『そのスープは、誰のため』
人間と言うものは、つくづく不可解な存在だ。
痛ければ涙を流し、嬉しければ笑う。
その反応はあまりに単純で予測しやすく、けれどもある瞬間だけはとてつもなく厄介だ。
“理屈を超えて動く”という、煩わしい特性を持っている。
この身体の主の目を通して、長年世界を眺めてきた。
身体の主が何を思い、何に傷つき、誰を守ろうとしたのか。
かつては理解しようとした時期もあった。だが無意味だった。
人間の中でも、身体の主は特に面倒な部類に属していた。
だが、一つだけ確かな真理があった。
人間はあまりにも醜く、愚かだと言うことを。
欲にまみれ、互いに傷つけあい、愛を語りながらも平気で裏切る。
それが彼らの“本質”だ。
そんなものの作った食べ物など、口にできるわけがない。
だからこそ、今目の前に置かれているそれに、手を付ける気など――
「いつまでスープを見てるつもり?」
不意に割り込んできた、甲高い声。
身体の主の”友人”。
テーブルの上には、温かい赤い液体。
ナカイはつぶれかけのジャガイモ、皮付きの人参、かすかに焦げた香草。
雑な超織。彩も構成も無様だ。
「冷めるんだけど」
ミカエルは、視線だけをゆっくりと女に向ける。
その額には、ジワリと怒りが浮かんでいる。
「……お前、誰にモノ言っているのか分かっているのか?」
「なに? 作ってもらっているのに上から目線?」
「俺は――」
「“あんた”が食べなくても、身体は食べなきゃ動かないの。矜持とか尊厳とか知らないけれど、そのスープはあんたのためじゃなくて、あんたが乗っ取っている友人のためのものなんだけど」
言葉を挟む隙もなく、彼女は言い放った。
ミカエルは一瞬、返す言葉を失ったが——
「スプーン、使ったことないとか言わないでね」
最後の一言に、さすがにムッとする。
黙ってスプーンを使い、ジャガイモをすくい、口に入れる。
――味がしない。いや、する。だが、薄い。
「なんだ、食べられるじゃない」
そういって、女はニコッと笑った。
その笑顔が何となく癪で、ミカエルは視線を逸らす。
「……お前の料理は味が薄い。それに見た目も。なんなんだ、このジャガイモの切り――っ」
言い終える前に、足に激痛が走る。
テーブルの下で、彼女のブーツが思い切り蹴りを入れてきた。
「何か言った?」
笑っている。けれどその笑みは、明らかに“怒っている”顔だ。
「……人間風情が。誰にモノを言っているのか、自覚しているのか?」
「私の友人の身体を勝手に使っている、糞野郎、でしょ? ああ、それと。スープ一杯飲むのにも3日もかかる、ひねくれ者でもあるわね」
「っ……」
喉が詰まるような思いがした。
この女は、恐怖というものを知らないのか。
それとも、“無知”という名の最強の免罪符でも振りかざしているのか。
今この瞬間、女を殺すことは容易い。
その事実にすら気づいていないこの愚かな人間を、指一本で屈服させることなど造作もない。
そう思って、手を伸ばす。
けれど、脳裏にさっきの笑顔が過った。
たった一口、スープを飲んだだけで笑った、無防備な笑顔が。
伸ばした手が止まる。
止まった手は、不自然なほど宙に浮き、その先にあったパンを仕方なく取った。
硬い。硬いパンは嫌いだ。
ただ、パンと一緒に食べた女の作ったスープは先ほどよりはましだった。
【登場人物】
ミカエル:スープを飲む。神の友人。人間の体を一時的に乗っ取っている
クロエ:ミカエルにスープを飲ませる。ミカエルが乗っ取った体の持ち主とは友人