児童館のせんせー
児童館とは、児童福祉法第40条に基づき、18歳未満の子供が自由に利用できる児童福祉施設である。
専門の職員・・・児童厚生員が配置され、遊びを通じて子供達の健やかな成長を支えている。
また、施設によっては学童保育(放課後児童クラブ)が併設されている事もある。
これは、そんな場所でのある日の出来事である。
十八時十分。
閉館後の児童館は、不思議な静けさに包まれていた。
ついさっきまで、走り回る足音と笑い声と泣き声が渦みたいに渦巻いていた場所なのに、今はその余韻だけが、空気の隅に残っている。
畳コーナーには、まだ少し温もりが残っている。誰かがさっきまで寝転がっていた跡みたいに、いびつに沈んだまま。積み木は中途半端に片づけられて、幾つかは床に散らばっているし、壁際の掲示板には、子供達の描いた絵が斜めにめくれかけている。
嵐の後、ね
悠子はそんな光景を横目に見ながら、テーブルを拭いた。消しゴムのカスを、ペーパーで拭く。アルコールを含ませた布で、机の表面をなぞる。すっと引いた線が、僅かに光る。
「・・・お迎え、まだかな・・・」
ため息混じりの声。悠子が視線だけ動かすと、匠が玄関横で壁かけ時計を見上げていた。
腕時計、壁かけ時計、スマホ。順番に確認して、また同じ動きを繰り返している。
わかりやすいわねぇ。
二十代後半。背が高くて、まだ少し子供っぽさの残る顔。子供には好かれるし、素直でいい子なんだけど、こういうときの落ち着かなさは、まだ隠せない。
「残っている積み木、かたづけてくれる?」
匠はハイともイイエともつかない返事をして、畳コーナーで積み木をかたづけ始める。
悠子はそれ以上何も言わずに、ペーパーを折り直した。
視線をずらすと、図書コーナーの隅。本棚の前に小さな影。
倫が一人、床に座っていた。足を軽く崩して、膝の上に本を広げている。ページをめくる指は静かで、まるで音を立てないようにしているみたいだった。
その姿は、周りの静けさとよく馴染んでいる。いるのに、いないみたいな子。
匠が少しだけ声を張る。
「倫ちゃん、ママに電話してみる?」
倫は顔を上げないまま、ほんの少しだけ首を横に振った。
「いい。ママ仕事中だから」
あっさりした言い方。でも、その言葉の端に、慣れが滲んでいる。
・・・そうよね。
悠子はペーパーをゴミ箱に捨てた。
「匠くん」
「はいっ」
「玄関の外のゴミ箱、お願いしていい?」
「あ、はい!」
助かった、みたいな顔をして、匠はすぐに動く。その背中は素直で、少しだけほっとする。
ドアが開いて、閉まる音。
児童館の中に、また静けさが戻る。
悠子は図書コーナーへ歩いた。本棚の間を抜けると、紙とインクの匂いが少し濃くなる。
倫の向かいに、ゆっくりと腰を下ろす。
「何読んでるの?」
声はいつもより少し低く、やわらかく。
「・・・これ」
見せてくれたのは、少し古い児童書。角が丸くなって、表紙も擦り切れて、色あせて、何度も読まれた形をしている。
「いいじゃない。長くここにある子ね、それ」
倫は少しだけ目を上げて、また本に視線を落とした。
無理に会話を広げない。この子には、そのくらいがちょうどいい。
悠子は、近くの棚からオセロを取り出した。箱は少し歪んでいて、蓋の端が擦れている。中の盤面は緑色だけど、所々色が剥げて、木地が見えていた。
「やる?」
盤を開きながら言うと、倫が少しだけ迷って・・・頷いた。
本を閉じて、そっと横に置く。
石を並べる音が、静かな部屋に小さく響く。カチ、カチ、と乾いた音。
最初の一手。
倫は黒を取った。
「じゃあ、倫ちゃんが先ね」
石を置く指は、思ったよりしっかりしている。
悠子は白を指先でつまみながら、盤面を見た。
この子、案外強いのよね。以前も、何度かやったことがある。派手な手は打たないけれど、きちんと考えて、じわじわ詰めてくる。
「今日、学校どうだった?」
何気なく聞く。
「・・・ふつう」
「ふつうが一番いいのよ」
白を置く。
黒がひとつ、ひっくり返る。
倫は少しだけ間を置いてから、次の手を打った。
「・・・悠子せんせーは?」
「ん?」
「今日、どうだった?」
ふっと、笑いそうになる。
「私? そうねぇ・・・」
少しだけ考えるふりをして、
「ちょっと疲れたけど、まあまあいい日」
石を置く。
倫は「そっか」と小さく言った。それ以上は、何も続かない。でも、それでいい。
会話はぽつり、ぽつり。
石の音の合間に落ちていく。
窓の外は、もう暗い。
街灯の光が、床に細く伸びている。
遅いわね。時計を見なくてもわかる。
こういう時間の伸び方は、長くここにいると覚えるものだ。
でも、焦らない。子供の前で、時間に追われる顔は見せない。
盤面に視線を戻す。黒が、少しずつ優勢になっている。
やっぱり、上手い。悠子は白石を指で転がしながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「・・・ねえ、倫ちゃん」
