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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

トイレで出会ったのが運の尽き

「イヴァシーの玉無し野郎のあの顔見たかよ!」

「あの命乞いは傑作だったな!」

「だろう!あいつ前々から気に食わなかったんだ。兄貴たちから騒ぎ起こすなって言われてたから見逃してやってたけど、ずっとあの顔面にぶち込んでやりたかったんだ」

「ムカつく奴をブチのめせたし、金まで手に入るなんて、俺たちついてるな」

「おう。」

「トリフォーンの奴も最近、羽振りがいいし、俺たちもここから成りあがるぜ!」

「そうだな!」

声の感じからして、タラースとユーリだな。ここの常連さん。

こんな便所で吠えてりゃ世話ないよ。

というか、終わったんならさっさと帰れ。遅漏は歓迎されないぞ。

1番手前の個室のアジンに相手してもらっていたみたいだけど、アジンがさっきから黙っているってことは、おクスリでトびすぎているか、お粗末すぎたから寝ているかのどっちかかな。

「痛い…」

タラースとユーリも出て行ったみたいで、トイレ全体が静かになった。

さっき私が相手した客、加減せずに殴っていきやがった。しかも顔面。

個室内に設置してある小さな洗面台の蛇口をひねって水を出し、顔にあてていた布をもう一度冷やす。

あーあ、この顔じゃ今日はもう客はとれないな。ついてない。

ガチャ

「すみません。今日はもう掃除(へいてん)なんで…す」

個室に入ってきたのは、金髪のえらく顔が整った男だった。

扉を閉じたあと、その扉にもたれかかるように座り込む。

「あの、大丈夫ですか」

これ以上の厄介事はやめて欲しい。

「暫くしたら出ていくから、黙って少しの間、ここに居させてくれ」

ぐしゃぐしゃの札を何枚か押し付けてきて、そのままぐったりと黙った。

わき腹を手で押さえている。血の匂いがしているから、怪我をしている。多分刺されたのかな。

こんな底辺の娼婦の部屋に、ケガをした、見知らぬ男。

「おーまじか…」

渇いた独り言しか出ない。厄介事確定だ。まぁ、追い出そうにもチビの私には、この男を運ぶことができないしな。

死んだら厄介だし。仕方ない。

「ダンナ〜、触るよ」

精々止血くらいしかできないけど、やらないよりマシだろう。さっさと気付いて、自分の足で出て行ってくれ。

ダンナの手をどけて、シャツのボタンをはずして、前を広げる。わき腹に刺し傷があった。

なるべく清潔な布を傷口に当てて、包帯を巻く。

傷口と出血の感じから見て、そんなに深く刺されていない。内臓が傷ついていたら危ないけど、ダンナは筋肉もそれなりについているし、腸は意外と丈夫だからなんとかなるかな。あとは刺したナイフが錆だらけじゃないことを祈ろう。

ダンナの服を元に戻しつつ、いつもの癖で、服、腕時計、靴をチェックしてしまう。

どれもかなり上等なもの。髪や爪も手入れが行き届いていて、肌つやもいい。

金を持っているか、金持ちに飼われているかのどっちかだ。どちらにしろこれ以上の詮索は不要。もちろん、ジャケットの内ポケットからチラ見えしている財布も、腰に忍ばせている銃にも指一本ふれない。

耳と目と口に蓋をするのが、長生きのコツだから。

「ダンナ、起きたらさっさと病院行くんだよ」

それだけ言って、私は寝床にもぐりこんだ。


朝、起きるとダンナはいなくなっていた。よかった。気が付いて、出て行ったみたいだ。

これがダンナとの出会いだった。この時はもう2度目はないって思っていたんだけどな。全然そんなことなかった。



天井近くの小さい窓を全開にする。日は登り切っていて、差し込む光は明るい。この島は夜行性だから今は夢の中。静かなまどろんだ匂いがする。

天井付近の空間は、寝床にしているハンモックロフトを張っているので、網の上にある布を畳む。

敷布に日があたる。青い小鳥の模様がかわいい。うん、お店ですごく迷ったけど、これにしてよかった。

窓を開けたことにより、換気がとれた。

コップに水を汲む。これは消火用の水。無事に終わったら飲み水になる。

小型のガスバーナーコンロに鍋を置いて、トマト缶を入れて着火。このガスバーナーコンロ、手に入れるのに苦労したし、値段もお花摘みにはつらい額だったけど、いい買い物だった。温かい食べ物が食べられる暮らし、イイ。

トマト缶のトマトは丸のままなので、フォークでグシグシ潰す。煮立ってきたら、刻んだニンニク、缶詰のコーン、ウインナーを入れる。ウインナーは出汁をだす役割もあるから、適当な大きさにちぎる。クツクツ煮たら、味見をしながら塩と胡椒で味付けする。簡単トマトスープの出来上がり。

コツらしいコツもないけど、トマトは火が通ると甘みが増すから、少し長めに煮ると、酸味の角が取れた優しい味になる。

「いただきます」

手を合わせて、糧となる命に感謝する。

この作法はこのあたりのものじゃなくて、極東のものだ。お母さんが極東の出身だった。私が生まれたときにはすでに離れていて、親子二人でいろんなところを旅していた。極東はこの国よりさらに東にある小さな島国で、黒髪とこげ茶の瞳を持った人たちの独自の文化があったらしい。大昔は栄えていたらしいけれど、今はもう衰退している。お母さんがこっちに渡ってきたすぐ後には港は閉じられたんだって。

「うん。今日もうまくいった」

トマトスープを口に入れたら、優しい酸味とトマトの甘みが口に広がる。コーンは煮てもシャキシャキ感があってトマトとは異なる甘みでおいしい。

さらにひと口二口と食べ進めていく。

ウインナーは、じゅわりと肉汁と旨味が溢れてくる。やっぱり野菜だけだと、この旨味の層が出ないもんなあ。お肉大事だわ。

お腹がきゅるると動き出す。体が起きて、エンジンがかかってきたのがわかる。

ニンニクの香りと塩が全体を引き締めてくれて、胡椒のピリッとした刺激がいいアクセント。そして影の主役が温度。冷たいと脂は固まり、味も閉じてしまう。この温かさによっていろんな味が調和し開いていく。

