐ『巣』を作って息を潜めている。太陽の光すら届かないこの場所は、平和な王都が蓋をして隠した、社会の暗部そのものだった。
「こっちだ。滑るから気をつけてくれ」
ロアが油と泥にまみれた細い足場を慣れた様子で進んでいく。
俺はすり減った靴底でバランスを取りながら、周囲の惨状に息を呑んだ。前世の記憶にあるどんなスラムよりも過酷な住環境だ。魔力汚染のせいか、時折、鉄の残骸から青白い火花が散っているのが見える。
前を歩くメアリー・リッチモンドの歩みには、一切の躊躇がなかった。彼女はドレスの裾が油で汚れようとお構いなしに、ただ真っ直ぐにロアの背中を追っている。自ら対象者の生活空間へと赴き、支援を届ける『アウトリーチ(訪問支援)』。その実践が、彼女の毅然とした背中に現れていた。
「ここだよ。……爺さん、起きてるかな」
巨大な魔導装甲の空洞を利用し、分厚い帆布で入り口を塞いだだけの粗末なテント。それが、ロアとグゼルという老兵の住処だった。
ロアがそっと帆布をめくると、むせ返るような熱気と、薬草を煮詰めたような匂いが鼻をついた。
「……ロアか。どこをほっつき歩いて……ゴホッ、ゴホッ!」
薄暗いテントの奥で、ぼろきれのような毛布にくるまった大柄な男が、激しく咳き込んだ。
グゼル。かつて魔王軍と刃を交えた歴戦の兵士。しかし、毛布から覗く彼の身体は、右腕が肩の付け根から失われ、左足も膝から下が存在しなかった。残された左腕と右足も異常なほどに痩せ細り、深い皺が刻まれた顔は、高熱によって赤黒く上気している。
「爺さん! 薬は持ってこれなかったけど、代わりに……この人たちが来てくれたんだ!」
「……誰だ、そいつらは。王都の役人か……? 俺は、ガキなんか隠しちゃいねえぞ……帰れ……ッ!」
グゼルは濁った瞳で俺たちを睨みつけ、残された左腕で必死にロアを背後に隠そうとした。自分が死に体であることよりも、ロアが不法滞在の孤児として捕まることを恐れているのだ。
メアリーはゆっくりと帆布をくぐり抜け、グゼルの枕元に静かに膝をついた。
「初めまして、グゼルさん。私たちは役人ではありません。ロア君から事情を伺い、現在のあなたの生活環境を正確に『調査』するために参りました」
「……同情なら、他所でやれ。施しを受けるような……情けない真似はしねえ……」
「施しではありませんよ。これは、かつて国のために戦ったあなたに対して、社会が果たすべき当然の義務の、ほんの小さな『立て替え』に過ぎません」
メアリーは静かで、しかし決して揺るがない声でそう告げると、持参した鞄から魔力を帯びた水筒と、栄養価の高いペースト状の携行食を取り出した。
「ロア君、少しだけ彼の体を起こしてあげられますか。急に固形物を入れると胃が驚くので、まずは少しずつ水分を」
メアリーの指示にロアが素早く動き、グゼルの体を支える。最初は拒絶しようとしたグゼルだったが、メアリーの魔力を帯びた水が唇を潤すと、ひび割れた大地が水を吸い込むように、わずかに表情を和らげた。
俺はテントの入り口付近に立ち、その光景を静かに見つめながら、異能『魂の織り目』を発動させた。
視界の色彩が消え、人々の感情と繋がりが『糸』となって空間に浮かび上がる。
グゼルから伸びているのは、国の裏切りに対する深い絶望を示す、鈍い灰色の糸。そしてそれ以上に強烈なのが、傍らにいるロアへと力強く繋がっている、黄金色に輝く太い糸だった。
血の繋がりはない。だが、この老兵は己の命を削ってでも、この孤児を守り抜くという確固たる愛情と責任感を抱いている。
(……だが、このままでは共倒れだ。環境との繋がりが、完全に断たれている)
俺の目には、もう一つの致命的な問題が視えていた。
本来、人間は誰しもが社会という網の目の中で生かされている。しかし、グゼルの周囲には、外部社会へと繋がるべき糸が一本残らず断ち切られ、彼とロアの二人だけの閉じた世界で孤立し、ゆっくりと窒息しつつあった。
「……すまねえな、あんたたち。見ず知らずの俺たちに、こんなことをしてもらっちまって」
