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魂の織り目《ソーシャル・ファブリック》 〜剣と魔法が救えなかった世界を「制度」で救う物語〜  作者: ひより那


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第1話 灰燼に視える糸

 空は常に、薄汚れた羊皮紙のような色をしていた。

 灰燼街キーファ。かつて人類の存亡を賭けた魔王討伐戦において、最も熾烈な防衛線のひとつとなったその場所は、平和が訪れた今、王都の華やかな復興から完全に取り残されていた。

 崩れかけた石積みの家屋が肩を寄せ合うようにひしめき、細く入り組んだ路地には常にえた臭いが漂っている。下水溝には正体不明の汚泥が滞留し、行き交う人々の顔には一様に、明日への希望ではなく今日を生き延びるための疲労が張り付いていた。

 片足を失った元兵士が道端で泥水をすすり、親を亡くした子どもたちが残飯を漁る。それが、英雄たちがもたらした「平和」の吹き溜まりの現実だった。


 俺――トール・セリオンは、すり減った革靴の底でぬかるみを避けながら、その日も灰燼街の中心を歩いていた。

 前世の記憶。日本と呼ばれる世界で、社会福祉士として働き、書類の山と終わりのない面談、そして過労の果てに命を擦り減らした記憶は、今も俺の頭の中に鮮明に残っている。

 なぜ自分が剣と魔法の世界に、記憶を保持したまま転生したのかはわからない。だが、目の前に広がる光景は、形こそ違えど前世で俺が向き合い続けてきた「社会の歪み」そのものだった。


「離せ! それは僕のじゃない!」


 ふいに、路地裏から甲高い叫び声が響いた。

 足を止め、声のした方へ視線を向ける。泥に塗れたぼろ布のような服を着た痩せこけた少年が、大柄な王都の衛兵に首根っこを掴まれて宙吊りにされていた。少年の手からは、くすんだ銀色の細工が施された、小さな手鏡がこぼれ落ちている。


「黙れ、この薄汚いネズミめ。王都の商人から巻き上げたことはわかっているんだ。救貧法エリザベス・アクトを知らないとは言わせんぞ」


 衛兵は忌々しげに舌打ちをし、少年の顔を乱暴に揺さぶった。

 救貧法エリザベス・アクト。過去の女王が定めたというその法律は、この世界における最大の「壁」だった。貧しき者を「救済に値する貧民」と「怠惰な貧民」に明確に分け、後者には過酷な労働院での強制労働を科す。名誉ある負傷を負った元兵士などは前者に分類されるが、親の顔も知らない孤児の窃盗など、彼らに言わせれば完全なる「怠惰」の極みであり、懲罰の対象でしかなかった。


「その子はただ盗みをしたわけではありません。表面的な事象だけで人を裁く前に、客観的な事実エビデンスを確認すべきです」


 凛とした声が、緊迫した空気を切り裂いた。

 声の主は、灰燼街には不釣り合いなほどに身なりの整った女性だった。深い群青色のドレスに、知性を感じさせる銀縁の眼鏡。年齢は三十代半ばだろうか。彼女の立ち振る舞いには、貴族的な傲慢さではなく、確固たる信念に基づいた落ち着きがあった。


「なんだ、あんたは? こいつはれっきとした犯罪者だ。怠惰な貧民は労働院に送る、それが法というものだ」

「事実の裏付けのない決めつけは、真実から最も遠ざかる行為です。その手鏡をよく見てください。商人が売り物にするような価値のあるものですか?」


 女性の言葉に、衛兵は地面に落ちた手鏡を訝しげに睨みつけた。

 俺もまた、少し距離を詰めてそれを観察する。確かに、銀の細工は黒く変色し、肝心の鏡面は無惨にひび割れていた。お世辞にも金に換えられるような代物ではない。


「……価値があろうとなかろうと、盗みは盗みだ!」

「彼はそれを『盗んだ』のではありません。商人の荷馬車から落ちたそれを、必死に『拾い集めようとした』のです。違いますか?」


 女性が優しく問いかけると、宙吊りにされた少年は唇を噛み締めながら、小さく頷いた。だが、衛兵の怒りは収まらない。むしろ、見ず知らずの女に理詰めされたことで、彼のちっぽけな自尊心が傷つけられたようだった。衛兵は腰の剣の柄に手をかけ、威嚇するように一歩前へ出た。


「理屈をこね回すな。俺は治安維持の任務を遂行しているだけだ。邪魔をするなら、あんたも同罪とみなすぞ!」


 力による強制。対話を拒絶し、権力と暴力で事態を封殺しようとする最悪のパターンだ。

 俺は小さく息を吐き、自らの内に眠る感覚を呼び覚ました。前世で数え切れないほどのケースと向き合う中で培われた「観察眼」と「共感」。それが、このファンタジー世界で昇華し、形を成した俺だけの異能。


 世界が、ふわりと色を失う。代わりに視界に浮かび上がってきたのは、無数の『糸』だった。

 俺の眼――『魂の織りソーシャル・ファブリック』は、人々の感情、過去のトラウマ、そして他者との関係性を、色とりどりの糸として視覚化する。

 衛兵から伸びているのは、上官への恐怖と日々の鬱憤が絡み合った、濁った赤茶色の糸。彼もまた、理不尽な組織の歯車として摩耗しているだけだ。

 そして、少年の胸の中心から伸びている糸は――細く、今にも千切れそうなほどに透明な青色をしていた。その青い糸の先は、地面に落ちた割れた手鏡へと繋がっている。


(……なるほど、そういうことか)