「ふぅ…ごちそうさまでした」

最後のひと匙まで飲み干し。幸せのため息をつく。

お腹から体の隅々に熱と栄養が行き渡るのを感じる。この充足感は、出来立てを食べた時に一番感じる。

欲を言えば、オリーブ油垂らしたい。あとチーズも絶対相性良いと思う。野菜もピーマン追加したいんだよね。あの緑欲しい。でもみんな高いしなあ、何よりここは給水タンクによる水冷しかできないから、保存が難しいんだよね。

「トリー、匂いが…うっ」

「あ、ごめん」

左の壁の向こうから遠慮がちに声をかけられた。

慌てて、小さな洗面台に鍋を突っ込み、水をかける。あんまり効果はないかもしれないが窓に向かって扇いで匂いを外へ出す。

隣の2番の個室にいるお花摘みはドーバという子で、妊娠している。

こんな環境でも赤ん坊はすくすく成長していて、ドーバのお腹も日ごとに大きくなっている。

「ドーバ、これお詫びの品物。投げるよ」

「うん」

「ほいっ」

「おっとと。ありがとう」

ドーバが落ち着いたのを見計らった、グレープフルーツジュースのパックを壁越しに投げて渡す。ドーバもこのジュースは飲めるみたいだから。

「大丈夫?ちゃんと食べれている?」

「お金は…オプションだけで何とか稼げてる。ただ、食べられるものがどんどん少なくなっていってて」

「お金あっても、食べられるものがないのは辛いね。買い物、行くから声かけてね」

「ありがとう…あふ」

ドーバの声が眠気でとろけている。眠気も増しているみたい。

「ヤーガ婆の集金はどうせお昼回ってからだし、ゆっくり寝なよ。起こしてあげる」

「うん…おやすみ」

洗い物をして、個室の掃除をする。ちなみに掃除は、比喩ではなく便器が舐められるほど徹底的に行う。トイレを利用する客は、お花摘みの顔を便器に突っ込んで興奮する奴が少なからずいるから、ここを衛生的に保つことは自分の健康に直結する。

それに、割れた一枚の窓ガラスから建物が荒れていくのと同じで、荒れた個室の娼婦は客から扱いがひどくなる。掃除は命を守る行いでもあるんだ。

「最近見ないと思ったら、川ん中に引っ越していたんだ」

新聞の片隅にタラースとユーリの死体が川から上がったと載っていた。おそらくこの前自慢していたリンチの報復を受けたんだと思う。

この島ラトマノフは、ありとあらゆる快楽に応える娼館を詰め込んだ歓楽島だ。小さな島に千以上の店が積み重なり、何万という人間が生活をしている。

土地がないものだから、建物は上と下に延び、地上30階地下30階なんていう超巨大な娼館もある。

そして、そこで働く人間も上と下に延び、上は国さえ買えるほどの力と金を持ち、下は鼻が溶けてもパンひとかけらのために体を売る。

娼館の裏がクリーンなんてことはないから、大体どの店も『悪い組織』とつながっている。代表的な悪い組織は『ヴィナグラード』と『イヴァシー』の2つ。同じくらいの規模で小競り合いを繰り返し、お互いを牽制し合っている。大方の店がそのどちらかの縄張りに入っている。

私がいる娼館『ヴァローナ』はヴィナグラードの縄張り。

島は近くに『本国』と呼ばれる大陸があって、その大陸に面した港付近が一番栄えており、遠くなるほど寂れていく。当然娼館の質も治安も悪化する。島全体の治安が基本的によくないけど、少なくとも港付近の道端に死体は転がっていない。

ヴァローナは、中の上くらいの場所にある。商品の種類はそれなりに広くて、量も質もそこそこで、まさに中堅の娼館だ。

んで、この島の娼館の大体に当てはまることなんだけど、常にスペースが足りない。建物を上に積み上げるにしても金が要る。金を稼ぐには商品が必要で、商品を置くにはスペースが必要で…結果として部屋を細かく区切り、何ならトイレにも商品、つまり娼婦を置いた。

トイレ付の娼婦、通称『お花摘み』。娼館の最下層の娼婦だ。

催したついでに、こちらもスッキリしていけって具合の商売だから、扱いも推し量れると思う。

私が10歳になったころ、お母さんとこの娼館に身を寄せた。その時は一部屋もらえていたんだけど、15歳の時お母さんが死んで、私はお花摘みとしてトイレに落とされた。そこから何とか生き延びて今に至る。

お花摘みの命は短い。ひどい客につかまって殺されるか、この状況に耐えられなくなって自殺するか逃げ出すか、どのみち長くて半年だ。

私みたいに5年も続けているのは、とても珍しい。

私もここを出たいんだけどね。今、出たとしても私みたいな力のない小娘はすぐに殺されてしまう。

お花摘みになった時点で、娼館の娘ではなくなる。トイレの個室を借りるので、娼館とお花摘みは大家と店子の関係になる。なので、上の階にいる娼婦は食事も服も用意されるし、病気になれば医者にかかることもできるが、お花摘みにそれはない。

それでも、雨を防ぐ建物の中で眠ることが出来るし、娼館には護衛がいるので安全もある程度は確保されている。なにより、娼館の看板を借りて商売ができる。この島でフリーの娼婦はご法度だ。必ずどこかの娼館に所属しなければならない。もし勝手に商売をしているところを見つかったら、有無を言わさず殺される。

ここを出るなら、別の娼館で働くか、違う商売をするか、パトロンを見つけるか、どちらにしても金と人脈が必要で、私にはまだどちらも足りない。

此処の生活もあと何年もできないけど、まだ外には出ていけない。今はまだ耐える時期。



ギシッ

「うっ…」

便器に座ったアレクセイは、膝の上の私を力任せに抱きしめる。

骨がきしむほど抱きしめるっていう表現はあるけど、ホントに骨がきしむほど力任せに抱きしめてはいけない。苦しくて胸に沸くのはむかつきだけだから。

「トリー、なぁトリー」

返事が欲しかったら、力を緩めてくれ。声が出ない…あと3秒以内に緩めなかったらアンタが飲ませた精液ぶちまけるぞ。

「どうしたの?今日はやけに激しいのね」

やっと離してくれた。あー死ぬかと思った。

しっかしどうしたんだろ。アレクセイはここの来る連中の中では比較的マシで、あんまり乱暴なことはしないんだけどな。

「あー…今日はちょっと、昂ぶっちゃって」

「そっか」

今度は私を後ろから包み込むように抱っこして、頭に顎をのせる。

「トリーの大きさちょうどいいよね。俺、あんまりでかくないから、トリーくらい小さくないとこんな風に抱っこできないし、顎も置けない」

「ふふっ、役に立ってよかった」

ちなみにこの国の人間は男で180cm、女で160cmくらいある。アレクセは…170くらいだったはず。私は140㎝くらいでこの国だとだいたい10歳の子供の大きさだ。極東種は小柄だけどそのなかでもチビ。でもこの体格は何かと便利だ。天井のハンモックロフトでもなんとか眠れるし、幼い女の子と致したい層に需要もあるし。