少し落ち着きを取り戻したのか、グゼルは自嘲気味に笑った。
メアリーはグゼルの額に冷たい布を当てながら、静かに問いかけた。
「グゼルさん。ロア君から少しだけ事情は伺いました。名誉負傷兵への支給金が止められているというのは、事実ですか?」
「……ああ。三ヶ月前、帳簿の更新だとかで役人がここに来やがった。『自立の意思が見られない』だの『法の規定を満たしていない』だの、難癖をつけてな。挙句の果てに、ロアを見つけてこう言いやがった。『怠惰な孤児を匿うような者には、救貧法の恩恵を受ける資格はない』ってな」
グゼルは悔しそうに唇を噛み締めた。
救貧法。貧困者を救うためではなく、治安を維持し、国家にとって都合の良い労働力を選別するための法。彼らにとって、生産性のない傷痍軍人と孤児の組み合わせは、まさに「切り捨てるべき対象」だったのだろう。
「理不尽な話です。あなたが国のために失ったものは、そんな紙切れ一枚の判断で反故にされていいものではない」
「……いいんだよ、もう。俺は戦うことしか知らねえ馬鹿だ。字も読めねえし、役所に乗り込む足もねえ。だがな、俺が餓死しようと、このロアだけは……」
「グゼルさん」
俺は一歩前へ出て、グゼルの言葉を遮った。
彼がどれほどの覚悟を持っていようと、その自己犠牲は誰も救わない。前世で、そういう悲劇を腐るほど見てきた。
「あなたが諦める必要はありません。役所の連中が手続きの煩雑さを盾にしてあなたを切り捨てたのなら、こちらがその事実を揃え、手続きを真っ向からこじ開けるだけです。それが、俺たちの仕事ですから」
グゼルが驚いたようにこちらを見上げた。
俺が口にしたのは、社会福祉における『権利擁護』の概念だ。自ら声を上げられない社会的弱者に代わり、その権利を主張し、不当な扱いを是正する。
ただ魔法で傷を癒やしたり、金を恵んだりするのではない。法という壁には、法と制度という正攻法で立ち向かわなければ、社会の歪みは永遠に直らない。
「トールの言う通りです。あなたの生活状況の記録、そして不当な支給停止の事実をまとめ、私たちが個別支援の計画を立てます。まずは王都の行政区画で正確な情報をぶつける必要がありますね」
メアリーが俺の言葉を引き継ぐように、力強く頷いた。
彼女の徹底した事実収集に基づく社会診断と、俺の糸を読む力。それに加えて、対象者の権利を代弁し、行政という巨大な機構と交渉するだけの具体的な『戦術』が必要だ。
「ですが、私たちのような人間が役所に乗り込んでも、門前払いされるのがオチでしょう。……どうやら、少しばかり『後ろ盾』か、同じ志を持つ『仲間』を探す必要がありそうですね」
メアリーの言葉に、俺は少し考え込んだ。
灰燼街で福祉的な活動をしている人間。思い当たる節はないが、この広大なスラムに、自分たちと同じように「環境の改善」に動いている先駆者がいてもおかしくはない。
「ロア。この街で、俺たち以外に……貧しい人たちに読み書きを教えたり、一緒に住み込んで生活の面倒を見たりしているような、少し変わった人間を知らないか?」
俺の問いかけに、ロアは少し目を丸くした後、ハッとしたように顔を上げた。
「……あ、あるよ! ここより少し東の、古いレンガの建物に……最近、変わった二人組の男が住み着いたんだ。スラムの連中を集めて、色々と教えてるって噂になってる」
二人組の男。その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、前世の歴史に刻まれたある二人の名前が閃いた。
セツルメント運動の祖。貧しい者たちと共に住まい、共に生きることを選んだ者たち。
「……メアリーさん。どうやら、私たちの次の目的地が決まったようですよ」
「ええ。この途切れた糸を社会に繋ぎ直すために、まずは彼らに会いに行きましょう」
テントの外では、相変わらず冷たい錆水が落ちる音が響いていた。
だが、グゼルとロアの間に結ばれた黄金の糸の傍らに、俺とメアリーから伸びる細くも確かな支援の糸が、静かに編み込まれようとしていた。




