たまたまのカード
金曜日の夕方
Aさんは、今夜の飲み会を楽しみにしていた。
部署横断の交流会で、仲のいいメンバーが久しぶりに集まる。
その場をちょっと盛り上げようと、Aさんは一枚のジョークカードを忍ばせていた。
赤いハートに金の箔押しで大きく、
「愛してるわ、あなた♥」
と書かれたギャググッズ。
下の余白には「ありすより」と小さく名前も入っている。
「これ、絶対ウケるって……」
誰かのバッグにそっと忍ばせて、「えっ、何これ!?」と笑わせる。
それだけの、無邪気なイタズラのつもりだった。
カードは手帳の間に挟み、Aさんは集合場所へと急いでいた。
飲み会の会場は駅前のビル。
電車を降りた人たちが一斉に改札に向かう時間帯、駅構内はごった返していた。
Aさんもその流れに混じりながら小走りで歩いていたそのとき――
ガツン。
人の波の中、すれ違いざまに誰かと軽くぶつかった。
肩が少し当たっただけだったが、勢いがあった。
「すみませんっ……!」
反射的に声をかけながら、Aさんはそのまま歩を進めた。
急いでいたし、相手の顔もよく見えなかった。
だがその衝撃で、手帳の中からカードがひらりと抜け出し、
まるで吸い込まれるように――
Bさんの外ポケットに、舞い込んだのだった。
ただすれ違っただけの赤の他人。
カードは、何の気配もなくそのポケットに収まった。
Aさんは気づかず、Bさんも当然気づかない。
今夜、ひと笑いの予定だったはずの小道具は、
まったく想定外の場所へ、運命のいたずらのように滑り込んでしまった――
そして、その静かな誤解の幕が、ゆっくりと開きはじめる。
夜。
風呂上がりの奥さんは洗面所で髪を乾かしていた。
ドライヤーの音がゆるく響く中、鏡越しにリビングの明かりがぼんやり映る。
その明かりの下では、旦那さん――Bさんがソファでうたた寝していた。
ネクタイを緩めたまま、片方の靴下を脱ぎかけて、無防備に眠っている。
「もー……またカバン出しっぱなし……」
小さく息を吐いて、奥さんはドライヤーを止めると、リビングに歩み寄る。
テーブル脇の椅子に置かれたビジネスバッグを持ち上げ、整理を始めた。
財布、名刺入れ、折れかけのレシート。
そして、ふと手を入れた外ポケットの奥――
指先に触れたのは、なめらかな紙。
つまみ出して見たそれは、
赤いハートに金の文字が踊る一枚のカードだった。
「愛してるわ、あなた♥」
ありす より
奥さんは、数秒、そのカードを見つめていた。
「……なにこれ?」
静かな声。
ソファの上でBさんがもぞりと動く。
「……え?」
「“愛してるわ、あなた”って、書いてある。誰に言われたの?」
「え、ち、ちがう、これは、えっと、会社で……」
「会社にありすさん?」
「いや、たぶん誰かが落としたやつで、僕のカバンに間違って……」
「ふうん。“ありす”って誰?」
「し、知らない! 本当に知らないってば!」
「へえ……“知らない女に愛される男”になったんだね」
奥さんはカードをテーブルに置くと、くるりと背を向けて寝室へと歩いていった。
その背中には、怒りも笑いもない――ただ、静かすぎる夜の余韻。
Bさんは、起き上がることもできず、
カードを見つめながら、心臓の音ばかりがやたらと響いていた。
そして、ソファの上。
ふたりの間に、赤いハートが一枚――妙に艶やかに転がっていた。
翌朝。
目覚ましが鳴ったとき、Bさんはすでに目を開けていた。
ほとんど眠れなかった。
カードのハートが瞼の裏に焼きついていて、
何度寝返りを打っても、奥さんの背中は遠いままだった。
「……あのさ、昨日のことなんだけど」
恐る恐る声をかけると、奥さんは黙ったまま洗面所へ向かっていった。
顔を合わせようとしない。
朝食は並んでいたが、会話は一切なかった。
箸の音と時計の秒針だけが、やけに耳につく。
「ちょっと待って、ほんとに違うんだって。
あれ、会社の誰かのカードで……ふざけたやつなんだよ。たぶん飲み会で誰かが……」
奥さんは黙ってコーヒーを啜った。