「ケーキ、買ってきたらから食べよう」

「ありがとう」

客が持ってきた飲食物は口にしない。何が入っているかわからないからだ。アレクセイが初めてケーキを持ってきたときに、それを理由にやんわりと断った。その次の時、今度はケーキを1つだけ持ってきて『これなら安心だろ。一緒に食べて』と自分から一口食べた。そこからアレクセイが持ってきたケーキは食べるようになった。

アレクセイがケーキにナニか仕込んで、自分は解毒薬を飲んで食べている可能性はない。解毒薬があるようなまともな薬は高いから、チンピラには手が出せない。

「今更だけどさ、トイレで食べるの大丈夫?」

「大丈夫だよ。トリーだって毎日食べているでしょ」

「そりゃ、私にとってはここが家でもあるんだし、慣れているけどさ」

他愛ない話が続いていく。アレクセイは私の黒髪をなでたりいじったりしている。妹がいたって言っていたな。…それでかな、手が優しい。

「花屋でひまわりを見たよ。少し早いよね」

「そうね。ひまわりの季節はもう少し先だもの」

「俺が生まれた村はね、なんも無いとこだけど。一面のひまわり畑があるんだ」

「きれいでしょうね」

あー…これは、やばいパターンじゃないか。

反射で返したけど。このやたらと純度の高い優しさを含めた声。何かを諦めざるを得なくて、何かを覚悟した人間の、声

「うん。すごくきれいだよ。ほんとにずっと向こうまで黄色が広がっていてね」

この辺の連中は、何人殺しただとか、金をいくら持っているだとか、自分を大きく見せることはわめき散らすけど、故郷のことは喋らない。喋るときは、誰かに覚えてもらいたい時だ。残せるものが思い出くらいしかないから。

「いつか連れて行ってね」

怖々と、でも投げるように渡されたから、なんでもないように、しっかり大切に受け止めた。そのことが伝わる声音だったかな。

「…うん。いいよ」

アレクセイ、あんた今どんな顔しているの。恐怖で震えているくせに、優しく私を抱きしめるあんたは。


「あれま、始まったか」

生理用ナプキンを付けてレバーを引く。

ジャアアア

流れる水を見ながら、さっき見送ったアレクセイの背中を思い出す。彼はもう二度とここには来ない。

なぜだかわからないけど、思い出を託す人間に選んでもらったんだから、ちゃんと覚えておかないと。ひまわりが好きで、苺が苦手なくせにいつも苺のケーキを買ってきてくれた、優しい彼のことを。


「こんばんは」

「悪いけど、掃除中(休業中)なんだ…ってダンナか。傷はどう?」

生理中は当然だけど、商売ができない。あえて生理中にヤりたいというド変態もいるけどね。生理中は休暇と決めて休む。この仕事は体が資本だから、休む時間もちゃんと作っておかないと。

「お陰様で、問題ないよ」

「そりゃよかった」

来たのは、前にここで倒れた男だ。生きていてよかった。

「1番と2番は営業しているみたいだけど、君はお休みなの?」

「金さえ稼げれば、いつやるかは本人の自由よ。私、稼いでいるから」

嘘だ。今月は結構ピンチ。正直生理来てほしくなかった。

「…メンスか」

ダンナは鼻をすんって鳴らして、妙に男臭く笑った。

「よく利く鼻をお持ちなことで」

「職業柄、血の匂いに敏感なんだ。特に女の子の血は少し甘い香りがするからよく分かるよ」

匂いじゃなくて香りと表現するあたり、美しいのは顔だけみたい。

「そうだ。これ返すよ」

寝床にしているハンモックロフトを漁る。このトイレで寝ようとすると、便器に座ったままになるんだけど、これが毎日だと、体に響く。何より私は座ったままだと眠ることが出来ない。なんとか横になるスペースを考えた結果、高い天井に目をつけてロープと麻布でハンモックロフトを作った。

んで、この寝床には日用品や食料、売上金なども置いている。

この前、ダンナが置いていったお金のうち余分を差し出した。

「なんで?」

「この前は仕事していないもの」

「一晩居座って、君の場所と時間を拘束したでしょ」

「1時間1,000エーブル、一晩なら5,000エーブル。包帯と薬代の差し引いても10万エーブルなんてもらいすぎ」

「そうなんだ。このあたりの相場が分からなくて。でも一度出した金は引っ込めない主義なんだ」

ダンナは微笑んで、両手をポケットに入れた。ほんとに受け取る気がないのね。

「ヴィナグラードの客人は儲かるんだね。お花摘みにこれだけ渡すなんて」

「僕のこと知っていてくれるんだ」

「有名人だもの。本島からきたヴィナグラードの客人。金髪に青い目の聖人みたい美しい男って」

この島の噂話は隼より早い。特にいい男の話はさらに加速する。

「ははっ、うれしいね」

「私もプロだから、仕事以上のお金は受け取りたくないんだ」

うーん困ったな。

タダと余計なお金は後が怖い。過去のアクシデントが浮かんでくるけど、あれもこれもタダとかチップ奮発とかだったな。うん。適正価格だいじ。

「口か手で抜くのはどう?気持ちよくしてあげる」

「申し出はありがたいけど、君は好みじゃないからいいや」

ダンナは、笑顔でバッサリ言った。正直者だ。

「あ、じゃあちょっと面白いもの見せてあげる」

私は少し考えて、久々にアレをすることにした。

寝床から皿を取り出して水を入れる。そこに血を一滴おとす。

水面が凪いで鏡のようになったら自分の顔を映して、おまじない言葉を唱える。

「この血の源流、始祖なる女神様。水と豊穣を司る女神様。あなたの子供がお願い申し上げます。湧き出でて過去から未来へ流れる時のこと。地中に走る水脈のごとく数多ある縁について、雨粒のごとく数ある未来ついて、そのひとかけらをお見せください」

私の血筋は代々占いができる。なんでも極東の女神様の血が入っているかららしい。大昔は、結構大きな一門でこの占い方法も体系化していたみたいだけど、今はほとんど伝わっていない。私も知っていることは、お母さんに教えてもらったこのおまじない言葉といくつかのルールだけ。当たる確率は、ムラがあるから余興にしか使えない。

「鰯は足が早い、葡萄は接ぎ木に失敗して腐りかけ。晩餐には鰯の葡萄ソースがおすすめ。包丁の代わりに産婆のメスを使うと上手く調理ができる。晩餐の相手には金の鷲を選ぶといい。いつかは食らう相手であっても…ぐぇっ!」

ばしゃん!!