「なに」
「今日は、勝たせてくれない?」
倫は、ほんの一瞬だけ顔を上げて・・・小さく、首を横に振った。
「やだ」
その即答に、悠子はくすっと笑う。
いいじゃない。そのくらい、強くて。
静かな児童館の中で、石の音だけが続いていく。
嵐のあとみたいなこの場所で、まだ終わっていない時間が、そこにあった。
十八時四十分。
外の空気が、少しだけ冷えてきた頃。
児童館の前に、車がきゅっと止まる音がした。ブレーキの音は短くて、どこか焦っている。
次の瞬間、パタパタと走る足音。倫がふと顔を上げた。ガラス越しに伝わってくる音に「ママだ」と呟く。
ドアが開く。
「すみません、遅くなりました」
息を切らした声。謝罪の形をしているけれど、その実、責められる前に言ってしまおうとする・・・そんな防衛の匂いが、はっきりと混じっている。
ああ、この感じ。悠子は、一瞬でそれを見抜く。
肩で息をしている母親。髪は少し乱れていて、バッグの持ち手を強く握りしめている。目は、こちらをまっすぐ見ているようで、ほんの少しだけ揺れている。
余裕がない人の目だ。
匠が一歩前に出る。
「あの・・・」
言いかけた言葉は多分、『大丈夫ですよ』か、『もう少し早く』か、そのどちらか。悠子は、ほんの僅かに手を上げて、それを制した。視線だけで伝える。
「すみません、本当に」
重ねるように言う母親。
悠子はゆっくりと歩み寄る。急がない。距離を詰めすぎない。
「お疲れ様です」
それだけを、静かに。
一瞬、母親の表情がほどけた。ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
それでいいの。ここで必要なのは、正しさじゃない。
責めない空気。
悠子はそのまま、視線を横へ移した。
「倫ちゃん、忘れ物しないでね」
図書コーナーのそばで、ランドセルを背負っている小さな背中。倫は、きちんと本を元の場所に戻してから、ランドセルを持ち上げていた。
その動きは静かで、無駄がない。
ほんと、しっかりしてる。
子供らしい雑さよりも、迷惑をかけないようにが先に来る動き。それが少しだけ、胸に引っかかる。
倫が振り向く。その目は、さっきまでオセロをしていたときと同じで、落ち着いている。
「倫ちゃん、今日・・・」
悠子は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「オセロで、私に勝ったんですよ」
母親が、はっとしたように倫を見る。叱られる前提で構えていた空気が、少しだけ崩れる。
「え・・・そうなの?」
倫は、ほんのわずかに頷いた。誇らしげでもなく、かといって隠すでもなく。ただ、事実として。
倫ちゃんのこういうところ、好きよ。
悠子は、余計な事を言わない。『遅かったですね』も、『気をつけてください』も、口にはしない。代わりに、別の形で場を整える。
「ありがとうございました」
母親が、少しだけ深く頭を下げる。その声には、さっきよりもほんの少し余裕が戻っている。
「ほら、倫。ご挨拶」
促されて、倫がこちらを見る。
「さようなら~」
少しだけ間延びした声。
でも、それがちゃんと子供に戻った合図みたいで、悠子は内心でほっとする。
「はい、さようなら」
悠子は、やわらかく返した。
ドアが閉まる。
足音が遠ざかる。
車のエンジン音が、やがて夜に溶けていく。
静けさが、戻る。
匠が、ふっと息を吐いた。
「・・・何か、緊張しますね、ああいうの」
苦笑い。肩の力が抜けきっていない。
まあ、そうよね。
まだ、正しさで動こうとする年頃。悪くない。でも、それだけじゃ足りない場面もある。
「匠さん」
「はい?」
「先に出ていいわよ」
一瞬、目を丸くしてから、すぐに表情が明るくなる。
「え、いいんですか? ありがとうございます~お先に~」
声が少し弾んでいる。足取りも軽い。ドアに向かう背中は、さっきよりずっと素直で、年相応に見えた。
ああいう顔、するのよね。まだ若い。だから、出来るだけちゃんと帰らせる。
ドアが閉まると、今度こそ完全な静寂。
悠子は、館内をもう一度ゆっくり見て回る。
窓の鍵。
非常口。
電気の消し忘れ。
エアコン。トイレ。忘れ物。
ひとつひとつ、指先で確かめる。誰もいない空間は、さっきよりも広く感じる。
子供達の声がないだけで、こんなにも違う。いる時は跳んで跳ねて、走り回って、ケンカして、泣いて暴れて…本当に場所が足りないのに。
今日も、終わりね。
玄関に戻る。
靴箱の上に置かれた忘れ物はない。
床も、さっきより綺麗になっている。
悠子は玄関を見回した。
さっきまで誰かがいた場所。
笑っていた場所。
少しだけ寂しさを残して、そこにある。
また、明日。
誰に言うでもなく、心の中で呟く。
外に出て鍵を差し込み、そして、静かにドアを閉めた。
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