「俺、昨日の帰り、改札のところで誰かとぶつかって……たぶんそのとき、偶然……」
「へえ。じゃあ、その“偶然”の女の名前は“ありす”なんだ?」
「いや、それが誰かは本当にわからなくて……!」
「へえ、“わからない誰か”に“愛してるわ、あなた”って言われたの、偶然?」
「じゃーストーカーでもいるのかしら、怖いわ!!」
刺すような言葉。
Bさんの額に冷たい汗が滲む。
「違うってば! 信じてよ、ほんとにやましいことなんて何も……」
「やましいなんて思ってないよ?何もしてない人の鞄に、こんなカード、入る?」
言葉が詰まる。
いくら誠実に並べても、証明できない無実はただの空論に近い。
「……時間ない。もう出るから」
奥さんは立ち上がり、洗い物もせずそのまま部屋を出た。
Bさんはひとり、テーブルに取り残された。
冷めた味噌汁を見つめながら、心も冷えていく。
「……なんで、こうなるんだよ……」
スーツに着替えながら、駅までの道を歩きながら、
何度も説明の言葉を練り直すが――もう届かないような気がしていた。
玄関を出る前にもう一度、振り返った。
奥さんは何も言わなかった。
まるで、その背中がすべての答えだとでも言うように。
ドアが閉まり、
赤いカードは、いまもテーブルの上に置かれたままだった。
艶やかに、沈黙とともに。
夜。
奥さんが帰宅すると、家は静まり返っていた。
Bさんの靴はある。
どうやら今日は早く帰っていたようだ。
玄関に置かれたカバンと、テーブルの上の――例のカード。
一日中、ずっと胸の奥に引っかかっていたその言葉。
「愛してるわ、あなた♥」
ありす より
奥さんはそっとカードを裏返した。
そこには、小さく印刷された企業ロゴ。
「笑福堂・イベント企画部」
—PARTY GOODS / バレンタイン特化アイテム—
「……なんだ、これ……冗談グッズ?」
数秒沈黙した後、思わずくすりと笑ってしまった。
昨日の夜と今朝の自分の反応を思い返し、恥ずかしさと申し訳なさが胸に広がる。
でも、
「だからって、何も言わずに済ませるのはもったいない」
奥さんは、そっとカードを元の場所に戻した。
そして、リビングのドアを開ける。
Bさんはソファでぼんやりテレビを見ていた。
彼女の気配に、わずかに肩をすくめる。
奥さんは何も言わず、彼の正面に立ち、
あのカードを――ふわりと彼の膝の上に置いた。
「ねえ、“ありす”って、どんな人だったの?」
冗談めかして言ったつもりだった。
だけど、Bさんの顔は一瞬こわばる。
「ま、まだ言う……?もうそれ、冗談グッズだったってわかったんじゃないの?」
「うん、わかった。でも……もう少し心配してもいいでしょ?」
奥さんはふふっと笑いながら、彼の隣に腰を下ろす。
「だって、あなたがもし他の人に“愛してる”って言われたら、きっと……悲しいもん」
その声は、どこか寂しげだった。
ようやく、核心が見えた。
Bさんはそっと手を伸ばし、奥さんの手を取る。
「ごめん。驚かせて、ごめん。信じてほしかったんだ」
「……うん。信じてるよ。信じてるけど……ちょっとだけ怒ってた」
「俺も、あのまま喧嘩したままなの、つらかった」
「……私も」
そのまま、2人は肩を寄せて、
しばらくテレビの音だけを聞いていた。
何でもない静けさが、ようやく戻ってきた。
テーブルの上のカードは、
今やただの悪ノリの遺物でしかない。
だが――
「愛してるわ、あなた♥」の言葉だけは、
少しだけ形を変えて、ちゃんと心に届いていた。
そして、週末。
奥さんは密かに新しいカードを用意していた。
赤いハートに、今度は自分の手書きでこう書いた。
「ほんとに愛してるのは、私だけにしてね♥」
Bさんはそれを見て、照れ笑いしながら、静かにうなずいた。
◆さて、この話。
「誰が悪いのか?」
カードを落としたAさんか?
気づかずに持ち帰ったBさんか?
確かめずに疑った奥さんか?
それとも……こういうジョークグッズを作った会社か?
あなたはどう思いますか?