占いの最後の一文を聞いた瞬間、ダンナは私の首を締め上げた。

皿が床に落ちて、床が水浸しになる。

「なにを、知っている」

顔は表情が抜け落ちて、何の感情も読み取れない。

気道と血管を絶妙な力で圧迫するから、気絶する寸前で血と酸素が流れ、苦しみがずっと続く。

「かひゅっ…」

ぎりっ

苦しい、心臓が耳の奥に移動してきたみたいに、脈がドクドクとうるさい。

「答えろ。何を知っている。このまま首をへし折ろうか」

力を振り絞って、占いの時特有の瞳孔と虹彩の区別がない穴のように黒々としているであろう目を指さし、次に壁のマークを指さす。横線の上に一つ目。『水盤と瞳』のマークは占い師を表す。

「『水盤と瞳』の印がどうしたって。まさか本物の占い師だと?今時子供でも信じないよ」

私を指したんじゃない。私の瞳を指したんだ。よく視ろ!

目を見開いて、ダンナを睨みつける。やばい…視界が狭くなってきた。

「その眼は…」

やっと外れた。

「ゲホゲホッ…ゴフッ」

空気が一気に入ってきて、さっきより苦しい。

「はあ、はあっ…」

涎がだらだら出る。失禁しなかっただけマシか。

「信じて、もらえてよかった」

「意外と地味だね。初めてみたよ『見透かしの穴』」

「赤とか金とかに変われば、まだわかりやすいんだけどね」

『見透かしの穴』とは、占い師特有の瞳のことだ。普段は普通の瞳だが、占う際に瞳孔と虹彩が穴のように真っ黒になる。反射による煌めきもない。

見透かしの穴を持っていると謳う占い師は大抵、色ガラスか着色手術によるインチキで、本物は滅多にいない。私もお母さん以外に出会ったことがない。

「極東種はもともと、瞳がこげ茶だから、余計分かりにくいんだよ」

「うん。君は目が小さいから特にね。しかし、君が本物の占い師なら、さっき言ったことは…」

「ほんとに視えた内容だよ。ダンナが疑っているようなものじゃない」

教えてもいない情報を知っている私を危険とみなし、間髪入れず攻撃してきた。ダンナはこのあたりのチンピラとは比べ物にならない、本物だ。

聖人みたいな穏やかな笑顔が、今はゾッとする。

「随分と婉曲的な表現を使うんだね」

「そのほうが占いっぽいだろ。それに細かいとこごまかせるし」

「じゃあ、外れたりするの?」

なんだろ、この問いには慎重に答えたほうがいい気がする。

「3回に1回くらいは外れるかな」

端的に本当のことだけを伝える。

「よかった。3回とも当たるなら、それは『知っている』と同じことだから、君を殺すところだった」

「そう、命拾いしてよかった」

いつの間にか抜ていた銃をしまって、ダンナは出ていった。




「クソックソッ…」

アジンの客が悪態をついている。

あれはトリフォーンかな。ここに降りてくるのは久しぶりだ。

セックス依存症で女の子を抱かないと一晩だって過ごせない。此処の常連だったけど、近頃は羽振りがよく上に入り浸っていたのに。

「ちくしょう…なめやがって…ちくしょう」

「どうしたの、かわいいフォーネチカ、悲しいことでもあったの?」

フォーネチカはトリフォーンの愛称。この辺では、名前に対して略称と愛称がセットでついてくる。

名前も略称、愛称もそんなにバリエーションがないから、名前が分かればその他も芋づる式で判明する。

略称は初対面じゃ呼ばないし、愛称はもっと親しい間柄でしか呼ばない。呼称で相手との距離感がばっちり分かる。ちなみに、よくわからないローカルルールとして、姓・父姓・名フルセットの本名は、親子か配偶者くらいごく近しい人にしか教えない、というのがある。なんとなく察することはできるけど、本人が直接教えることは、プロポーズとみなされるぐらいプライベートなことだ。

「アジン…みんな俺を妬んで、ひどいことするんだ。つらいよ」

「そう。ひどいわね。あなたはこんなにいい子なのに」

「うん。みんなひどいんだ」

「かわいそうに。ママがキスしてあげるわ。だから泣き止んで」

ここに来る客はよく殴るし、同じくらい子供に返る。愛情を受け取り損ねた証拠だ。だから愛する方法を知らないし、与えられなかった愛の代わりを未だに求めている。

アジンのクスリでふわりと甘くトんだ声は、そんな客によく効く。あの手練手管はズルいよねぇ。


「みんなに使うけどぉ。フォーネチカは少し違うの」

前にアジンがそんなこと言っていたっけ。

アジンは元々ここの上級娼婦だった。上級娼婦は見習の頃に姐さんにつき、様々なことを身に着けていく。アジンが見習いの頃についていたのが、トリフォーンの母親らしい。

トリフォーンの母親は美人で歌の上手い娼婦だったけど、男に入れあげた挙句、クスリに手を出して死んだ。この辺じゃ一山いくらで売るほどよくある話。

最期の方、彼女は息子と客の区別がつかなくなって、トリフォーンにクスリをねだるようになった。12かそこらのガキがクスリを手に入れようとするなら、売人になるくらいしかなくて、そこからはチンピラまっしぐら。

母親の愛情の代わりをセックスに求めるのはわかるけど、薬漬け娼婦ばっかり選ぶあたりがやりきれないよねぇ。

ドォ…ン…

んん?