 糸の脈動から、少年の隠された痛みが伝わってくる。あの手鏡は、単なるガラクタではない。彼の失われた記憶、あるいは大切な誰かとの数少ない繋がりを象徴するものなのだ。


 俺は静かに歩み寄り、女性と衛兵の間に立った。


「おい、お前も何だ!」

「少し、お待ちください」


 俺は衛兵に向かって両手を広げ、敵意がないことを示した。そして、地面に落ちていた手鏡を拾い上げ、付着した泥を袖でそっと拭う。

 鏡の裏側には、かすれてほとんど読めなくなっているが、古い文字が刻まれていた。


「……『愛するリリアへ』」


 俺がその文字を読み上げると、少年の体がビクリと跳ねた。

 衛兵も、いぶかしげに眉をひそめる。


「この手鏡は、彼の母親のものだったのではないでしょうか。商人の荷物に紛れ込んでいたのか、あるいはかつて質に流されたものを偶然見つけたのか……。彼はそれを、ただ取り戻したかっただけだ」

「だからなんだと言うんだ! 事情があれば法を破っていいとでも言うのか!」

「いいえ。ですが、背景を知らずに罰を与えることは、彼を根本から救うことにはなりません。罰は憎しみを生み、彼は再び同じことを繰り返すでしょう」


 俺は衛兵の目を真っ直ぐに見据えた。

 衛兵の顔が朱に染まり、苛立ちが頂点に達したのがわかった。彼は少年を乱暴に地面に投げ捨てると、ついに剣を抜き放ち、俺たちに向かって振り上げた。


「御託を並べるな! 法に逆らう者は全員――」


 剣が振り下ろされるその瞬間、俺は自らの視界に広がる糸に意識を集中した。

 少年の怯える青い糸、女性の冷静な白い糸、そして衛兵の怒りの赤い糸。それらを束ね、編み上げるようにイメージする。


 ――『不可侵の聖域セーフティ・ネット』。


 キィィンッ! 硬質な金属音が路地に響き渡った。

 衛兵の振り下ろした刃は、俺の頭上数十センチの空間で見えない壁に弾き返され、彼の腕ごと大きく後ろへ跳ね飛ばされた。

 光の盾でも、魔法の障壁でもない。ただ、そこには「攻撃を通さない」という絶対的なルールが編み込まれた空間が現出していた。


「な、なんだこれは……! 魔法か!?」

「ただの、対話のためのテーブルですよ」


 俺は動揺する衛兵に向けて、あくまで穏やかな声で告げた。

 力でねじ伏せるつもりはない。この結界は、相手を傷つけるものではなく、冷静さを取り戻させるための「間」を作るためのものだ。


「あなたが日々の警備で疲弊していることは理解しています。灰燼街の治安維持は、並の苦労ではないでしょう。ですが、ここでこの子を労働院に送れば、書類の手間が増えるだけではないですか? この手鏡の所有権は、持ち主である商人に確認する必要がありますし、その手続きは煩雑です」


 相手の不満の根源である「仕事の煩わしさ」に直接働きかける。社会資源と制度の隙間を突く、ある種の交渉術だ。

 衛兵は舌打ちをし、忌々しげに剣を鞘に収めた。見えない壁の存在と、俺の言葉に含まれる面倒くささに、戦意を削がれたのだろう。


「……チッ。勝手にしろ。だが、次に見つけたら必ず労働院にぶち込んでやるからな」


 捨て台詞を吐き、衛兵は足早に路地の奥へと消えていった。

 静寂が戻った路地で、俺は少年の前にしゃがみ込み、泥を拭った手鏡をそっと差し出した。少年は震える手でそれを受け取ると、胸に抱きしめるようにしてポロポロと涙をこぼし始めた。


「見事な介入でしたね。対象者の行動の裏にある事実エビデンスを正確に読み取り、周囲の環境をも調整してみせるとは」


 背後から、先ほどの女性が感心したような声をかけてきた。

 振り返ると、彼女は眼鏡の奥の理知的な瞳で、俺をじっと観察していた。


「いえ……俺はただ、彼に話を聞く時間を作りたかっただけです」

「素晴らしい考え方です。私はメアリー。メアリー・リッチモンドと言います。私はこの街で、貧困や犯罪を個人の責任にするのではなく、彼らを取り巻く環境との関係性を『診断』し、支援の道を構築する活動をしています」


 メアリー・リッチモンド。

 その名を聞いた瞬間、俺の脳裏に前世の記憶の欠片が閃いた。ケースワークの母と呼ばれ、慈善活動に過ぎなかった救済を、科学的・体系的なプロセスへと昇華させた社会福祉の先駆者。

 まさか、彼女も俺と同じようにこの世界に? 

 驚きを隠せない俺に向かって、彼女はふわりと微笑み、手を差し出した。


「あなたには、人々と環境の繋がりが『視えて』いるようですね。よろしければ、私のお手伝いをしていただけませんか? あなたのその力は、この灰燼街の痛みを解きほぐすための、重要な『調査』の要になるはずです」


 空は相変わらず灰色のままだった。

 だが、俺の目の前には、確かな一本の真っ白な糸が、彼女から俺へと向かって伸びてきていた。

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