なんか大きい音がした。人の騒がしい声も聞こえる。個室の窓から外の様子を伺う。

『4番区で爆発があった!』

『事故なの?』『襲撃か!?』

『消防車は…』『被害は…』

人の声と駆け回る足音、あと煙のにおいがする。

1ブロック先で爆発事故があったみたい。野次馬の感じからみて大分大きいのかな。


「ひっ!!アジン、アジン!」

「よしよし、大丈夫よ。フォーネチカ。怖くないからね」

「僕、悪くないんだよ。あいつ等が悪いんだ。僕にあんな事させたあいつらがっ」

トリフォーンがあからさまに怯えている。多分、この爆発事故に関係してる。たしか4番区っていえば、アレがあるところだけど…まさかね。

「そうよね。フォーネチカはいい子だもの」

「ねぇ、アジン…今、でかい仕事かかえているんだけど、それが終わったら一緒にここを出ようよ」

「そうねぇ…いいわよ。一緒に、いこうね」

こんな会話は毎晩、この島の至る所で交わされてる。

お互い了解済みの言葉遊びに過ぎない。

ただたまーに、百万回に一回くらい本当になったりする。

今回は、その一回な気がする。

縁起でもないねぇ。




「あむ…」

黒パンにスモークサーモン、クリームチーズとハーブをサンドする。それだけなのに、何でこんなにおいしいのか。ひと口食べれば、黒パンのかすかな酸味、サーモンの旨味、クリームチーズのまろやかさが口いっぱいに広がる。ハーブがピリッと絞めて、いい役割を果たしている。鼻を抜ける最後の吐息までおいしい。ほんとサンドイッチすごい。昔、トランプが大好きな伯爵が片手で食べられる料理として開発したらしいけど、こんなにおいしいのによくトランプに集中できたよね。

ラトマノフでは、レストランで優雅に食事をするのは、お客だけ。ここで働く人間は、屋台や買ってきて手早く済ますことが多い。なので、サンドイッチみたいな軽食が安価ですごく充実していて、私みたいなお花摘みでも買うことができる。サンドイッチのいいところは、手軽でおいしいところだけでなく、いろんな素材をいっぺんに食べられるところ。栄養を効率よくとれる。デザートにりんご食べたらちょうどいい感じ。


バタンッ

「はあー…しっかり稼いでおいでかい便所女ども!今週の家賃をおよこし!」

ヤーガ婆の奴、今日はいつも以上にイラついているな。

「ほら、アジン。トんでんじゃないよ。お出し」

「あはは~。このお金、蝶々になってるぅ~」

「次はドーバだよ」

「ひっ…はいっ」

コンコンッ

「トリー!」

「どうしたのさ。メンスでも再開した?」

「うるさいよ。絶壁の便所女。何年も3番に居座りやがって、薹が立ってきたんだ。そろそろ後輩に譲ったらどうだい」

ひと言いったら五も十も返ってくるのはいつものことだけど、今日はやたらと棘がある。扉じゃなくて扉についている小窓から今週分を支払う。

「便所に落としたい身内もいないだろうに」

「ふんっ」

「それで、何かあったの?」

「どうもこうもうないさね。ヴィナグラードとイヴァシーの小競り合いが激しくなってんだよ。何人も死んでる。ホラ、ここに出入りしていたルカとエゴールもさ。客は質の悪いのしか来ないわ、トラブルにいつ巻き込まれるかわからないわ。たまったもんじゃない」

ヴィナグラードとイヴァシーは昔から敵対していて、小競り合いは日常茶飯事だけど。

「なるほどね。それは困る」

「ほんとだよ。昨日はひときわ大きくて、ヴィナグラードの事務所が襲われたんだとよ」

「え…」

4番区だからまさかとは思ったど…。

「あーやだやだ。便所女どもキリキリ稼ぐんだよ!」

ヤーガ婆はそれだけ言って出ていった。

私は天井を見上げて、ヤーガ婆がもたらした情報について考える。

ヴィナグラードの事務所が襲撃された。事態は想像以上に深刻だ。

今までは娼館だとか賭場だとか、衝突はそれぞれの縄張りのあまり重要じゃない所でしか起こっていなかった。

2つの組織はどちらも同じような力だから、ぶつかり合うと互いの損傷が激しくて、たとえ勝ったとしてもそのまま潰れるおそれがある。だから今までは威嚇だけで本気じゃなかった。

それが今回は、事務所なんて言う重要な場所にまで事が及んでいる。

ヴィナグラードに思い入れはないけれど、この娼館はヴィナグラードの庇護下にある。無事ではいられない。

ヴィナグラードが勝てば、どうなるか。今まで通りの日常を取り戻さなければならない。戦いで気が立っている獣に女を宛がい、人間に戻す。ただでさえチリみたいな理性しか持っていない連中だ。女はぐちゃぐちゃにされるだろう。娼館は大事な商品を差し出すだろうか。いや、そんなもったいないことはしない。便器(わたしたち)を宛がうんだ。

イヴァシーが勝っても同じ。娼館は次の主に尻尾を振るために、商品を盛大に差し出す。幹部には上級な女、血で高ぶっている獣には私たちを。

前に港からかなり離れた地区に行くことがあって、そこのゴミ捨て場で見たことがある。

獣に欲をぶつけられた成れの果て。

辛うじて原形を留めてる。そんな有様だった。


どっちが勝っても死ぬ。視なくてもわかる…。アレにはなりたくない。頭にこびりついている空洞な眼窩。アレはいやだ。

死ぬ…死ぬのは、嫌だ。死ぬのは、怖い。

体が震えてる。指先からどんどん熱が抜け落ちていく。代わりに恐怖がまとわりつく。

考えろ、持っているカードで生き延びる方法…考えるんだ。



「もう、朝か」

外の音が聞こえてくる。鳥の鳴く声と屋台の声だ。

一睡もできなかった。一晩中考えたけど、いい方法が見つからない。

「うっ、げほっ」

隣でドーバが吐いている。安定期に入ったけど、つわりが長引いている。

「ドーバ、大丈夫?水飲める?」

「うん…大丈夫。ありがとう」

「ほら、いくよ」

ペットボトルを上から投げて渡す。

「ありがとう。楽になった」

「そっか。よかった」

「ねぇ、トリー」

「ん?」

「さいきん、騒がしいよね。お客さんもいつもより怒りっぽいし」

「そうだね。あんまり、殴られたくないね。ただでさえ、目が細いのに、腫れたらいよいよ目がなくなっちゃう」

「ふふっ。目は無くなんないよ。それに、トリーの目、夜空みたいですてきよ」

「ありがとう。私もドーバの目、晴れた日の青空みたいで好きだよ」

「えへへ、照れちゃう」

このあたりの娼婦は、母親も娼婦で生まれた時から娼館にいる人間が大半だけど、ドーバは大きくなってから娼館に来た。そのせいか娼婦にしては、珍しいくらい素直で、臆病な子だ。

可愛らしい見た目と優しい性格、そして大きい胸で娼館ではそこそこ人気だった。妊娠が発覚した後、娼館からどれだけどやされても、父親の名前は言わず下ろしもしなかったため、トイレに落とされた。娼婦は『売れないとあそこに落とすぞ』『あそこに比べたら今の待遇はマシ』と言われて育つから、お花摘みにきつく当たる。けど、ドーバはそんなことはせず、分け隔てなく接してくれた。

「トリー、あたし、怖いよ」

ドーバの声は、迷子みたいに心細く困り果てている。

「私も、姐さんたちみたいに壊されて、死んじゃうのかな…そんなの絶対いやだよ。この子だっているのに」

「うん…なら、出来ることから確実にやっていかないとね」

「できること?」

「うん。まずは、なるべく食べて、よく眠ること。そしてなにより笑顔でいること。ママが悲しい顔していたら赤ちゃんも悲しいでしょ」

「ふふっそうだよね。笑顔のほうがいいもんね」

「うん」

何の解決策にもなっていない。それでもやらないよりマシだろう。

どうしようもない状況にさらされて、魔法みたいな解決策なんて無くて、目の前のやれることをひたすらするだけだ。いつだってそう。光が見えないなら、探すしかない。暗闇でも進むしかない。

「あーあ。ブラーチなんか来なければいいのに」

「ブラーチが…来るの?」

ドーバの言葉に、まるでお告げみたいに閃いた。

そうだ。ブラーチをエサにすれば、あの人はのってくるかもしれない。

ブラーチはヴィナグラードお抱えの産科医だ。そのくせイヴァシーにも顔が利く。秘密を知りやすい立場だから、どちらの扱いもいい。

人となりは、ご多分に漏れずクズだ。女の苦しむ顔とあそこがセットで見られて興奮するから産科医になったといえば、どれくらい頭のネジがぶっ飛んでいるかわかると思う。

上級娼婦だって買えるのに、あえてトイレを選ぶ。毎回お花摘みを傷物にするから、ほんと来てほしくない。

「ねぇ、ドーバ。ブラーチ譲ってくれない?お金はあげるからさ」

「え?いいけど…」

私はドーバに頼みブラーチを譲ってもらう。

2つの組織、どちらが残ってもダメなんだ。どちらも共倒れになるくらい激しく食らい合ってもらうしか、生き残れる道はない。

ブラーチを裏切り者に仕立て上げることができたら、この状況に火を注ぐことが出来るかもしれない。そして、息も絶え絶えな2つの組織を食らうためにあの人を引っ張り出せるかもしれない。

背中の給水タンクの蓋をずらす。たぶんあるとしたらこの辺…あった、これだ。

これが、私の持っている中で、一番いいカード。私が引っ張り出したいあの人が仕掛けた盗聴器。

いろんな所に仕込んでいるんだろうけど、娼館のしかもトイレを選ぶあたり、ほんと恐ろしい。ここの常連は頭も口も軽い。それにブラーチを筆頭に、あえてここを使う変態どもの中には、組織の中で重要な位置にいる人間も存在する。情報収集、動向把握をするのに、ここは穴場スポットなんだ。私とは違う種類のよく視える目を持っているんだろう。


私の考えたついた作戦は、とてもシンプルで、とても他人任せだ。

ブラーチに盗聴器を仕掛ける。ヴィナグラードにブラーチが盗聴器を持っていることを暴かれれば、ブラーチがイヴァシーのスパイだとされるだろう。ヴィナグラードからイヴァシーへの報復が強まり、抗争が激化する。2組織とも立ち直れないくらい消耗する。

ガバガバだ。びっくりするぐらいガバガバだ。

ブラーチが盗聴器に気付いたらどうするんだとか、ヴィナグラードがイヴァシーに報復しなかったらどうするんだとか、抗争が激化しなかったらとか、どっちかが余力残して勝利しちゃうとか…お前一晩悩んでその程度かって声がどこかから聞こえそう。大丈夫!私が一番そう思ってる!!

まぁ、ヴィナグラード内で抗争激化を望む勢力があるとか、どちらも食らって漁夫の利を得たい第三勢力もあるのはわかっているから、きっかけがうまくいけばそんなに無理な話でもない…はず。

あと、成功率をあげるもう一つの小細工を今から行う。

皿に水を張る。血を一滴垂らす。水面に広がる波紋に合わせて意識を集中させる。波紋が静まった時、この水面は未来を覘く穴になる。

「この血の源流、始祖なる女神様。水と豊穣を司る女神様。あなたの子供がお願い申し上げます。湧き出でて過去から未来へ流れる時のこと。地中に走る水脈のごとく数多ある縁について、雨粒のごとく数ある未来ついて、そのひとかけらをお見せください」

女神様にお願いして未来を少しだけ視せてもらう。

未来は直前まで確定していない。無数にあるルートが近づくにつれて絞られていき、一つの未来が現実となる。ルートが切り替わるポイントはさまざまで、極端な話、靴を左足から履くか右足から履くかで変わったりする。もちろん私みたいな観測者の存在も影響する。そこを頭に入れて、どんなことをすれば、どの未来が現実に近づくのかを視ていく。

それで、今回視るのはブラーチの未来。ヴィナグラードの裏切り者として死ぬルートを視る。それより先の未来は、精確性がゴミレベルにおちるので視ることが出来ない。もっと力があれば別だけど。この前のダンナに見せた占いも同じように視えた結果を伝えている。妙に詩的なのは、遠すぎる未来だから。概ねのところは変わらないけど精度だけど細かいところが変わるから、具体的な言葉は避けた。

水面が凪いでいく。映った自分の瞳を覗き込む。光さえ飲み込む漆黒の、まさに穴。そこに飛び込むことを想像する。

とぷん

暗闇に糸が見える。縁の糸だ。神の意図。太さはまちまち。子供の腕くらいの太さもあれば、髪の毛よりも細い物もある。縁の糸の先には鏡。映っているのは未来。縁の糸が何本もついている鏡もあれば、1本しかついていないのもある。縁の糸が太くて、たくさんついている未来がより現実になる可能性が高い。

縁の糸は絶えず切られて結ばれて、痩せて太る。鏡もまた絶えず生まれて割れる。

糸にも鏡にも触れてはいけない。歩行のわずかな空気の動きですら、縁の糸は切れてしまうから息を殺してじっと佇む。望む未来を目視で探す。

あれだ。あの未来だ。つながっている縁を遡る。分岐点の未来を丁寧に見て、そこに結ばれている縁をまた辿っていく。

道は左に曲がる、赤い花を買う、金曜日の会食は魚を食べる、金髪の患者の手術は断る…

「あった!」

思わず声がでて一気に引き戻されるが、大事なポイントは分かった。ブラーチを裏切り者として殺されるルートのためには…

「盗聴器をジャケットの胸ポケットに入れる」

これで確率がぐっと上がる。なんでこれが影響するんだとか聞いてはいけない。全ては神のみぞ知るってやつだ。




「ありがとう。今日、とってもよかったよ~。気持ち良すぎて指折っちゃうくらい」

「よかったです。またいらしてくださいまし」

二度と来るんじゃねぇ!この××野郎!!

どんな時でも笑顔でお見送りするのが、プロってもんだ?

規制がかかる悪態ついても、指折られても!ええほんと…くっそ

「いっったぁ」

体中ガタガタで、特に折られた左手の小指がほんとに痛い。

治療するのもタダじゃないんだぞ。冷汗がベタベタして気持ち悪い。

もたれたトイレの蓋が冷たくて、不快感がほんの少しマシになった。

脈に合わせてジンジンと指が痛い。冷やして、固定しなきゃ。


ノロノロと処置をして、給水タンクで冷やしていたリンゴジュースを飲む。

ドーバはもう街を出た頃かな。

これから状況はどんどん危険になるから、ドーバは逃がした。

今まで貯めたお金、全部渡したから、多少は助けになると思うけれど。

どこかで、元気な赤ちゃんを産んでほしい。あの子、優しいママになると思うんだよね。


盗聴器はブラーチの胸ポケットの中だ。できることはした。あとは祈るしかない。

ホント上手くいってくれ。




「あいにく掃除中(休業)なんだ」

「掃除にしては大掛かりだね」

振り向いたらダンナがいた。

「ここを出るんだ。家賃を払えないし、色々ヤバくなってきたから」

週払い3,000エーブル。何をしても毎週金曜日にはこれを払わないといけない。これで寝床と看板を買っている。ろくでもないけど、無いより何万倍もマシ…だったんだけどなあ。

あれから、ヴィナグラードとイヴァシーの抗争は激化し、双方とも大きな損害をだした。

そして息も絶え絶えになったところを本島のアリオールが楽々とどちらも潰して、この島を手に入れてしまった。

アリオールはもともとヴィナグラードを援助していた。ヴィナグラードと密に交流したいからって連絡係(ダンナ)をよこすほどだったのに、隙ができればあっという間に食らってしまった。

有り金は全部ドーバに渡しちゃったし、アリオールはこの娼館をどう扱うかわからないしで、本当にしたくないが、外でサバイバルを選ばざるを得なかった。

「そうなんだ。今日はお礼を言いに。ありがとう。君のおかげでヴィナグラードもイヴァシーも腹に収めることができた」

「そう。それはよかった」

「ひとつ、聞きたいんだけど」

「なに?」

「君が盗聴器を見つけたことも、あの医者に仕込んだことも分かったんだけど。なぜあのタイミングを選ぶことが出来たの?」

「ここの客は忘れがちなんだよね。便器にも耳と目がついていること。出すもの出したら口まで軽くなっちゃうの」

口が渇くのがわかる。心臓、うるさい。初めて客を取った時より緊張している。

「仕掛けたのはヴィナグラードから。娼婦が1人死んだ夜に、ヴィナグラードんとこの三下のタラースとユーリが誇らしげにイヴァシーの組員をリンチしたって喋っていたから。その2人もすぐに川に浮かんでいたみたいだけど。同時多発的に起きた襲撃の前夜、三下その3のアレクセイが来たの。必死に腰を振っていた。あれは死に行く人間がする抱き方だよ。便器なんか抱かなくても好きな女の子の1人や2人抱けばいいのにね。イヴァシーの報復は事務所襲撃。あの夜はここまで騒がしかったから、相当大きな襲撃だったと思う。どちらも沢山の人間が死んだみたい。ルカもエゴールも死んだの」

ここに出入りしていたやつらを思い出す。犬猫みたいに私を踏みつけていたけど、あいつらも別の奴に踏みつけられたんだよなあ。

「ヴィナグラードは最近代替わりして、当代はとても臆病なんだ。むかーし面白半分で降りてきたから知ってるんだけどね。あの当代のことだから、本当は事務所を襲撃されたあたりで手打ちにしたかったと思うよ。でもそれじゃ、私は困るんだ。お花摘みが、獣になった人間を戻す為に、死ぬこと前提であてがわれることが明らかだからね。

私と同じように困る人間がいた。三下その5、トリフォーンっていうんだけどね。セックス依存症で、ずっとここを使っていたのに急に来なくなった。羽振りがよくなったんだって。裏切り者の典型だよね。トリフォーンはイヴァシーが勝たないと困る、しかも旗色は少しイヴァシーに悪くて、どうやら裏切りが露見しそうだったみたい。ひどくいら立ってまたここに下りてきたから。

そんな時に来たのがブラーチだった。ヴィナグラードのくせにイヴァシーにも顔が利く医者。産科の医者は少ないし、まあいろんな胤を取り上げたり下ろしたり秘密を知りやすい立場だったもの。だからブラーチに盗聴器仕込んだの。ヴィナグラードにとって裏切られると痛手が大きい人物、そんな人物が裏切ったかのようなそぶりを見せた。この戦いを続けたい人間が食い付かないはずがない。内心やめたくても報復には仕返しを、それが彼らの流儀。あとは泥沼の消耗戦。私は力がないから、できるのは木と油が揃ったときにマッチを投げ込むだけ。ほんと博打もいいところだけど上手くいったみたい」

「随分な博打だね」

「まあ、多少は小細工使ったけど」

自分の目を指さす。ダンナはこれで十分以上に察するだろう。

「すごいね。君は」

ダンナが笑ってる。ほんとに綺麗に笑う人だ。背筋が凍る。

「健気な蜘蛛のようだ。風雨に糸を切られても巣を毎日整えて、何日も飢えに耐えてエサを待つ。文字通りのこの肥溜めで場を整え、暴力にさらされても情報を一滴一滴集める。状況を冷静に見極め、耐えて待ち、チャンスを確実にものにする勇気。ああ、本当に素晴らしい!」

目は穏やかなアーチのままなのに、口は歯をむき出しにするくらい笑っている。悪魔が笑ったらこんな感じだろうか。

体が震える。それでも無理やり笑う。目は死んでも逸らすもんか。

「そう。こっちの賭けも上々そうでよかった」

「賭け?」

「そう2つ目の賭け。それはあなただよ、ダンナ。私はあなたに力を貸したかった。便所(ここ)が情報を集めるのに最適だと思ったから、盗聴器を仕掛けたんでしょ。わざわざ自分を刺して、ここに転がり込んでまで」

「なんだ、バレてたんだ」

「傷口見たらね。次からは誰かに刺してもらいなよ」

「ほんとによく見ているね」

「職業柄ってやつだよ」

ダンナはますます愉しそうに笑う。

「ヴィナグラードとイヴァシーが潰し合って消えてほしいあなたにとって、事務所を襲撃された時点でヴィナグラードが手を引くのは少々困ったはず、だからブラーチ(きめて)があればあなたが助かるかなって」

「君が私に力を貸す理由は?」

「どんなに目端が利こうと、私には力がない。外に出たらすぐに死んでしまう。生きるために力がいるんだ」

「それで私に?」

生まれてから今まで、選択肢なんかなかった。いつだって事態は突然襲ってきて、出来るのは少しでも痛くないように、体を小さく丸めてやり過ごすことだけ。

選ぶなんて、望むなんてしたことなかった。

これが、初めてだ。

望めば、叶う。望むとは自分の中に意思と覚悟を持つこと。

さあ、望め覚悟を決めろ、私。

「うん。私を外に連れて行って。私は、役に立つよ。あなたと同じものを見ることが出来る。そしてあなたが視えないものを視ることが出来る。これからあなたが歩む道は、千手先を読みあい食らい合う獣の道。誰も知りえない千一手目が視える私が、あなたには絶対必要なんだ」

ダンナの顔から表情が落ちる。冷徹な支配者の顔だ。怖い、背骨を恐怖が這い上がっていく。

ほんの少し、未来が見える程度。勘がいいに少し毛が生えた程度の精度しかないのに、この海千山千の悪魔相手にでかい口を叩いている。

絶対なんて、未来が見える占い師の端くれなら口が裂けても言わないようなこと、口にして。

ほんと今にも端から切れそうだ。

でも、そうしてでもこの人のそばにいたい。

昔お母さんが言っていた。女神さまが人間と結ばれたからうちの血筋は始まった。そして女神様は自分が一目惚れのたいそう素晴らしい恋愛をしたから自分の子供たちにも分けてやりたいと、呪いのような祝福をした。それからうちの血筋は、運命の相手が必ず現れる。性別、年齢、立場も関係ない。人ですらない時もあったらしい。そいつがどんなに厄介であっても、一度出会えば一途に尽くしてしまう。たとえ自分が滅んでしまったとしても。その祝福のせいで血筋は衰退していき、ついには極東にいられなくなった。

出会うまでは、いくらお母さんの話でも信じていなかった。でも、本当に抵抗なんてできないんだね。

外がいくら危険だからって、もう少しやりようがあると思う。こんな悪魔に身売りしなくたって。

わかっているのに…それでもどうしようもなく惚れてしまったんだ。この青い瞳に。

「なるほどね…」

カチャ

銃が、突き付けられた。

「これが返事?」

「どう思う?」

「タラース、ユーリ、アレクセイ、ルカ、エゴール、トリフォーン。私は今5人の客について喋っている。股がゆるいのは歓迎されても、口が軽い娼婦は歓迎されてもい。ここまでかな」

「諦めるのが早くないかい?泣いて命乞いすれば助かるかもしれないよ」

「ダンナ、そんな人じゃないでしょ。もとから決めていたんだよ。これは私が生きるための最大の賭けなんだ。だから命を賭ける。負けたらそこでお終いにするって…ぐずっ」

実はさっきから膝が笑っていて、目には涙がたまっている。ほぼ、泣いているのと変わらない。恐怖でぐずぐずであっても、相手にそれがバレバレであっても、命乞いだけは絶対ヤダ。

「ふふ…ほんとに素晴らしいね。馬鹿は嫌い利口が好き。臆病は嫌い慎重が好き。蛮勇は嫌い勇敢が好き。命を投げ出すのは大嫌い命を懸けるのは大好き。だから…」

銃が下ろされる。

「名前は?」

「ト・・・ハナコ。ミツハ・ハナコ」

本名を伝える。お母さんが亡くなってから誰も呼ばなくなった名前。極東の女神様にルーツをもつ名前。

「ハナコ、私はクリメント・アイラドヴィチ・スミルノフ。君は賭けに勝ったよ。君が生きるのに必要な全てを、私が保障しよう」

名・父姓・姓で構成される本名は、本人が人に直接教えることは滅多にない。ましてや占い師に教えるのは、命を差し出すのと同義だ。

「なんで…なまえ」

「君は命を懸けた。私もそれに報いないとね」

クリメントは、天使のように慈悲深く微笑んだ。

「ひとつ約束しようか。君が裏切るにせよ私が裏切るにせよ、離れるときは苦しまず一瞬で終わらせてあげる」

「はは…それはうれしいな」


この時私は望んだとおり外に出ることができた。生き延びるための力も手に入った。

けれど、今後についてかなり不安に思っていて、それは的中した。

私はこの後、死ぬまで運命の相手であるクリメントに翻弄されることになる。あの天使のように慈悲深く微笑む悪魔は、私が憎しみに歯を食いしばり、恐怖に冷汗をかき、悲しみに涙を流すこと何よりも愉しみ、そしてそれらと同量の幸福を私に与えた。




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